永昌帝・李自成
順(明)|在位 1644–1645年
- 諱(本名)
- 李自成
- 在位
- 1644–1645年
- 在位期間
- 1年130日365名中281位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 諸説あり
- 即位時年齢
- 39歳(数え年)172名中・若い順133位タイ
- 没年齢
- 40歳(数え年)269名中・長寿順131位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
関連動画
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
十七年正月、西安で王を称し国号「大順」を建て、その後北京入城後に武英殿で帝号を僭称した。既存勢力を糾合し自ら王・帝を称して建国。
出典: 明史 巻309(列伝197・流賊)
死因の経緯
明史流賊列伝は「自率二十騎略食山中,為村民所困,不能脱,遂縊死」(自尽説)とする一方、直後に「或曰,村民方築堡…人馬俱陥泥淖中,自成脳中鉏死」(村民による撲殺説)を併記し、「時我兵遣識自成者験其尸,朽莫辨」と遺体の同一性さえ確定できなかったと明記する。清史稿も本紀では「自縊死」とするが地理志(湖北通山州)は「為郷人撃斃於此」と明記し本紀と食い違う。同一政権内部者による暗殺でも征服者による処刑でもない第三者(村民)による死という点で両説を並記する諸説ありとする。
出典: 明史 巻309(列伝197・流賊)/清史稿 巻4(世祖本紀一)・志42(地理14)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
永昌の建元1回のみ確認。原文中に他の改元記事なし。
大赦回数
原文全体(李自成該当部分)に「大赦」の語・全国規模の恩赦を示す記述は見当たらない。関連しうる記述として崇禎帝自尽後の北京占領時に『放刑部、錦衣衛系囚』(刑部・錦衣衛の囚人を釈放)とあるが、これは首都の特定官署の囚人釈放に限定され「大赦天下」等の全国規模の大赦とは言えないため計上しない。
立后回数
高氏の立后1回のみ。廃后・再冊立の記述なし。
皇太子廃立回数
李自成自身は『自成無子』と明記され、自らの皇太子を立てた記録は無い。北京占領後に明の皇太子(崇禎帝の子)を捕らえ『封太子為宋王』と降格した記述があるが、これは前朝(明)の皇太子の処遇であり、李自成政権が自ら立てた皇太子の廃立には該当しないため計上しない。
親征回数
明史 巻309(列伝197・流賊)を通読。李自成が自ら軍を率いた戦闘(滎陽会盟後の各地転戦、潼関の戦い、西安攻略、太原・大同攻略、北京進撃、山海関の戦い、その後の定州・真定での敗走戦、九宮山への退却まで)は全て(1)建国前の対明戦争(挙兵〜明朝打倒)、または(2)建国後も明朝(北京占領まで)・清朝という対等な独立国家・敵対勢力との戦争のいずれかに該当し、判定基準5によりaccessionRoute領域または対等勢力間の戦争として本グループの対象外となる。これらを除くと、皇帝自身が軍を率いて出陣した独立の遠征に該当する事例は本紀原文中に確認できなかった。なお羅汝才・賀一龍・馬守応・袁時中ら味方陣営指導者の粛清(宴席での謀殺・奇襲)は軍を率いての戦場遠征ではなく、対等な群雄同士の勢力統合過程(元・北元・元末群雄ブロックの枠組みに準拠)とみなし計上対象外とした。
反乱鎮圧回数
明史 巻309(列伝197・流賊)を通読したが、大順政権の統治下(1644年正月建国〜1645年9月滅亡)における服属民・地方勢力による明確な武力蜂起とその鎮圧の記述は確認できなかった。味方陣営指導者(羅汝才・賀一龍・馬守応・袁時中ら)の粛清は、彼らが実際に武力蜂起した記録がなく、判定基準4(謀反計画のみで挙兵に至らない場合は含めない)に準じ、また対等な群雄同士の勢力統合(判定基準5の枠組み)とみなし計上しなかった。判定基準7に従い、記述が乏しいため「調査済みだが不明・該当なし」として確定する。
被反乱回数
明史 巻309(列伝197・流賊)を通読。北京撤退後、河南等の州県が『反正』(大順から離反し明朝側へ復帰)した記述はあるが、これは清軍侵攻による大順政権崩壊過程での対清・対明の勢力争いの一環であり、判定基準5により対等勢力間の争いとして被反乱には計上しない。呉三桂の離反・山海関の戦いも清朝への服属という対等国家間の帰趨であり同様に対象外。最終的な九宮山での村民による殺害(既存deathCauseに記載)は、通過中の一地域住民との突発的な衝突であり、大順政権に対する組織的な武装反乱とは言い難く、皇帝自身が略奪行動(略食)の主体だった場面での偶発的死亡という側面もあるため計上しなかった。判定基準7に従い、政権存続期間が約1年強と短く記述も乏しいため「調査済みだが不明・該当なし」として確定する。
遷都回数
明史流賊伝を通読。西安定都(建国時の定都)後、北京占領も即日焼失・敗走しており恒久的な遷都に該当せず。以後九宮山で戦死するまで一貫した敗走。
即位時年齢・没年齢
数え年で統一。生年月日は明史等の原典には記載がなく、『米脂県志』等に基づく通説(万暦34年8月21日=1606年9月22日)を近現代の学術・辞書的情報源(維基百科・百度百科等複数)から採用(確度medium)。没日は既存reigns/deathCauseの通り明史原典「秋九月」説(1645年、月精度)を採用(地方志由来の五月説との併存あり)。accessionAgeは既存reigns.startDate(1644年4月29日、武英殿での帝号使用日)時点、1644-1606+1=39歳(数え)。deathAgeは1645-1606+1=40歳(数え)。近現代の通俗資料では周歳(満年齢)換算の「39歳」説も多いが、本データセットは数え年に統一する方針のため40歳を採用。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1644年2月8日崇禎十七年正月庚寅朔(旧暦正月一日=朔日)、李自成は西安で王を称し、国号を「大順」、年号を「永昌」と改元、自らの名も「自晟」と改めた。
崇禎十七年正月庚寅朔(旧暦正月一日=朔日)、李自成は西安で王を称し、国号を「大順」、年号を「永昌」と改元、自らの名も「自晟」と改めた。原文:「十七年正月庚寅朔、自成称王於西安、僭国号曰大順、改元永昌、改名自晟」(『明史』流賊伝)。これが李自成政権における唯一の建元で、以後別の年号への切替は本紀相当記事中に確認できない(4月29日北京での帝号僭称時に改元した記述はない)。西暦日付は崇禎十七年正月朔日の暦換算による推定。
出典: 明史 列传一百九十七 流贼
立后1644年4月29日北京・武英殿で帝号を僭称したのと同日、妻の高氏を皇后に立てた。
北京・武英殿で帝号を僭称したのと同日、妻の高氏を皇后に立てた。原文:「二十九日丙戌僭帝号於武英殿、追尊七代皆為帝后、立妻高氏為皇后」(『明史』流賊伝)。既存のaccessionRoute調査で確定済みの即位日(1644年4月29日)と一致。
出典: 明史 列传一百九十七 流贼