衛王・祥興帝
南宋(宋・遼・西夏・金)|在位 1278–1279年
- 諱(本名)
- 趙昺
- 在位
- 1278–1279年
- 在位期間
- 313日365名中303位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 8歳(数え年)172名中・若い順16位タイ
- 没年齢
- 9歳(数え年)269名中・長寿順263位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
端宗崩御後、遺臣により擁立、改元「祥興」。南宋最後の政権を継承する遺臣主導の擁立。
出典: 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
死因の経緯
祥興2年2月、崖山の戦いで元軍(張弘範)に敗北。陸秀夫に背負われての入水であり、8歳の幼帝自身の意志による自尽というより殉節を目的とした行為だが、南宋滅亡に伴う象徴的な自尽(集団殉国)として自尽と判定。
出典: 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
衞王昺は端宗昰の在位中(景炎年間)は皇帝ではなく『衞王』の王号のみで自らの元号を持たなかったため、2段階即位パターン(皇帝以外の身分での改元)には該当しない。即位(庚午)と改元宣言(五月癸未朔)の間に約1ヶ月のずれがあるが、その間も景炎の年号がそのまま暫定的に使われ続けただけであり、これを独立の改元とは数えず、祥興建元の1回のみをカウントした。
大赦回数
宋史 本紀四十七(瀛国公・二王附)中の衞王昺在位期間(景炎三年四月庚午の擁立~祥興二年二月癸未の崖山陥落・入水まで)の記事を通読したが「大赦」「大赦天下」等の語は確認できなかった。同区間はdaizhigev20/史藏/正史/宋史.txtでも『赦』字の出現なし(景炎改元時の『郊赦』は端宗昰の在位中の記事であり衞王昺自身の治世下の出来事ではないため対象外)。畢沅『続資治通鑑』の並行区間でも同様に赦の記事なし。在位期間が約10ヶ月と短く、崖山への逃避行が中心の記録であるため、記載漏れの可能性も考慮しconfidenceはmediumとした。
立后回数
衞王昺(祥興帝)は即位時8歳、崩御時9歳(いずれも続資治通鑑)の幼少での在位であり、宋史本紀四十七にも立后(冊立皇后)の記事は一切見当たらない。皇后不在のため0。
皇太子廃立回数
衞王昺は即位時8歳(続資治通鑑)で在位約10ヶ月のうちに崖山で崩じており、立太子(皇太子・皇太弟等)の記録自体が宋史本紀・続資治通鑑いずれにも存在しない。廃立の記事なし。
親征回数
原文キャッシュ(宋史本紀四十七、景炎3年~祥興2年)は衞王昺(8~9歳の幼帝)の在位期間全体をカバーするが、軍事行動はすべて張世傑・陸秀夫ら大臣・将軍が主導しており、昺自身が軍を率いて出征した記述は皆無。幼帝であり実質的な親征は不可能な年齢。崖山の戦いも昺は舟中に「居」するのみで指揮を執っていない。
反乱鎮圧回数
原文に登場する軍事衝突(元軍によるコウ州・広州・厓山攻略、文天祥の敗走・被執等)はすべて元(外国勢力)との対外戦争であり、対等勢力間の統一戦争は本ルールにより鎮圧対象外。国内の農民反乱・地方蜂起の記述は原文キャッシュ内に見当たらない。
被反乱回数
崖山の戦いを含む元軍との一連の戦闘は対等勢力(南宋 vs 元)間の対外戦争であり、宋遼西夏金ブロックのルールにより被反乱には計上しない。宮廷内部の兵力を伴うクーデター・弑逆の記述も原文にはない(陸秀夫による入水は殉節でありクーデターではない)。
遷都回数
宋史本紀を通読。高宗期の臨安遷都(1138年)を継承、以後南宋滅亡(1279年)まで臨安が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
宋史本紀四十七(瀛国公・二王附)自体には昺の生没年齢の明記なし。生年は宋史 本紀四十六(度宗)咸淳八年正月辛未条「子昺生」に記載(宋史局部でdaizhigev20/史藏/正史/宋史.txtにて確認、china-history版本紀46は今回未確認)。即位時齢「年八歳矣」および崩御時齢「宋主時年九歳」は清・畢沅『続資治通鑑』(daizhigev20/史藏/编年/续资治通鉴.txt、至元十五年~十六年条)に記載。続資治通鑑は編年体の後代史書であり正史本紀・列伝そのものではないため参考情報として付記し、confidenceはmediumとした。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元祥興元年(景炎三年)五月癸未朔端宗昰が景炎三年四月戊辰に碙洲で崩じ、庚午に群臣が衞王昺を擁立(皇帝即位)。
端宗昰が景炎三年四月戊辰に碙洲で崩じ、庚午に群臣が衞王昺を擁立(皇帝即位)。その約1ヶ月後の五月癸未朔に『祥興』へ改元。前代(端宗昰)の元号『景炎』からの切り替えであり、昺自身の即位に伴う最初の建元。以後、祥興二年二月癸未の崖山陥落・入水自殺まで祥興を継続使用し、他に改元の記録は確認されなかった。
出典: 宋史 本紀四十七(瀛国公・二王附)