衛王の人物データ
- 生年
- 1272年2月12日
- 在位
- 1278年5月10日〜1279年3月19日
- 没年
- 1279年3月19日8歳(数え年)長生き順262位/266人
- 死因
- 自害自ら命を絶った死。廃位や敗戦に追い詰められての死や、朝廷から死を賜った死を含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因15人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 端宗南宋衛王は端宗の弟
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓趙諱昺呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋史 本紀四十七 瀛国公二王附(衞王紀)
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
生涯
即位まで
治世と最期
同じ年に祥興と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、厓山に移った。陸秀夫はあわただしい流浪の中でも、毎日学問の書を書き写して講じた。
1279年に元の張弘範の軍が厓山に迫ると、張世傑は先に海口を押さえる策を退け、千余艘の大船を綱でつないで城のように固め、衛王をその中に置いた。やがて薪水の道が絶え、兵は海水を飲んで吐き下した。張弘範が張世傑の甥を遣わして3度降伏を勧めさせても、張世傑は主のために死ぬ心は変わらないと答えた。決戦の日に宋軍は挟み撃ちにされて崩れ、張世傑は十余艘で港を抜け出した。
陸秀夫は衛王の舟に走ったが、舟がつながれていて抜け出せないと見て、妻子を海へ追い入れたのち、衛王を背負って海に身を投げた。楊太后も知らせを聞いて海に身を投げ、張世傑ものちに死んで、宋は滅んだ。
史料について
最後の場面を、宋史の張世傑伝は、敗れた張世傑が衛王の舟に走り、元軍が迫ると綱を断って去ったとする。続資治通鑑と宋史紀事本末は、張世傑が衛王を自分の舟に移そうと小舟を送ったが、陸秀夫は辱めを恐れて応じなかったとする。陸秀夫の言葉を、宋史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と陸秀夫伝は書かず、続資治通鑑・宋史紀事本末・宋季三朝政要は、陛下は国のために死ぬべきだと言ったとする。このサイトが死因を自害としたのは、陸秀夫とともに入水して国に殉じた形を自害に数えたためである。
衛王とつながる皇帝

勢力図
宋・
1278年の地図に、衛王が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
改元1
- 改元1278年5月23日元号を「祥興」とする
南宋の歴代皇帝
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