安宗・弘光帝
南明|在位 1644–1646年

- 諱(本名)
- 朱由崧
- 在位
- 1644–1646年
- 在位期間
- 2年12日365名中261位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 38歳(数え年)172名中・若い順129位タイ
- 没年齢
- 40歳(数え年)269名中・長寿順131位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
史可法ら文臣は潞王擁立を主張したが、鳳陽総督馬士英が江北四鎮(黄得功・高杰・劉澤清・劉良佐)の武将勢力と結び福王擁立を既成事実化。史可法は追認する形で南京にて監国、即位に至った。
出典: 小腆紀傳 巻一(弘光紀上)
死因の経緯
蕪湖で黄得功軍が敗れ捕縛され、南京で清・豫親王多鐸に引見された後、北京へ護送された。翌年(順治3年)5月、潞王朱常淓と共に「見殺」(処刑)された。処刑の具体的方式(斬・絞等)までは参照史料に明記なし。
出典: 小腆紀傳 巻一・巻二(弘光紀上下)/小腆紀年 順治三年五月条
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
本紀通読の結果、改元は即位時の「弘光」建元1回のみ。
大赦回数
本紀中「大赦天下」の明記は上記2件のみ(他に「已經大赦」との後日言及が1件あるが同一事象の再言及であり新規イベントではない)。「釋高墻罪宗前唐王聿鍵等三百餘人」(宗室のみの部分的赦免)や「宥縉彦、永吉勿問」(特定個人の赦免)は全国規模の大赦天下に該当しないため計上せず。
立后回数
在位中に生存する皇后の正式冊立の記録なし。「礼部請立中宮、詔以列聖先帝之讎未報、不許」(丙寅十日)、「高宏図等請建中宮、諭俟母后回鑾日行」(壬子二十七日)といずれも中宮冊立の請願は却下・先送りされ、実現せず崩御。元妃黄氏・継妃李氏はいずれも即位前に死去しており、即位時に行われたのは追諡(追封後号)のみ(「朕元妃黄氏、先朝冊封、不幸夭逝;継妃李氏、又已殉難。登極之初、即追封後号」)で、生前の皇后冊立には該当しない。
皇太子廃立回数
弘光帝自身の皇太子(法定推定継承者)の冊立記録がなく、廃立の記録もない。本紀に見える「皇太子」関連の記述はいずれも前朝崇禎帝の皇太子・二王に関するもの(北京陥落時の遇害、追諡「献愍」等)で弘光帝自身の後継者ではない。また「北来太子」事件(乙酉三月)は崇禎帝の皇太子を詐称した偽者(王之明)を審理の上偽者と断定した事件であり、弘光帝自身が立てた皇太子の廃立には該当しない。
親征回数
小腆紀傳巻一・巻二を通読。清軍の渡江(瓜州・鎮江陥落)直後、太監韓賛周が『不若亲征、済则可以保社稷』と親征を進言したが、上聴かず(不聴)、集めた梨園子弟と酣飲したのみで、実際に軍を率いて出陣した事実はない。生涯を通じ皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた記録は確認できなかった。
反乱鎮圧回数
原典(小腆紀傳)は蜂起自体と朝廷側の処分のみ記録し鎮圧の直接描写を欠くため、近現代の学術的信頼サイトの記述で補完。鎮圧の正確な月日は不詳。
被反乱回数
対清朝との戦争(清軍による南京陥落・弘光帝捕縛)は判定基準5により対等な独立勢力間の戦争として除外(deathCauseとの重複は許容)。両事象とも朝廷の統治下にある服属勢力/内部権力者による武装蜂起のため計上。高杰と黄得功の私闘(仪真での衝突)・刘泽清の掠奪的撤退・田雄らによる皇帝捕縛協力は、皇帝への反乱行為というより将領間抗争・清への投降であり本項からは除外。
遷都回数
南明野史等を通読。南京(明の陪都、建国時の定都)に在位中一貫して留まり、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年は万暦三十五年七月乙巳(1607-09-05)、複数の学術的信頼サイト(百度百科・維基百科等)で一致。没日は既存deathCause/reigns.endDate(1646-07-01、清・順治3年5月甲子)を採用。数え年で算出:即位(1644年、弘光元年五月壬寅・武英殿にて即位)時38歳、没時40歳。
在位中の出来事(6件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦1644年6月7日監国就任の告天礼直後に大赦。
監国就任の告天礼直後に大赦。「庚寅(初三日)、王行告天礼…升殿…徐宏基跪進監国宝…乃退。発大行皇帝喪、大赦天下、其新加練餉及崇禎十二年以後一切雑派並各項銭糧十四年以前実欠在民者悉免之」。監国としての発令だが本紀に明記された全国規模の大赦。
出典: 小腆紀傳 紀第一
改元1644年6月19日監国から即位に伴う建元。
監国から即位に伴う建元。「壬寅(十五日)、王即皇帝位、改元弘光」。以後改元の記述なし(在位は1645年まで「弘光」のまま)。
出典: 小腆紀傳 紀第一
大赦1644年6月19日皇帝即位・改元弘光と同日の詔で大赦。
皇帝即位・改元弘光と同日の詔で大赦。「壬寅(十五日)、王即皇帝位、改元弘光。詔曰…其以明年為弘光元年、与民更始、大赦天下」。
出典: 小腆紀傳 紀第一
反乱鎮圧1644年10月〜1645年許都残党の乱(東陽・金華一帯)
首謀者: 許嘉応・丁汝璋ら(処刑済みの許都の残党)
結果: 官軍により鎮圧
崇禎十七年正月(1644年2月、弘光帝即位前)に処刑された東陽の許都の残党が弘光元年に再蜂起し金華・湯渓・武義・永康・義烏を攻略。小腆紀傳では弘光元年九月辛亥(二十六日)条に『以東陽許都余党複乱、夺巡抚黄鳴俊官、逮前巡按御史左光先』とあり朝廷が担当官を処分した記録のみ確認、鎮圧の詳細は近現代の学術的信頼サイト(東陽市政府サイト等)で『次年(1645年)也为官军所败』と補足確認。弘光帝在位中(1645年、南京陥落前)に鎮圧完了したとみられる。
被反乱1644年10月〜1645年許都残党の乱(東陽・金華一帯)
首謀者: 許嘉応・丁汝璋ら(処刑済みの許都の残党)
結果: 官軍により鎮圧
服属民(旧許都残党)による武装蜂起。rebellionSuppressionCountと同一事象を両面計上。
被反乱1645年4月左良玉の東征(清君側を掲げた武力反乱)
首謀者: 寧南侯左良玉(病没後は子・左夢庚が継承)
結果: 未鎮圧のまま政権崩壊(南京陥落)で終結
朝廷から寧南侯に封じられ太子太傅まで加官された内部権力者・左良玉が『清君側』(馬士英討伐)を名目に武昌で挙兵・東下、九江で病没後は子の左夢庚が継承し安慶・池州まで進軍。黄得功が坂子磯で一時撃退(『黄得功击左梦庚于坂子矶、败之』)したが完全鎮圧には至らず、清軍の南京侵攻(1645年5月)により弘光朝が崩壊、左夢庚はのち清に降伏した。判定基準2-(2)『未鎮圧のまま在位終了』に該当しsufferedのみ計上、suppressionには含めない。