
即位してすぐ魏忠賢を除いたが、李自成の軍に北京を落とされて命を絶ち、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分がその死をもって明の滅亡と記す皇帝である。
崇禎帝の人物データ
- 生年
- 1610年1611年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1610年12月)
- 在位
- 1627年10月2日〜1644年4月25日
- 没年
- 1644年4月25日35歳(数え年)長生き順同率162位/266人
- 死因
- 自害自ら命を絶った死。廃位や敗戦に追い詰められての死や、朝廷から死を賜った死を含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因15人/365人
- 呼び名
- 姓朱諱由検廟号毅宗諡号荘烈愍皇帝元号崇禎呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 本紀第二十三・
二十四 庄烈帝一・ 二 - 死因
- 明史 本紀二十四(荘烈帝二)
- 即位経路
- 明史 本紀二十三(荘烈帝一)
生涯
どんな皇帝か
明史の賛は、声色に近づかず政務に励んだが、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男を信任するなど手立てを誤ったと評する。明史の流賊伝は、疑い深いため苛酷で恩が薄く、気負いが強いため慌てて手を誤り、敗れれば将を殺し、城を失えば官吏を殺したとし、亡国の君ではないが亡国の運に当たり、救う手立ても欠いていたと結ぶ。
治世と最期
即位の年に魏忠賢を鳳陽へ移して逮捕を命じると、魏忠賢は途中で聞いて首をくくり、翌年その屍は磔にされた。即位後、5歳で失った母の肖像が無く、似た宮人宮中に仕え暮らした女性たちをもとに描かせて跪いて迎えた。老いた宮女たちに見せると、似ていると言う者も似ていないと言う者もいて、帝は涙を流した。清軍が京師に迫るなか袁崇煥を獄に下し、1630年に殺した。本紀は理由を書かないが、袁崇煥伝によれば、都の誹謗で疑ったところへ清の反間敵の中に仲たがいを起こさせる計略が加わったためで、下獄後は魏忠賢の残党が罪を追及し、謀叛で磔にされた。天下は冤罪と見た。皇后と言い争って押し倒したときは、悔いて貂の敷物を贈り、様子を尋ねさせた。戦乱のため菜食を続けたが、亡き母が夢で食を苦しくしすぎるなと言ったと瀛国夫人が奏上すると、箸を取って皇后と泣いた。
1643年の暮れに平陽が落ちると、李建泰伝によれば、朕は亡国の君ではないが事ごとに亡国の兆しがあると嘆き、戦場で死んでも恨みはないが目を閉じられないと泣いた。南遷を勧められると、国君は国に殉じるものだと言い、太子を南京へ出す請いも退けた。翌年、李自成の軍が外城を落とした夜、大事は去ったと泣く帝に、皇后は18年仕えて一言も聴かれなかったと答えた。帝は皇后に自害を命じ、袁貴妃と妃嬪数人を剣で斬ったが、袁貴妃は死ななかった。衣を引いて泣く長平公主には、なぜわが家に生まれたのかと言って左腕を斬り落とし、昭仁公主も斬った。長平公主は5日後に息を吹き返した。
本紀は、帝が万歳山で没し、衣の襟に、朕は徳が薄く天の咎めを受けたが、みな諸臣が朕を誤らせた、身は賊が裂くに任せ、民は一人も傷つけるなと書いたと記し、自ら縊れたとも煤山とも書かない。流賊伝は、帝が煤山の山亭で帛を用いて自ら縊れ、王承恩もそばで縊れたと書く。
崇禎帝とつながる皇帝

勢力図
明清交替の勢力図で見る
1627–1643年の地図に、崇禎帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱10・皇后1・改元1・大赦3
- 改元1627年10月2日元号を「崇禎」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1627年10月2日
- 皇后1627年11月4日皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1629年
- 反乱1629年薊州兵変
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1630年
- 反乱1630–1631年陝西流賊初期蜂起(王嘉胤・
上天龍・ 劉六ら) - 反乱1630年張献忠の乱
- 反乱1631–1633年孔有徳の乱(登萊兵変・呉橋兵変)
- 反乱1631–1638年羅汝才の乱(第一次)
- 反乱1634–1636年高迎祥(闖王)の乱
- 反乱1634–1644年李自成の乱
- 反乱1636年寧夏兵変
- 反乱1639–1643年羅汝才の乱(第二次)
- 反乱日付不詳水西賊(奢崇明・
安邦彦)残党
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が