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永昌帝の肖像画

順(明)第1代

永昌帝李自成

在位 1644–1645年(1年)1644年6月3日 〜 1645年

日本は江戸時代

北京を落として明を滅ぼしたが、山海関で呉三桂と清軍に敗れ、まもなく死んだ大順の皇帝である。

永昌帝の人物データ

生年
1606年
在位
  • 新順王1643年〜1644年
  • 皇帝1644年6月3日〜1645年
1年長い順同率292位/365人38歳で新順王・39歳で皇帝(数え年)
没年
1645年40歳(数え年)長生き順同率129位/266人
死因
同じ死因17人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓李諱自成呼び名の見方

出典

在位
明史 列传第一百九十七「流賊」(李自成・張献忠合伝、daizhigev20版 行22982〜23049)
死因
明史 巻309(列伝197・流賊)/清史稿 巻4(世祖本紀一)・志42(地理14)
即位経路
明史 巻309(列伝197・流賊)

生涯

即位まで

陝西の米脂の人で、若いころは羊飼いや駅卒をし、喧嘩っ早くたびたび法を犯した。母の兄弟の高迎祥が1636年に捕らえられて処刑されると、闖王に推された。1640年に官軍に囲まれて窮すると、劉宗敏と占い、不吉なら私の首を斬って降れと言った。三度吉と出ると、宗敏は自分の妻を殺して従った。李岩の勧めで殺戮を控えて飢民に財を配り、闖王を迎えれば年貢を納めずに済むという歌を子どもに歌わせて人を集めた。1643年、兵が強くなると専制を望んで羅汝才を忌み、明け方に帳中で斬ってその兵を併せた。1644年に西安で王を名乗って国号を大順とし、同じ年に北京へ入ると、崇禎帝は煤山で首をくくった。

史料について

明史の流賊伝は、疑い深く残忍で毎日のように人を殺したと書きつつ、酒色を好まず粗食で、配下と苦労を分け合ったとも書く。

治世と最期

北京では、降った明の官僚800人あまりを部将の陣に送り、拷問して金を出させた。呉三桂は愛姫が奪われたと聞いて怒り、山海関の守将を破った。同じ年、李自成は山海関で三桂と清軍に大敗して北京に逃げ帰り、武英殿でを称すると、その夜に宮殿を焼いて翌朝西へ走った。

李岩は殺さずに人心を収めるよう勧めた人だったが、牛金星に謀反を讒言され、李自成は牛金星に命じて李岩を酒の席で殺させた。その後も敗れ続けると強情で独断的になり、鶏一羽を盗んだ民まで死刑にした。

1645年に潼関を破られると西安を捨てて湖北へ逃れ、同じ年に九宮山のあたりで死んだが、その死に方ははっきりしない。

史料について

愛姫を奪った者を、明史と清史稿は劉宗敏とし、甲申伝信録の一節は求めたのは李自成だとし、明季北略は奪われたとは書かない。帝を称した時を、清史稿のは北京を落とした月とする。最期を、明史の流賊伝は九宮山で村民に囲まれて首をくくったとし、鋤で頭を割られたという説も載せる。清史稿の本紀も首をくくったとし、小腆紀年は郷兵に斬られたとして、病死などほかの説も挙げる。流賊伝の序は、盗賊の禍は李自成と張献忠で極まったとしつつ、明の滅亡の根本は流賊には無いとも書く。

永昌帝とつながる皇帝

明清交替の勢力図(1644年)

勢力図

明清交替の勢力図で見る

1644年の地図に、永昌帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

皇后1・改元1
  1. 改元1644年2月8日元号を「永昌」とする
  2. 皇后1644年6月3日北京・武英殿で帝号を僭称したのと同日、妻の高氏を皇后に立てた。

年表

明・南明の時代を年表で見る

順が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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