端宗
南宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1276–1278年
- 諱(本名)
- 趙昰
- 在位
- 1276–1278年
- 在位期間
- 1年328日365名中270位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 9歳(数え年)172名中・若い順22位タイ
- 没年齢
- 11歳(数え年)269名中・長寿順261位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
臨安陥落後、陳宜中・張世傑・陸秀夫ら遺臣が温州で擁立、のち福州にて正式に即位・改元「景炎」。南宋残存政権の樹立であり遺臣による擁立。
出典: 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
死因の経緯
祥興元年4月、冈州にて崩御。直接の契機は前年12月の台風による座礁事故(「颶風壊舟,幾溺死,遂成疾」)。数ヶ月間病を患い翌年4月に崩御。事故に起因する発病後の病死。
出典: 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
南宋滅亡直前の擁立政権。原文に「宜中等乃立昰于福州,以為宋主,改元景炎」と明記されており、皇帝を称し改元した事実が確認できる。国号(宋)は変更されておらず、国号変更と改元の混同はない。崩御後の「祥興」改元(景炎三年五月)は後継の衞王昺(祥興帝)によるものであり端宗自身の改元ではないため計上しない。
大赦回数
本紀通読の範囲(景炎元年五月即位〜景炎三年四月崩御)で「赦」字を含む記事は上記「郊赦」の1件のみ。「大赦天下」等の明記された表現ではないため、ユーザー確認を推奨する曖昧ケース。
立后回数
在位中に皇后冊立の記事なし。母の楊淑妃は「太后」に冊立(同聽政)されたのみで、皇后の冊立ではない。端宗自身は即位時わずか数え8~9歳前後で在位も短く、立后の記録は見られない。
皇太子廃立回数
在位期間(景炎元年五月〜三年四月、約2年弱)を通じて皇太子(皇太弟等含む)が立てられた記述自体がなく、廃立の記事もない。
親征回数
在位期間(1276-1278)、端宗(昰)は即位時数え年9歳の幼帝で終始臣下(張世傑・文天祥・陳宜中ら)に擁されて元軍から逃避する立場にあり、原文キャッシュ全体を通じて皇帝自身が軍を率いて出征した記述は皆無。全ての軍事行動(文天祥の江西・福建各地転戦、張世傑の泉州包囲等)は臣下が主体。元軍との一連の攻防は対等勢力間の対外戦争であり、そもそも本フィールドの性質上、皇帝自身が主体的に出征した場合のみ計上する規定に該当しない。
反乱鎮圧回数
suppressionとsufferedは同一の2件で一致(集計粒度差・未鎮圧終了等の例外パターンは該当せず)。原文が簡略な編年体(宋史巻47は逃避行の記録が中心)で、討伐の成否まで明記されないケースが多いためconfidenceはmedium。
被反乱回数
原文キャッシュ全体(宋史巻47・端宗本紀相当部分)をgrep等で「亂・叛・反・寇」を確認した結果、上記2件のみ該当(他の「反」は「不反=帰らず」の意で対象外)。蒲壽庚による泉州での宗室・士大夫殺害(景炎元年11月)は、正史原文が地方官の裏切り・元への投降に伴う殺戮として描写しており、組織だった蜂起・反乱というより対元戦争の混乱に付随する事件と判断し、本カウントには含めなかった(noteに経緯のみ記録)。元軍との一連の攻防(宋vs元)は対等勢力間の対外戦争としてルール上除外。
遷都回数
宋史本紀を通読。高宗期の臨安遷都(1138年)を継承、以後南宋滅亡(1279年)まで臨安が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
生年は度宗本紀(宋史巻46)咸淳四年六月甲申条「皇子昰生」により咸淳四年(1268年)と判明(干支日のみでグレゴリオ暦換算未実施のため精度は年)。即位(景炎元年=1276年、原文キャッシュ「五月乙未朔,宜中等乃立昰于福州」)時は1276-1268+1=数え年9歳。崩御(至元15年=景炎3年=1278年四月戊辰、碙洲にて崩御。既存reigns.endDate 1278-05-08と一致)時は1278-1268+1=数え年11歳。原文キャッシュ内に「時年」等の直接年齢記載はなく、生年からの逆算値。
在位中の出来事(6件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元1276年5月1日景炎元年五月乙未朔、福州にて陳宜中らが益王趙昰を擁立し帝位に即け、同時に建元して「景炎」とした(皇帝即位(改元同時)。
景炎元年五月乙未朔、福州にて陳宜中らが益王趙昰を擁立し帝位に即け、同時に建元して「景炎」とした(皇帝即位(改元同時)。それ以前は皇帝を称しておらず、益王・判福州等の身分であったため、これが唯一の建元・改元。以後崩御(景炎三年四月)までの間、他に改元の記事はない。
出典: 宋史 本紀四十七(瀛國公二王附)
大赦1276年5月1日景炎元年五月乙未朔、福州にて即位・改元と同日に「郊赦」の記事あり。
景炎元年五月乙未朔、福州にて即位・改元と同日に「郊赦」の記事あり。原文は「大赦」「大赦天下」の明確な文言ではなく「郊赦」(郊祀・即位に伴う恩赦)という表現のため、全国規模の大赦に相当するか判定がやや曖昧。即位に伴う恩赦としての性質上ここでは1回とカウントしたが、確度は中とする。
出典: 宋史 本紀四十七(瀛國公二王附)
反乱鎮圧1276年8月漳州亂
首謀者: 不明(原文に首謀者名の記載なし)
結果: 陳文龍を閩・廣宣撫使に任じ討伐を命じたが、原文に鎮圧完了の明記なし
rebellionSufferedCountと同一事案。宮廷(皇帝ではなく臣下)主体の鎮圧命令として計上。
反乱鎮圧1276年8月興化石手軍亂
首謀者: 不明(原文に首謀者名の記載なし)
結果: 翌9月に陳文龍が興化軍知事に復帰しており事態収拾を示唆するが、鎮圧の詳細記載はなし
rebellionSufferedCountと同一事案。
被反乱1276年8月漳州亂
首謀者: 不明(原文に首謀者名の記載なし)
結果: 朝廷が陳文龍を閩・廣宣撫使に任じ討伐を命じたが、原文に鎮圧完了の明記なし
景炎元年8月「漳州亂,命陳文龍為閩、廣宣撫使以討之」。国内(福建)における地方蜂起であり、対元戦争とは別枠の国内反乱として計上。
被反乱1276年8月興化石手軍亂
首謀者: 不明(原文に首謀者名の記載なし、興化に駐屯する石手軍=地方軍の兵変とみられる)
結果: 翌9月に陳文龍が興化軍知事に復帰しており事態収拾を示唆するが、鎮圧の詳細記載はなし
景炎元年8月「興化石手軍亂」。漳州亂と同段落・同時期に発生した別の国内騒乱(駐屯兵の兵変)として独立に計上。