毅宗・崇禎帝
明|在位 1627–1644年
- 諱(本名)
- 朱由検
- 在位
- 1627–1644年
- 在位期間
- 16年210日365名中73位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 18歳(数え年)172名中・若い順65位タイ
- 没年齢
- 35歳(数え年)269名中・長寿順164位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 7回225名中58位タイ
- 被反乱
- 10回289名中48位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
光宗第五子、信王。兄・熹宗に実子がなく、熹宗の大漸に際し召されて顧命(遺詔)を受け即位。
出典: 明史 本紀二十三(荘烈帝一)
死因の経緯
崇禎17年3月、李自成軍の北京内城陥落を受け、景山(万歳山/煤山)にて崩御、宦官王承恩が殉死。衣の襟に遺書(「朕死無面目見祖宗,自去冠冕,以髪覆面」)を残しており、本紀の賛でも「帝之蒙難而不辱其身,為亡国之義烈矣」と亡国に殉じた自裁として評価している。
出典: 明史 本紀二十四(荘烈帝二)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
崇禎帝は在位十七年間(天啓七年即位〜崇禎十七年崩御)を通じて年号「崇禎」のみを用い、途中での改元は本紀に見えない。よって建元1回のみカウント。
大赦回数
崇禎九年五月壬子の「詔赦協從諸賊」は流賊の帰順者に限る限定的な恩赦(罪状限定)であり、大赦天下に該当しないため対象外とした。ほかに「大赦天下」「赦天下」「大赦」と明記される全国規模の事例は卷二十三・二十四中に見当たらない。
立后回数
在位中、周皇后以外の皇后冊立・廃后・復位の記載は本紀に見当たらない(同年正月壬午の「尊熹宗后為懿安皇后」は先帝熹宗の皇后への尊称であり、荘烈帝自身の立后ではないため対象外)。崇禎十七年三月丙午「皇后周氏崩」は北京陥落時の周皇后自尽の記事で立后ではない。
皇太子廃立回数
崇禎三年二月庚申に皇長子慈烺が皇太子に立てられて以降、廃立の記載は本紀中に見当たらない。崇禎十七年の北京陥落・帝崩御まで皇太子の地位に変動はなく、廃立事例は0件。
親征回数
明史本紀(荘烈帝一・二)を通読したが、「帝親征」「帝自将」等、皇帝本人が自ら軍を率いて出征したことを示す記述は一切見当たらなかった。北京防衛時も「幸正阳门楼,饯李建泰出师」(李建泰の出征を見送っただけ)等、終始将軍(袁崇焕・洪承畴・卢象升・孙传庭・李建泰等)に代理出征させており、本人不出征のため0件と判定した。
反乱鎮圧回数
明史本紀(荘烈帝一・二)を通読し、国内で発生した服属民の反乱・軍事叛乱のうち崇禎帝の在位中に鎮圧(討滅・捕縛処刑・投降受理・地域奪還等)に成功したもの7件を計上した。後金(清)との戦争は対等勢力・独立勢力(対外戦争)として本フィールドから除外した。李自成の乱・張献忠の乱・罗汝才の乱(第二次、崇禎12年再叛以降)は在位終了まで鎮圧できず、rebellionSufferedCountのみに計上した(RULES例外(2)、明末は鎮圧できないまま崩御・滅亡するケースが多いとの想定通り)。集計粒度は連続する一つの蜂起・首魁を史料上ひとつの「乱」として括る単位を採用し、個々の戦闘・遭遇戦は独立カウントしていない(RULES例外(1)の粒度差)。判断に解釈の幅があるためconfidenceはmedium。
被反乱回数
上記7件は対応するrebellionSuppressionCountの各事件と対で計上した。加えて、在位終了まで明朝が鎮圧できなかった3件(罗汝才の乱・第二次、張献忠の乱、李自成の乱)を追加計上し、合計10件とした。後金(清)との対外戦争は対等勢力・外国として除外し、播州楊応龍の乱のような西南少数民族反乱は本紀中に該当記事が見当たらなかったため計上していない。suppression(7)<suffered(10)の不一致はRULES例外(2)「未鎮圧のまま在位終了」に該当する明末特有のパターンであり、記入漏れではない。判断に解釈の幅があるためconfidenceはmedium。
遷都回数
明史本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(南京→北京の遷都は永楽帝の代の出来事として計上済み。洪武帝期の鳳陽「中都」構想は未完成のまま放棄され実行されず)。
即位時年齢・没年齢
明史本紀(荘烈帝一)冒頭に「庄烈愍皇帝,讳由检,光宗第五子也,万历三十八年十二月生」とあり、生年月(万暦38年〔1610〕12月、太陰暦のため西暦換算では概ね1611年1〜2月頃)が判明する。ただし原文中に崩御時・即位時の直接の享年記載(「年◯◯」「寿◯◯」等)は見当たらなかったため、数え年の年号年ラベル差分による逆算値を採用した:即位時年齢=天啓7年(1627)-万暦38年(1610)+1=18歳、没年齢=崇禎17年(1644)-万暦38年(1610)+1=35歳。没日は既存reigns[0].endDate(1644-04-25、崇禎17年3月19日、景山にて自尽)と一致させた。生年の日にちまでは原文に明記がないためbirthDateは月精度に留め、直接記載の享年ではなく逆算値であることからconfidenceはmediumとした。
在位中の出来事(22件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1627年10月2日天啓七年八月丁巳、即皇帝位。
天啓七年八月丁巳、即皇帝位。「丁巳、即皇帝位。大赦天下、以明年為崇禎元年」―即位に伴い建元、翌年を崇禎元年とする。在位中この後の改元はない。
大赦1627年10月2日天啓七年八月丁巳、即位に際し「大赦天下」。
天啓七年八月丁巳、即位に際し「大赦天下」。全国規模の大赦。
立后1627年11月4日天啓七年九月庚寅、「冊妃周氏為皇后」。
天啓七年九月庚寅、「冊妃周氏為皇后」。周氏を皇后に冊立(後の荘烈帝の皇后周氏、明亡時に自尽)。
反乱鎮圧1629年薊州兵変
首謀者: 薊州駐屯兵(首謀者不明)
結果: 撫定
崇禎2年3月戊寅「蓟州兵变,有司抚定之」。
被反乱1629年薊州兵変
首謀者: 薊州駐屯兵(首謀者不明)
結果: 撫定
崇禎2年3月。
大赦1629年2月26日崇禎二年二月庚寅、「皇長子慈烺生、赦天下」。
崇禎二年二月庚寅、「皇長子慈烺生、赦天下」。皇長子誕生を機に天下に赦す。
反乱鎮圧1630年〜1631年陝西流賊初期蜂起(王嘉胤・上天龍・劉六ら)
首謀者: 王嘉胤(上天龍・劉六ら含む)
結果: 討滅
崇禎3年6月「流贼王嘉胤陷府谷」に始まり、崇禎4年4月「曹文诏击贼于河曲,王嘉胤败死」で首魁討滅、同年に配下の上天龍(降)・劉六(斬)も鎮圧。
被反乱1630年〜1631年陝西流賊初期蜂起(王嘉胤・上天龍・劉六ら)
首謀者: 王嘉胤(上天龍・劉六ら含む)
結果: 討滅
陝西饑民苦加派を契機に大規模化した流賊蜂起の初期段階。
被反乱1630年張献忠の乱
首謀者: 張献忠
結果: 未鎮圧のまま在位終了(四川で独立勢力として存続)
崇禎3年6月「米脂贼张献忠聚众应之」に始まり、崇禎11年4月に谷城で伪降するも翌年再叛、以後河南・湖広・江西・湖南を転戦し、崇禎17年時点でも四川で活動継続中(成都占拠は荘烈帝崩御と同年)。伪降は史料上「伪」と明記され実質を伴わない一時的なものだったため、明朝による実質的鎮圧とは認めずrebellionSuppressionCountには計上しなかった。
大赦1630年3月23日崇禎三年二月庚申、「立皇長子慈烺為皇太子、大赦」。
崇禎三年二月庚申、「立皇長子慈烺為皇太子、大赦」。皇太子冊立を機に大赦。
反乱鎮圧1631年〜1633年孔有徳の乱(登萊兵変・呉橋兵変)
首謀者: 孔有徳
結果: 山東奪還・鎮圧(孔有徳本人は海路で清へ亡命し明軍による捕縛には至らず)
崇禎4年閏11月「登州游击孔有德率师援辽,次吴桥反」に始まり、崇禎6年2月「孔有德遁入海,山东平」で明領内は鎮圧・平定。ただし孔有徳自身は同年5月に後金へ投降しており、完全な捕殺には至っていない。
反乱鎮圧1631年〜1638年罗汝才の乱(第一次)
首謀者: 罗汝才
結果: 投降受理(谷城にて帰順)
崇禎4年11月「流贼罗汝才犯山西」に始まり、崇禎11年(十一月条)「是月,罗汝才降」で明朝が投降を受理。翌年に再叛するため(下記suffered参照)、この投降受理をもって第一次の乱の終結・鎮圧成功と扱った。
被反乱1631年〜1633年孔有徳の乱(登萊兵変・呉橋兵変)
首謀者: 孔有徳
結果: 明領内は鎮圧されるも首魁は清へ亡命
登州・莱州等山東沿海を占拠される大規模な兵変。
被反乱1631年〜1638年罗汝才の乱(第一次)
首謀者: 罗汝才
結果: 投降により終結
崇禎11年に谷城で帰順。
反乱鎮圧1634年〜1636年高迎祥(闖王)の乱
首謀者: 高迎祥
結果: 捕縛・京師にて処刑
崇禎7年6月の車箱峡包囲(伪降で脱出)を経て、崇禎9年7月「巡抚陕西都御史孙传庭击擒贼首高迎祥于盩厔、送京师伏诛」で捕縛・処刑。
被反乱1634年〜1636年高迎祥(闖王)の乱
首謀者: 高迎祥
結果: 捕縛・処刑
車箱峡での伪降・脱出を含む陝西・河南一帯の大規模な流賊活動。
被反乱1634年〜1644年李自成の乱
首謀者: 李自成
結果: 鎮圧できないまま北京陥落・帝崩御、明滅亡
崇禎7年の車箱峡の役で高迎祥と並記され初出。崇禎11年に洪承畴・曹変蛟が潼関南原で大破し「以数骑遁」と壊滅的打撃を与えたが捕殺には至らず、以後河南・陝西で再興、崇禎16年に西安を占拠、崇禎17年3月19日に北京を陥落させ荘烈帝を自尽に追い込み明を滅ぼした。RULES例外(2)の典型例として、鎮圧側(rebellionSuppressionCount)には計上せずrebellionSufferedCountのみに計上した。
反乱鎮圧1636年寧夏兵変
首謀者: 寧夏駐屯兵(首謀者不明)
結果: 撫定
崇禎9年「宁夏饥,兵变,杀巡抚都御史王楫,兵备副使丁启睿抚定之」。
被反乱1636年寧夏兵変
首謀者: 寧夏駐屯兵(首謀者不明)
結果: 撫定
崇禎9年、巡撫都御史王楫殺害を伴う兵変。
被反乱1639年〜1643年罗汝才の乱(第二次)
首謀者: 罗汝才
結果: 未鎮圧のまま李自成に殺害・吸収され消滅(明朝による鎮圧に至らず)
崇禎12年4月「张献忠叛于谷城,罗汝才等起应之」で再叛。崇禎16年3月「李自成杀罗汝才,并其众」で消滅したが、これは同盟者による粛清であり明朝の鎮圧成果ではないためrebellionSuppressionCountには計上しない(RULES例外(2)に準じる)。
反乱鎮圧日付不詳水西賊(奢崇明・安邦彦)残党鎮圧
首謀者: 奢崇明・安邦彦
結果: 討滅(斬殺、水西賊平定)
天啓元年からの残党討伐。崇禎2年8月甲子「总兵官侯良柱、兵备副使刘可训击斩奢崇明、安邦彦于红土川,水西贼平」。反乱発生自体は先帝熹宗の代だが、鎮圧完了は荘烈帝の治世中。
被反乱日付不詳水西賊(奢崇明・安邦彦)残党
首謀者: 奢崇明・安邦彦
結果: 被害後、明軍により討滅(崇禎2年8月)
天啓年間からの反乱の残党。荘烈帝即位時点でなお明朝が対応を要する脅威として継続していたため被反乱側にも計上(跨治世事例)。