中国皇帝統計

紹宗・隆武帝

南明|在位 1645–1646年

紹宗・隆武帝の肖像
諱(本名)
朱聿鍵
在位
1645–1646年
在位期間
1年49日365名中289位
即位経路
擁立
死因
諸説あり
即位時年齢
44歳(数え年)172名中・若い順147位
没年齢
45歳(数え年)269名中・長寿順105位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
145名中12位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

南安伯鄭芝龍・定虜伯鄭鴻逵の兄弟(軍事勢力)が推戴の中心となり、少数の文臣も加わって「推戴」。鄭鴻逵の主張で監国から即位へ進んだ。

出典: 小腆紀傳 巻三(隆武紀)

死因の経緯

汀州での捕縛時の死に方が史料間で異なる。徐鼒(著者)は『台湾外紀』の目撃証言に基づき、汀州府大堂で曾皇后と共にその場で殺害されたとする説を採るが、他の諸書は捕縛後福州へ護送され市中で斬られたとする説を伝える。替え玉が身代わりに死に本人は五指山で生存し出家したとする第三説もあるが著者は真偽不明として採らない。既存の「矢創説・絶食説」は参照した準正史(小腆紀傳・小腆紀年・明季南略)には見当たらず、矢傷は護衛官の戦死、絶食は文臣蒋徳璟の殉節の記述であり、帝本人のものと混同されている可能性がある。

出典: 小腆紀年 隆武二年八月条(考証注)/小腆紀傳 巻三(隆武紀)/明季南略 巻十

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う建元「隆武」1回のみ。在位中(1645-1646、隆武二年まで)に他の改元は確認できない。

大赦回数

本紀中「大赦」の語は3箇所に出現するが、うち1件(『会南都立,大赦,出高墙』)は隆武帝がまだ唐王として高牆に幽閉されていた崇禎~弘光期の出来事(南京・弘光政権による大赦で、隆武帝自身が発した大赦ではない)ため対象外とした。隆武帝自身の治世中の全国規模の大赦は即位時と元子誕生時の2件。

立后回数

count=1、events.length=1で一致。日付は閏六月二十七日即位(グレゴリオ暦1645-08-18)を起点に八月十三日を概算したもので、正確な日換算はしていないため月精度(datePrecision: month)とし、confidenceはmediumとした。冊立自体(曾氏=皇后)の事実そのものはhighの確度で原文に明記されている。

皇太子廃立回数

本紀中に皇太子の冊立・廃立に関する記述は見当たらない。元子(皇子)誕生(隆武二年六月)の記事はあるが、これを皇太子に立てた旨の記述はなし。なお浙東の魯王(監国)に対し『朕无子,王为皇太侄,朕有天下,终致于王』(隆武二年正月)と皇太侄(皇太子相当の継承候補)とする勅諭を発しているが、これは自身の朝廷内で正式に立てた皇太子ではなく他政権(魯監国)との連携・和解のための外交的申し出であり、かつその後廃止された事実も確認できないため対象外とした。同年八月に隆武帝は汀州で清軍に殺害され在位終了。

親征回数

在位中の親征は隆武元年末〜二年にかけての江西・湖南方面への出征1回のみ(実際は郑芝龙の妨害で戦場に至らず、逃走中に捕縛・落命)。清朝との戦争そのものは対等な独立勢力間の抗争として本ブロックの基準上rebellion系カウントには含めないが、personalCampaignCountは皇帝本人が軍を率いて出陣した事実に基づき計上する(先例:shuhan-zhaoliediの対呉親征と同様の扱い)。

被反乱回数

馬胫嶺兵変(隆武二年二月、『命路振飞往浦城安抚』の一文のみ)は首謀者・規模・武力行使の実態が原文から確認できず、調査済みだが不明として本カウントには含めなかった。清朝との戦争(仙霞関失陥・汀州捕縛など)は対等な独立勢力間の戦争として本ブロックの基準上除外(deathCauseと内容が重複するが計上しない)。

遷都回数

在位中に遷都1回(1645年 南京(弘光帝の都、明の陪都)→福州(隆武帝、「福京」と改称))。

即位時年齢・没年齢

生年は複数の現代資料(維基百科「隆武帝」条、原拠は万暦三十年四月五日=1602年5月25日)で一致し、本紀原文(小腆紀傳)の『崇禎五年(壬申、一六三二)……王嗣位;年三十一矣』(唐王襲爵時の虚歳31歳)から逆算した生年1602年とも整合する。没日は既存reigns[0].endDate(1646-10-06、隆武二年八月二十八日)を再利用。享年は維基百科に『得年四十五虚岁』とあり数え年45歳(西暦の満年齢では44歳)。即位(隆武元年閏六月廿七日=1645-08-18)時点の数え年は44歳。

在位中の出来事(9件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧1645年8月〜1646年2月靖江王朱亨嘉の桂林僭号事件

首謀者: 朱亨嘉(靖江王)

結果: 鎮圧成功。両広総督丁魁楚が参将陳邦傅を派遣し、幽閉されていた巡撫瞿式耜と共謀して朱亨嘉とその一党を捕縛。福京(隆武帝の行在)へ護送後、朝議により廃して庶人とし幽閉先で死去、一党(推官顧奕・総兵楊国威ら)は処刑された。

隆武元年八月、明宗室の靖江王朱亨嘉が桂林で自ら監国・皇帝を僭称し、巡撫瞿式耜を幽閉した事件。隆武帝配下の両広総督丁魁楚が討伐軍を派遣して鎮圧し、隆武二年二月頃までに廃庶人・幽死・一党処刑という形で決着した。出典:小腆紀傳巻三(隆武紀)。

被反乱1645年8月〜1646年2月靖江王朱亨嘉の桂林僭号事件

首謀者: 朱亨嘉(靖江王)

結果: 隆武帝配下の官軍(丁魁楚・瞿式耜)により鎮圧された(rebellionSuppressionCountと同一事件)

隆武帝の宗室である靖江王朱亨嘉が桂林で自立・皇帝僭称し隆武帝の権威に反した事件。服属宗室による武力反乱として被反乱にも計上する。

改元1645年8月18日閏六月丁未(二十七日)、福州にて即位、「大赦、改元「隆武」」(原文:『丁未(二十七日),祭告天地、祖宗,即皇帝位于南郊。

閏六月丁未(二十七日)、福州にて即位、「大赦、改元「隆武」」(原文:『丁未(二十七日),祭告天地、祖宗,即皇帝位于南郊。以福建为福京、福州为天兴府、布政司为行殿。大赦,改元「隆武」』)。即位に伴う建元でありevents[0]として計上。以後1646年(隆武二年)まで改元なく死去(同年八月~十月にかけて汀州で殺害)。

出典: 小腆紀傳 紀第三

大赦1645年8月18日即位に伴う大赦(原文:『丁未(二十七日),…大赦,改元「隆武」』)。

即位に伴う大赦(原文:『丁未(二十七日),…大赦,改元「隆武」』)。全国規模の大赦として明記。

出典: 小腆紀傳 紀第三

遷都1645年8月18日南京(弘光帝の都、明の陪都) → 福州(隆武帝、「福京」と改称)

隆武元年(弘光元年)閏6月27日、唐王朱聿键が福州で即位し隆武帝となる。『南明野史』:「乃于是年(清順治二年乙酉)閏六月二十七日、祭告天地祖宗、即位於福州…以布政司為行殿、額鼓楼門為行在大明門。以福建省為福京、以福州府為天興府。」南京陥落(1645年5月、弘光帝捕縛)後、南明の実効的な主都機能が正式に福州(福京)へ移り、約1年間(〜1646年8月清軍陥落まで)行政機構が機能した恒久的遷都と判断。(出典: 南明野史(三余氏)巻上)

立后1645年9月八月壬辰(十三日)、曾氏を皇后に冊立(原文:『壬辰(十三日),册妃曾氏为皇后,封后父曾文彦为吉水伯』)。

八月壬辰(十三日)、曾氏を皇后に冊立(原文:『壬辰(十三日),册妃曾氏为皇后,封后父曾文彦为吉水伯』)。曾氏は唐王時代からの妃(原文冒頭『选妃曾氏,诸生曾文彦女』)で、即位後に正式に皇后として冊立された。汀州での落命時も『上与曾后遇害于汀州府之大堂』とあり同一人物のまま継続。

出典: 小腆紀傳 紀第三

親征1646年1月〜1646年10月清(江西・湖南方面への親征、督師何腾蛟ら勤王軍との合流を企図)

対象: 清(江西・湖南方面への親征、督師何腾蛟ら勤王軍との合流を企図)

結果: 失敗。鄭芝龍の妨害により延平(現南平)に約半年間足止めされ実際の戦線には至らず、隆武二年八月の仙霞関失陥後に江西方面へ逃れようとしたが、汀州で清軍に捕縛され落命した

隆武元年十一月に親征の詔を発し福州西郊で誓師の儀(甲冑誓師、鳴金鼓揚旌而出)を行い、同十二月初六日(西暦換算概算1646年1月、正確な換算未確定のため月精度とした)に福京を出発。しかし郑芝龙が出兵を渋ったため延平に長期滞留し、実際の交戦には至らなかった。隆武二年七月に赣州へ向かう決意をするも、八月、清軍が仙霞関を突破すると延平を脱出、江西・汀州方面を目指す途中、汀州で清軍に捕縛され死去した(deathCauseフィールド参照)。出典:小腆紀傳巻三(隆武紀)。

被反乱1646年1月雲南土司沙定洲の乱

首謀者: 沙定洲

結果: 未鎮圧のまま隆武帝在位終了(隆武帝没後も雲南の混乱は継続)

隆武元年末(十二月、西暦概算1646年1月)、雲南の土司沙定洲が武装蜂起し黔国公沐天波を楚雄へ敗走させ、以後武定・大理・太和・通海等を次々と陥落させた。隆武帝没(隆武二年八月)まで鎮圧されず、南明(隆武帝)の服属地における異民族蜂起として被反乱に計上する。出典:小腆紀傳巻三(隆武紀)。

大赦日付不詳隆武二年(1646年)六月、元子(皇子)誕生に伴う大赦(原文:『以元子诞生,大赦,进诸臣爵;钱邦芑疏谏,不听』)。

隆武二年(1646年)六月、元子(皇子)誕生に伴う大赦(原文:『以元子诞生,大赦,进诸臣爵;钱邦芑疏谏,不听』)。具体日は原文に明記なし(六月中の出来事として記載)。

出典: 小腆紀傳 紀第三

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