
南宋第9代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
端宗趙昰
在位 1276–1278年(1年328日)1276年6月14日 〜 1278年5月8日
日本は鎌倉時代
臨安が落ちたのち福州で宋の主に立てられ、元軍に追われて海上を転々とするうちに没した南宋の皇帝である。
端宗の人物データ
- 生年
- 1268年
- 在位
- 1276年6月14日〜1278年5月8日
- 没年
- 1278年5月8日11歳(数え年)長生き順同率258位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- 恭帝南宋端宗は恭帝の兄
- 次代
- 衛王南宋衛王は端宗の弟
- 呼び名
- 姓趙諱昰呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀四十七 瀛国公二王附(端宗)
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
生涯
即位まで
度宗の庶子正妻以外の女性が生んだ子で、母は淑妃楊氏である。1274年に度宗が没したとき、衆は年長の趙昰を立てるべきとしたが、賈似道が嫡子を立てるよう主張して、弟の恭帝が立った。1276年、元軍が臨安に迫ると益王に移された。伯顔が臨安に入ると、楊亮節らが趙昰を背負って山中に隠れ、温州へ逃れた。同じ年、陳宜中らが福州で趙昰を宋の主に立てて景炎と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、母の楊氏も冊立正式な文書を授けて位につけることされた。
史料について
母の冊立を、宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と后妃伝は太后とし、続資治通鑑は皇太妃皇后でない皇帝の生母に贈る高い称号とする。
治世と最期
趙昰の舅の楊亮節が宮中で権を握り、多くを諫めた秀王の趙与檡は忌まれ、讒言によって瑞安の防備に出された。同じ年に趙昰は海に入った。泉州では張世傑が蒲寿庚の駐蹕皇帝が旅先でしばらくとどまることの請いを退けたのち、舟が足りず蒲寿庚の舟を奪ったため、蒲寿庚は怒って宗室君主と同じ一族の人々や士大夫学問を身につけて役人となった知識人の層を殺し、趙昰は潮州へ移った。
流浪の中で、母は垂簾皇帝の母などが簾の奥から政治を取りしきることして群臣と話すときもなお自らを奴と称し、陸秀夫は朝会のたびに笏を正して立ち、行軍中には涙を流した。1277年、劉深の水軍に浅湾を攻められて秀山へ逃れ、陳宜中は占城に入ったまま戻らなかった。
1278年の初め、井澳で颶風に船を壊されてあやうく溺れかけ、これがもとで病んだ。占城へ移ろうとして果たせず、碙洲に留まり、そこで没した。
史料について
陳宜中が占城に入ったのを、宋史の本紀と続資治通鑑は井澳の遭難の前に、陳宜中伝は井澳の敗れの後に置く。兵士の死者を、宋史の本紀は十に四、五とし、続資治通鑑は過半とする。宋史は没年齢も諡も書かず、臣下が端宗と号したとだけ書き、続資治通鑑は没年齢と諡、廟号皇帝の死後、祖先をまつる祭りで呼ぶための名を伝える。陸秀夫が二王のことを記して託した書は行方が分からず、海上のことは世に詳しく伝わらないと陸秀夫伝は記す。
端宗とつながる皇帝

勢力図
宋・
1276–1278年の地図に、端宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1・大赦1
- 改元1276年6月14日元号を「景炎」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1276年6月14日
- 反乱1276年8月漳州亂
- 反乱1276年8月興化石手軍亂
南宋の歴代皇帝
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