中国皇帝統計

昭宗・永暦帝

南明|在位 1646–1662年

諱(本名)
朱由榔
在位
1646–1662年
在位期間
15年163日365名中84位
即位経路
擁立
死因
処刑
即位時年齢
24歳(数え年)172名中・若い順93位タイ
没年齢
40歳(数え年)269名中・長寿順131位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
4289名中127位タイ
遷都
245名中3位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

隆武帝の汀州陥落の報を受け、両広総督丁魁楚・巡撫瞿式耜ら文臣グループが協議のうえ、神宗の嫡系に最も近い(統系最正)として桂王由榔を推戴、肇慶にて監国、のち皇帝に即位。

出典: 小腆紀傳 巻四(永暦紀上)

死因の経緯

ビルマの「咒水の難」の後、呉三桂軍に引き渡され雲南へ護送。順治18年(康熙元年)4月15日、皇太子(当時12歳)とともに市中に引き出され弓弦で絞殺された。太子は「我朝何負於汝,我父子何讎於汝」と罵ったと記録される。

出典: 小腆紀傳 巻六(永暦紀下)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

永暦帝の在位中、本文中に「改元」「建元」の語は即位時のこの1件のみ出現。他の年は一貫して「称永暦○年」で推移しており、追加の改元は確認できない。

大赦回数

本文全体を通読し「大赦」の語を検索した結果、この3件のみ確認(他は「大赦天下」ではなく特定人物への恩免・赦免等で全国規模の大赦ではないため除外)。

立后回数

在位中の皇后は王氏の一人のみで、冊立は即位時の1回のみ確認。

皇太子廃立回数

在位中に立てられた皇太子は永暦二年(1648年)生まれの元子慈烜(後の朱慈烜)ただ一人で、康熙元年(1662年)に父帝とともに処刑されるまで一貫して皇太子の地位にあった。廃立の記録は本文中に見当たらない(永暦八年の廃后未遂事件は皇后に関するもので皇太子とは無関係)。

親征回数

小腆紀傳(永暦紀上・中・下)を確認したが、永暦帝自身が軍を率いて戦場に赴いた記録はない。在位中は常に清軍・内訌勢力の圧迫を受けて肇慶→梧州→桂林→安龍→昆明→ビルマと避難を繰り返す立場であり(『上奔』『上走』『上幸』等の記述のみ)、親征に該当する事例は確認できなかった。

反乱鎮圧回数

孫可望・王自奇/関有才の反乱はいずれも永暦帝配下の将軍(李定国・劉文秀)により武力鎮圧された。清朝との戦争(対等勢力間の抗争)は判定基準5により対象外。劉承胤・陳邦傅の反乱は鎮圧されず清へ投降したため鎮圧カウントには含めない(sufferedのみに計上)。

被反乱回数

郝永忠の桂林大掠(1648年2月、兵敗後の潰兵による瞿式耜拉致・略奪)は史料上『大掠』『劫瞿式耜出城』とあるが、明確に皇帝打倒を意図した反乱と断定する記述に乏しく、戦場敗走に伴う軍紀崩壊・略奪の性格が強いため、本カウントには含めなかった(調査済みだが不明瞭のため除外)。李成栋による官僚粛清(1649年)も反乱の明確な記述がないため除外。清朝との戦争・南明紹武政権との並立(清軍による広州陥落で紹武帝側は自壊、永暦側の武力打倒ではないため判定基準6により除外)は判定基準5・6により対象外とした。

遷都回数

在位中に遷都2回(1652年 福州(福京)→安龍(貴州、安龍府)、1656年 安龍(安龍府)→昆明(雲南府、「滇都」と改称))。

即位時年齢・没年齢

生年は1623年(天啓3年)10月、複数の学術サイト(維基百科・故宮博物院サイト等)で一致(日付は「十月初九日」説と「十月十九日」説があるが年は一致、便宜上ユリウス暦換算で一般的な十月初九日=1623-11-01を採用)。没日は既存deathCauseの永暦16年4月15日(1662-06-01、絞殺)を使用。数え年で没年齢40歳(検索結果でも「享年40岁」と一致)。即位年齢は1646年即位(startDate 1646-12-24)から数え年24歳。

在位中の出来事(13件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1646年12月24日隆武帝の陥没(汀州陥落)を受け肇庆で監国を経て皇帝に即位した日、「仍称隆武二年、以明年為永暦元年」と定め、翌年から新元号「永暦」を建てた。

隆武帝の陥没(汀州陥落)を受け肇庆で監国を経て皇帝に即位した日、「仍称隆武二年、以明年為永暦元年」と定め、翌年から新元号「永暦」を建てた。即位に伴う最初の建元としてカウント。原文:「以十八日(庚申)即皇帝位。仍称隆武二年、以明年為永暦元年;大赦天下」(小腆紀傳 紀第四)。以後在位十六年(永暦元年〜永暦十五年以降、崩年まで)を通じて改元の記録はなく、「永暦」の一元号のみが用いられた。

出典: 小腆紀傳 紀第四

大赦1646年12月24日皇帝即位の当日に発布。

皇帝即位の当日に発布。原文:「以十八日(庚申)即皇帝位。仍称隆武二年、以明年為永暦元年;大赦天下」(即位大赦、全国規模)。

出典: 小腆紀傳 紀第四

立后1646年12月24日皇帝即位の当日、王妃を皇后に正式冊立。

皇帝即位の当日、王妃を皇后に正式冊立。原文:「即皇帝位…冊妃王氏為皇后」(小腆紀傳 紀第四)。以後在位中に皇后の再冊立・別人物の立后の記録はない。なお永暦八年(1654年)に馬吉翔・龐天寿が皇后の廃立を謀った記事があるが(「吉翔、天寿謂后必知情、將廢之…上不許、事得已」)、上が許可せず実行されなかったため、廃立・再冊立としてはカウントしない。

出典: 小腆紀傳 紀第四

被反乱1647年5月〜1648年9月劉承胤の専権・皇帝拉致

首謀者: 劉承胤

結果: 鎮圧されず(清軍接近を受け劉承胤が武冈城を挙げて清に投降し終結、朝廷側による鎮圧なし)

定蛮侯(安国公)劉承胤が兵を率いて入衛の名目で永暦帝を武冈へ強制連行し(『遂劫上如武冈、政事皆决于承胤矣』)、政務を専断。廷杖強要・何騰蛟暗殺未遂(伏兵襲撃)等の武力行使を伴う専権行為の末、順治5年(1648)8月、清軍の進逼を受け武冈城ごと清へ投降した(小腆紀傳巻四)。

大赦1648年永暦二年(清順治五年・戊子)四月(明暦では閏三月)丙寅朔、元子慈烜(後の皇太子)誕生・立太子に際して発布。

永暦二年(清順治五年・戊子)四月(明暦では閏三月)丙寅朔、元子慈烜(後の皇太子)誕生・立太子に際して発布。原文:「元子慈烜生、冊為太子;大赦」。年内の月は特定できるが日次までは記載なし・厳密な西暦月日変換は未実施のため年精度とした。

出典: 小腆紀傳 紀第五

被反乱1650年11月〜1651年9月陳邦傅の反乱(藤江従官殺害・焦琏誘殺)

首謀者: 陳邦傅

結果: 鎮圧されず(清に投降し終結)

思恩侯(のち慶国公)陳邦傅が藤江で従官を武力で襲い殺害し(順治7年11月)、翌年9月には宣国公焦琏を誘殺のうえ配下の浔州総兵らと共に清に反正・投降した(小腆紀傳巻四・五)。

反乱鎮圧1652年〜1657年孫可望の専権・雲南侵攻(1652〜1657)

首謀者: 孫可望

結果: 鎮圧(李定国・劉文秀の軍が撃退し、孫可望は敗走の末に清へ投降)

孫可望は永暦帝から秦王に封ぜられた臣下でありながら、安龍にて永暦帝を事実上軟禁し(『日益穷促,将吏罕人臣礼』)、順治11年(1654)には忠臣呉貞毓ら18名を捕縛・処刑(十八先生の獄)、廟号僭称・国号「後明」画策等の専権行為を武力を背景に行った。順治14年(1657)、遂に自ら大軍を率いて雲南の永暦朝廷(李定国・劉文秀)を攻撃したが敗北し、清へ投降した(小腆紀傳巻五)。

被反乱1652年〜1657年孫可望の専権・雲南侵攻(1652〜1657)

首謀者: 孫可望

結果: 鎮圧(李定国・劉文秀に撃退され孫可望は清に投降)

rebellionSuppressionCountと同一事件。安龍幽閉・十八先生の獄・雲南武力侵攻を経て、最終的に李定国・劉文秀に撃退され孫可望は清へ投降した。

遷都1652年福州(福京) → 安龍(貴州、安龍府)

福州陥落(隆武2年8月=1646年、隆武帝は汀州付近で捕縛され死去)後、桂王朱由榔(永暦帝)は隆武2年10月14日に肇慶で監国、同年11月18日に皇帝に即位した。しかし広州の紹武政権との抗争(紹武政権は同時期に成立した別系統の政権であり、40日で清軍に滅ぼされたためここでは南明本流の遷都対象に含めない)や清軍の侵攻により、肇慶→梧州→桂林→全州→武冈(一時「奉天府」と改称するも約4ヶ月で瓦解)→柳州→象州→桂林→南寧→安隆と、恒久的定都に至らぬまま転々とする避難が数年続いた(『小腆紀年』所引の永暦帝自身の詔に「自武、衡、肇、梧以致邕、新、播遷不定」とある通り、この間は一時的避難の連続と判断し個別にはカウントしない)。順治9年(1652)2月6日(戊申)、孫可望の勧めで貴州安隆所に入り、『小腆紀年』:「二月戊申(初六日)、明桂王至安隆所、改名安龍府。」以後約4年間(1652〜1656年)安龍府が事実上の恒久的行在=主都として機能したため、福州以来初の実質的遷都と判定した。(出典: 小腆紀年(徐鼒)巻十一・巻十二(順治九年条))

遷都1656年安龍(安龍府) → 昆明(雲南府、「滇都」と改称)

孫可望と李定国の内訌の末、順治13年(1656)3月、李定国・劉文秀が永暦帝を貴州安龍から雲南昆明へ奉じて移した。『小腆紀年』:「三月、孫可望遣將白文選犯明安龍。文選與李定國連和、遂共扈王入雲南;劉文秀納之、改雲南府為滇都。」以後1659年に清軍侵攻を受けビルマへ逃亡するまで約3年間、昆明が南明最後の実質的な主都として機能した。ビルマへの逃避(1659年)は他国領内での亡命・幽閉であり、自国の主都機能を伴わない一時的避難のためカウント対象外とした。(出典: 小腆紀年(徐鼒)巻十四(順治十三年条))

大赦1657年永暦十一年(清順治十四年・丁酉)四月癸酉朔、弘光帝・隆武帝・皇考端皇帝らへの諡号追贈に際して発布。

永暦十一年(清順治十四年・丁酉)四月癸酉朔、弘光帝・隆武帝・皇考端皇帝らへの諡号追贈に際して発布。原文:「上弘光帝謚曰安宗簡皇帝…下詔大赦」。月は特定できるが日次までは記載なし・年精度とした。

出典: 小腆紀傳 紀第六

反乱鎮圧1658年4月永昌の反乱

首謀者: 王自奇・関有才

結果: 鎮圧(李定国自ら討伐し平定)

孫可望旧部の王自奇・関有才が永昌に拠って反乱を起こし、李定国が自ら討伐して平定した(小腆紀傳巻六、順治十五年夏四月条)。

被反乱1658年4月永昌の反乱

首謀者: 王自奇・関有才

結果: 鎮圧(李定国が討伐し平定)

rebellionSuppressionCountと同一事件。孫可望旧部が永昌で反乱を起こし李定国により平定された。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。