弘光帝の人物データ
- 生年
- 1607年9月5日
- 在位
- 1644年6月19日〜1645年6月15日
- 没年
- 1646年6月40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- 崇禎帝明弘光帝は崇禎帝の従兄弟
- 次代
- 隆武帝南明隆武帝は弘光帝の同族(遠縁)
- 呼び名
- 姓朱諱由崧廟号安宗元号弘光呼び名の見方
出典
- 在位
- 小腆紀傳 紀第一・
紀第二 安宗/小腆紀年 順治二年・ 順治三年/明史 巻一百二十 福王伝 - 死因
- 小腆紀傳 巻一・
巻二(弘光紀上下)/小腆紀年 順治三年五月条 - 即位経路
- 小腆紀傳 巻一(弘光紀上)
生涯
即位まで
万暦帝の孫で、福王朱常洵の長子である。1641年に李自成に父が殺されると懐慶へ逃れ、1643年に福王を継いだ。1644年、北京が陥ちると、南京の重臣は不孝・不読書・貪・淫・酗酒など七つの不可を挙げて潞王を推したが、馬士英が諸将と結んで兵を率い福王を迎えると、諸大臣は口をつぐんだ。同じ年に南京で即位して弘光と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
治世と最期
黄澍が面前で馬士英の奸貪を責めると、帝は長く首を振って言葉が無かった。士英に金を贈られた宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の田成らに、馬公でなければ立てなかったと泣かれると、士英を退けなかった。浮かぬ顔の理由を問われて新しい歌が無いと答え、自ら灯籠を張るのを諫められると、天下の事には老馬、つまり馬士英がいると言った。1645年、福王時代の妃を名乗る童氏が都へ送られると、妖婦と呼んで獄に下した。
同じ年に清軍が揚州を陥し、南京の城門が閉じられると、親征君主が自ら軍を率いて戦いに出ることの勧めを聴かずに梨園芝居や歌舞を演じる役者の世界。役者たちの子弟と酒を飲み、夜に南京を出た。黄得功の陣に逃れたが、得功が自刎すると田雄に背負われて清に降され、南京で豫王になぜ逃げたのかと問われて、汗を流して黙っていた。北へ送られ、1646年に北京で潞王とともに殺された。
史料について
灯籠と老馬の話を記すのは小腆紀伝の韓賛周伝や爝火録などで、明史には無い。童氏を、小腆紀伝の后妃伝と馬士英伝は拷問を受けて獄死したとし、聖安本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は生死を不明とする。南京を出た日を、明史は章によって違える。小腆紀伝の本紀は北京で没したとだけ書き、同書の潞王伝が潞王とともに害されたとするが、どう死んだかは書かれない。馬士英を、小腆紀伝の本紀はいったん免じてまもなく復職させたとする。明史の福恭王伝は闇弱で酒色に溺れ政を馬士英らに委ねたと評する。南疆繹史が引く李清は、宦官と外臣が過ちを帝に帰したとかばったが、南疆繹史の勘本は、それは臣が君をかばう言葉にすぎないと批判する。
弘光帝とつながる皇帝

勢力図
明清交替の勢力図で見る
1644–1645年の地図に、弘光帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1・大赦2
- 反乱1644–1645年許都残党の乱(東陽・金華一帯)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1644年6月7日監国就任の告天礼直後に大赦。
- 改元1644年6月19日元号を「弘光」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1644年6月19日皇帝即位・
改元弘光と同日の詔で大赦。 - 反乱1645年左良玉の東征(清君側を掲げた武力反乱)
南明の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代弘光帝1644–1645年処刑
- 第2代隆武帝1645–1646年諸説あり
- 歴代外紹武帝1646年諸説あり
- 第3代永暦帝1646–1661年処刑
年表
明・
南明が
