中国皇帝統計

紹武帝

南明|在位 1646–1647年

諱(本名)
朱聿𨮁
在位
1646–1647年
在位期間
40日365名中354位
即位経路
擁立
死因
自尽
即位時年齢
42歳(数え年)172名中・若い順143位
没年齢
42歳(数え年)269名中・長寿順123位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

苏観生(旧輔)を中心に梁朝鍾・関捷先らが「兄終弟及」を唱え、何吾騶ら文臣も合流して聿𨮁を監国に擁立、即日皇帝に即位させた。丁魁楚が既に永暦帝を肇慶で監国としていたにもかかわらず、苏観生が推戴の申し出を拒絶されたことを契機に別途擁立に踏み切った正統争いを伴う擁立。

出典: 小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)

死因の経緯

広州陥落時、変装して逃亡を図るも捕縛され東察院に幽閉。差し出された食事を「我若飲汝一勺水,何以見先人於地下」と拒否し、その後みずから縊死した。

出典: 小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

建元の宣言(称号绍武)自体は即位時に確認できるが、暦年上の実施(逾年改元)は在位終了前に到来しなかったという特殊事情がある。件数は1で計上するが実質未施行の点を付記。

大赦回数

本文に「一月覃恩数次」とあるが、これは在位1ヶ月足らずで官職の乱発・昇進(「挙朝無三品以下官」)を指す記述であり、罪人への大赦(大赦天下)とは別の恩典。本紀原文中に「大赦天下」等の全国規模の大赦に関する記述は確認できず、在位40日という短期間もあり該当なし。

立后回数

小腆紀傳(紀第三・隆武紀附紹武)中に皇后冊立に関する記述は一切なし。宮室・服御・鹵簿すら「仓卒不办」(急遽で整わず、俳優から衣冠を借りる有様)と記されるほどの混乱状態であり、在位短期のため該当なし。

皇太子廃立回数

小腆紀傳(紀第三・隆武紀附紹武)中に皇太子の立太子・廃立に関する記述は一切なし。在位40日で広州陥落・自尽に至っており、該当なし。

親征回数

小腆紀傳(巻三・隆武紀附紹武)を確認。三水での桂軍迎撃は陳際泰・林察ら武将が指揮し、紹武帝自身が出陣した記録はない。広州陥落時も『王方閱射』の最中に清軍来襲を受け、皇帝自身は防衛戦の指揮を取らず変装して逃亡を図った。親征に該当する事跡なし。

反乱鎮圧回数

小腆紀傳を確認。花山寨・石徐馬鄭四姓ら広州周辺の陸寇・水寇は観生が『皆撫而用之、授以総兵官』と懐柔・招撫しており、武力鎮圧の記録はない。永暦帝側(桂)の林佳鼎軍による三水侵攻は撃退に成功しているが、判定基準5・6により南明内の対等な正統性争い(紹武・永暦)は対清関係と同様に鎮圧・被反乱いずれの対象にもならない(かつ紹武帝側が永暦帝側を打倒したわけでもない)。よって該当なし。

被反乱回数

小腆紀傳を確認。広州陥落は清軍(李成棟)の攻撃によるものであり、判定基準5により南明対清朝の戦争は対等勢力間の戦争として除外(deathCauseと内容重複可だが計上しない)。永暦帝側(桂)の林佳鼎軍による三水侵攻は撃退されており、紹武帝が武力で打倒された事実はないため判定基準6により対等勢力として除外。在位中の内部クーデター・服属民反乱の記録は原文中に確認できなかった。以上より該当なし。

遷都回数

小腆紀年等を通読。隆武帝没後に広州で成立した別系統の競合政権、在位40日のみで遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年は万暦33年(1605年)。複数の近代人物辞典サイト(历史名人网・百度百科等)で一致するが月日は不詳(birthDatePrecision=year)。没日は既存reignsのendDate(1647-01-20、グレゴリオ暦)を転記、ただし実際の没日は旧暦では丙戌(1646)年十二月十五日でありまだ隆武2年=1646年内(旧正月未到来)。虚歳での即位時年齢・没年齢はいずれも1646-1605+1=42歳(即位・死去とも同一旧暦年内のため同値)。

在位中の出来事(1件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1646年12月11日隆武2年11月丁未(初五日)、広州にて監国から皇帝に即位し「称号绍武」(年号を紹武と定める)。

隆武2年11月丁未(初五日)、広州にて監国から皇帝に即位し「称号绍武」(年号を紹武と定める)。ただし既存reignsデータの付記によれば、明清の慣例「逾年改元」に従い実際の暦年切替(隆武3年→紹武元年)は翌年からの予定であり、広州陥落・自尽(隆武2年12月15日)はその前に起きたため、在位中の記録は最後まで隆武の年号のままで実質的な改元は完了しなかった。即位に伴う建元の宣言自体はあったためプロジェクト基準(即位時建元も1回とカウント)に従い1回として計上する。

出典: 小腆紀傳 巻三(隆武紀・附紹武)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。