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南明第3代

永暦帝朱由榔

在位 1646–1661年(15年29日)1646年12月24日 〜 1662年1月22日 ( 1661年12月3日まで)

日本は江戸時代

南明の最後の皇帝で、清軍に追われて広西・貴州・雲南と移り、緬甸から引き渡されて呉三桂に殺された人物である。

永暦帝の人物データ

生年
1623年11月1日
在位
  • 1646年12月24日〜1662年1月22日 1661年12月3日まで
15年29日長い順86位/365人24歳で即位(数え年)1661年に在位を終え、1年後の1662年に没
没年
1662年6月1日40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
  • 隆武帝南明永暦帝は隆武帝の同族(遠縁)
次代
—
呼び名
姓朱諱由榔廟号昭宗元号永暦呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 2回多い順同率2位

出典

在位
小腆紀傳 紀第四「永历(上)」(即位)/紀第六「永历(下)」(処刑)
死因
小腆紀傳 巻六(永暦紀下)
即位経路
小腆紀傳 巻四(永暦紀上)

生涯

即位まで

万暦帝の孫で、桂端王の末子にあたり、1636年に永明王に封じられた。1646年に隆武帝が捕らえられると、瞿式耜らに推され、母の王氏は、わが子には堪えられないと言ったが、肇慶でとなった。広州で唐王が皇帝に立てられたため、同じ年に肇慶で即位し、翌年を永暦元年とした。

治世と最期

清軍が桂林に入って瞿式耜が死ぬと、報せを聞いて大いに恐れ、南寧へ逃れた。1652年に孫可望の迎えで安龍に入った。可望が国号を後明とする案を立てたと聞くと、李定国に救いを求めるを出した。安龍では草ぶきの小屋に住んで粗末な粟を食べ、可望の守将に侮られた。1654年に密勅が露見して首謀者を出せと迫られると、悲憤して退いた。関わった臣は処刑されたが、呉貞毓だけは大臣として絞首とされた。1656年に李定国の迎えで雲南へ移り、1659年に敗れた定国が黄鉞を返して自ら官位を削るよう求めると、国の禍いだ、王に何の罪があろうと言って許さず、まもなく緬甸へ入った。

1661年に緬人が従臣42人を殺すと、皇后とともに首をくくろうとし、太后を見捨てるのかと諫められて思いとどまった。1662年の初め、緬人に偽られて呉三桂の軍に引き渡された。三桂は問われるうちに思わず膝を屈した。同じ年、雲南で太子とともに絞め殺された。

史料について

密勅の露見の場で、小腆紀伝は帝が、誰の仕業か朕が知るものかと言ったとし、明史の呉貞毓伝はその場の帝の言葉を載せない。呉三桂との対面で、小腆紀伝は帝が、帰って十二陵を拝してから死にたいと言ったとし、鹿樵紀聞は言葉を違えて書く。従臣の殺害を、鹿樵紀聞は1660年に置く。最期を、小腆紀伝は市で弓弦によって絞殺され、太子が賊と罵ったとし、呉三桂考は日と場所を違え、帛でしたとする。小腆紀伝は華美を嫌い酒を飲まなかったと書き、同じ徐鼒の小腆紀年は、太平の世ならよい君主だったとしつつ、捕虜となっても自決しなかったと嘆く。

永暦帝とつながる皇帝

明清交替の勢力図(1646年)

勢力図

明清交替の勢力図で見る

1646–1661年の地図に、永暦帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・遷都2・皇后1・改元1・大赦3
  1. 改元1646年12月24日元号を「永暦」とする
  2. 1646年12月24日皇帝即位の当日に発布。
  3. 皇后1646年12月24日皇帝即位の当日、王妃を皇后に正式冊立。
  4. 反乱1647–1648年劉承胤の専権・皇帝拉致
  5. 1648年元子慈烜(後の皇太子)誕生・立太子に際して発布。
  6. 反乱1650–1651年陳邦傅の反乱(藤江従官殺害・焦璉誘殺)
  7. 反乱1652–1657年孫可望の専権・雲南侵攻(1652〜1657)
  8. 遷都1652年南寧 → 安龍(貴州、安龍府)
  9. 遷都1656年安龍(安龍府) → 昆明(雲南府、「滇都」と改称)
  10. 1657年弘光帝・隆武帝・皇考端皇帝らへの諡号追贈に際して発布。
  11. 反乱1658年永昌の反乱

南明の歴代皇帝

歴代3人の一覧

年表

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