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献武帝の肖像画

南燕(五胡十六国)第1代

献武帝慕容徳

在位 400–405年(5年2日)

日本は古墳時代

慕容徳は前燕の慕容皝の末子で、北魏に追われた後燕から分かれて南燕を建てた。

献武帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 燕王398年〜400年
  • 皇帝400年〜405年
5年2日長い順188位/365人皇帝になった年齢は不詳
没年
405年70歳(数え年)長生き順同率12位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
—
次代
呼び名
姓慕容諱徳字玄明廟号世宗呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻一百二十七 載記第二十七(慕容徳)
死因
晉書/卷127 慕容徳載記
即位経路
晉書/卷127 慕容徳載記

生涯

どんな皇帝か

400年に広固で皇帝の位に即き、405年、兄の子の慕容超を太子に立てて死んだ。晋書のは、君が生きているのに位を践んだと責め、を尊び直言を招いたことは称える。

即位まで

前燕の慕容皝の末子である。慕容垂が山東で挙兵すると、前秦の苻昌に兄と自分の子らを誅されたが、身重の兄嫁はかつて慕容徳が死罪を免じたに救われ、慕容超を生んだ。397年に慕容宝が薊へ逃れてもを称さず、翌年、鄴から滑台へ移って元年を称した。慕容宝が南へ逃れてくると、迎えに出ようとして張華に反対された。様子を探りたいと願う慕輿護を涙ながらに送り出したが、宝は逃げ去っていた。仕えるのを拒んだ使者の趙思は慕容徳が斬った。滑台を北魏に奪われると、潘聡の勧めで広固を目指して南へ進んだ。辟閭渾が莒城で追い斬られると、渾のために不遜な檄を書いた参軍の張瑛は責めた末に殺したが、父と死にたいと願った渾の子は孝行だとして赦した。400年、で皇帝の位に即いて建平とし、名を備徳と改めた。

史料について

滑台で称した号を、資治通鑑と魏書の列伝は燕王とし、晋書のは元年を称したとだけ書く。魏書は列伝と太祖紀で移った年が食い違う。渾の子を赦した話は十六国春秋にだけある。

治世と最期

を建てて太学生200人を選び、のちにはを集めて自らに臨んだ。宴で自分は古のどの君主に比べられるかと問い、光武帝の類と答えた鞠仲には虚言で賞したと言い、君臣ともに失したと諫めた韓範を喜んで賞した。老父の禄を求めた使者の杜弘を内実は忠孝だとかばい、杜弘が殺されると妻子を厚く遇した。斉の旧地をめぐっては、晏謨に山川や賢哲の旧事を問い、地に図を描いて答えた晏謨をに任じた。

長安から来た旧吏の知らせで母と兄の死を知ると血を吐いて病に伏し、その隙に慕容達が謀反を起こしたが、慕容徳は宮に入って与党を誅し、達は北魏へ逃れた。子が無く、405年に病が重くなると、長安から逃れてきた兄の遺腹の子の慕容超を皇太子に立てた。まもなく没すると、夜に十余りの棺を四つの門から出して密かに葬ったので、遺体の所在は分からない。

史料について

超を立てたわけを、晋書の載記は父が夢で告げたためとし、資治通鑑は病が重く口のきけない慕容徳が段后の問いにうなずいたとする。晋書の安帝紀はこの死を404年に置く。

献武帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(400年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

400–405年の地図に、献武帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・皇后1・改元1・大赦2
  1. 改元400年元号を「建平」とする
  2. 400年
  3. 皇后400年皇后を立てる
  4. 反乱403年慕容達の宮中クーデター未遂
  5. 反乱403年王始の乱(泰山の妖賊)
  6. 405年

南燕の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

南燕が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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