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南明

紹武帝朱聿𨮁

在位 1646年(40日)1646年12月11日 〜 1647年1月20日 ( 1646年12月15日まで)

日本は江戸時代

兄の隆武帝が敗れたのち広州で帝に立てられ、永暦帝と争ううちに清軍に城を落とされて死んだ南明の皇帝である。

紹武帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1646年12月11日〜1647年1月20日 1646年12月15日まで
40日長い順同率351位/365人即位の年齢は不詳
没年
1647年1月20日( 1646年12月15日)年齢不詳
死因
同じ死因17人/365人
即位経路
先代
次代
—
呼び名
姓朱諱聿𨮁呼び名の見方

出典

在位
小腆紀傳 紀第三(紹宗紀附・紹武)
死因
小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)
即位経路
小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)

生涯

即位まで

隆武帝の第四弟で、唐王に封じられた。1646年に福建が敗れると、海路で広州に逃れた。このとき丁魁楚はすでに永暦帝を肇慶でに奉じており、蘇観生はその擁立に加わろうとして拒まれ、広州へ戻った。梁朝鍾らが兄が終われば弟が継ぐと唱え、同じ年、蘇観生らが紹武帝を監国に奉じ、帝に立てて紹武と号した。これを聞いた丁魁楚も、即位しなければ人心を抑えられないとして永暦帝を即位させた。

史料について

東南紀事は、唐王が広州に着くと蘇観生が考えを変え、先帝の実の弟がいるのに外に君を求めるのは義でないと言ったとする。

治世と最期

即位ののち、大典礼が日を追って行われ、恩典が重なって朝廷に三品以下の官がいなくなり、冠服を役者から借りる者まで出た。永暦帝が送った諭止の使者は殺された。紹武側は三水で敗れたのち、1647年の初めにの林察が三山口で永暦軍を大破した。その間に清に降った李成棟が広州に偽りの平安を報じ、蘇観生は信じて備えなかった。

同じ1647年の初め、を観ているところへ清軍が迫って城が落ち、紹武帝は服を替えて逃れたが捕らえられ、まもなく死んだ。

史料について

諭止の使者を、小腆紀伝の紹武附は言葉が不遜だとして王が殺したとし、明史と小腆紀伝の彭耀伝は蘇観生が殺したとする。落城の日を、東南紀事と明季南略はほかの書と違えて書く。最期を、小腆紀伝の紹武附と明史の蘇観生伝は、食を拒み、先人に地下で合わせる顔がないと言って首をくくったとするが、清史稿のは斬ったとし、明季南略は古着買いに扮して逃げたが売られて殺されたと書き、爝火録は両方の筋を載せる。黄宗羲は蘇観生を荀息にたとえ、南明野史の三余氏と徐鼒はそのたとえを退ける。爝火録は、紹武帝は従容として難に遭い、崇禎帝に並べても恥じないとする。

紹武帝とつながる皇帝

明清交替の勢力図(1646年)

勢力図

明清交替の勢力図で見る

1646年の地図に、紹武帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1
  1. 改元1646年12月11日元号を「紹武」とする

南明の歴代皇帝

歴代3人の一覧

年表

明・南明の時代を年表で見る

南明が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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