永暦帝の人物データ
- 生年
- 1623年11月1日
- 在位
- 1646年12月24日〜1662年1月22日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1661年12月3日まで
- 没年
- 1662年6月1日40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- 隆武帝南明永暦帝は隆武帝の同族(遠縁)
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓朱諱由榔廟号昭宗元号永暦呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 2回多い順同率2位
出典
- 在位
- 小腆紀傳 紀第四「永历(上)」(即位)/紀第六「永历(下)」(処刑)
- 死因
- 小腆紀傳 巻六(永暦紀下)
- 即位経路
- 小腆紀傳 巻四(永暦紀上)
生涯
即位まで
治世と最期
清軍が桂林に入って瞿式耜が死ぬと、報せを聞いて大いに恐れ、南寧へ逃れた。1652年に孫可望の迎えで安龍に入った。可望が国号を後明とする案を立てたと聞くと、李定国に救いを求める密勅皇帝がひそかに下した命令を出した。安龍では草ぶきの小屋に住んで粗末な粟を食べ、可望の守将に侮られた。1654年に密勅が露見して首謀者を出せと迫られると、悲憤して退いた。関わった臣は処刑されたが、呉貞毓だけは大臣として絞首とされた。1656年に李定国の迎えで雲南へ移り、1659年に敗れた定国が黄鉞を返して自ら官位を削るよう求めると、国の禍いだ、王に何の罪があろうと言って許さず、まもなく緬甸へ入った。
1661年に緬人が従臣42人を殺すと、皇后とともに首をくくろうとし、太后を見捨てるのかと諫められて思いとどまった。1662年の初め、緬人に偽られて呉三桂の軍に引き渡された。三桂は問われるうちに思わず膝を屈した。同じ年、雲南で太子とともに絞め殺された。
史料について
密勅の露見の場で、小腆紀伝は帝が、誰の仕業か朕が知るものかと言ったとし、明史の呉貞毓伝はその場の帝の言葉を載せない。呉三桂との対面で、小腆紀伝は帝が、帰って十二陵を拝してから死にたいと言ったとし、鹿樵紀聞は言葉を違えて書く。従臣の殺害を、鹿樵紀聞は1660年に置く。最期を、小腆紀伝は市で弓弦によって絞殺され、太子が賊と罵ったとし、呉三桂考は日と場所を違え、帛で縊殺首を絞めて殺すことしたとする。小腆紀伝は華美を嫌い酒を飲まなかったと書き、同じ徐鼒の小腆紀年は、太平の世ならよい君主だったとしつつ、捕虜となっても自決しなかったと嘆く。
永暦帝とつながる皇帝

勢力図
明清交替の勢力図で見る
1646–1661年の地図に、永暦帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱4・遷都2・皇后1・改元1・大赦3
- 改元1646年12月24日元号を「永暦」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1646年12月24日皇帝即位の当日に発布。
- 皇后1646年12月24日皇帝即位の当日、王妃を皇后に正式冊立。
- 反乱1647–1648年劉承胤の専権・
皇帝拉致 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1648年元子慈烜(後の皇太子)誕生・
立太子に際して発布。 - 反乱1650–1651年陳邦傅の反乱(藤江従官殺害・
焦璉誘殺) - 反乱1652–1657年孫可望の専権・
雲南侵攻(1652〜1657) - 遷都1652年南寧 → 安龍(貴州、安龍府)
- 遷都1656年安龍(安龍府) → 昆明(雲南府、「滇都」と改称)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1657年弘光帝・
隆武帝・ 皇考端皇帝らへの諡号追贈に際して発布。 - 反乱1658年永昌の反乱
南明の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代弘光帝1644–1645年処刑
- 第2代隆武帝1645–1646年諸説あり
- 歴代外紹武帝1646年諸説あり
- 第3代永暦帝1646–1661年処刑
年表
明・
南明が