中国皇帝統計

献武帝

南燕(五胡十六国)|在位 400–405年

献武帝の肖像
諱(本名)
慕容徳
廟号
世宗
在位
400–405年
在位期間
5年2日365名中190位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
70歳(数え年)269名中・長寿順12位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
2112名中41位タイ
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
4289名中127位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:献武帝

即位の経緯

後燕崩壊の混乱の中、当初は群臣の勧めを固辞していたが(「德不從」)、滑台遷都後に瑞兆を得て皇帝を称した。先行政権からの継承ではなく南燕を新規に樹立。

出典: 晉書/卷127 慕容徳載記

死因の経緯

亡父の夢告を受け自ら死期を悟り、甥の慕容超を皇太子に立てた直後、同月(義熙元年・405年)に70歳で死去(「其月死,即義熙元年也,時年七十」)。暗殺・処刑・戦死を示す記述はなく高齢での自然死。

出典: 晉書/卷127 慕容徳載記

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

固有の注意事項に従い、燕王自立(称元年)と皇帝号改称(改元建平)の2回をeraChangeCountに含めた。

大赦回数

本紀範囲(載記第二十七、慕容徳伝)内で「大赦」の語が明記された箇所は3件のみ。

立后回数

在位中の立后は段氏の1回のみ。廃后・再冊立の記録はない。

皇太子廃立回数

慕容徳には実子がなく、崩御直前(義熙元年)に初めて兄子の超を皇太子に立てたのみで、それ以前に立太子・廃立の記録はない。廃立の事実は確認されない。

親征回数

対象期間は『晋書』慕容徳載記に基づき、隆安二年(398)の燕王自立(称元年)から義熙元年(405)の崩御までとした。枋頭の役(369年)など徳が臣下の将軍として垂に従軍した事例は、徳自身が君主でなかったため対象外とした。桓玄討伐を企図し講武まで行ったが実際の出征には至らず(罷兵)計上していない。

反乱鎮圧回数

慕容麟(徳の甥)による「潜謀為乱」(隆安二年・398年)は密告により発覚し挙兵前に処刑されたため、実際の兵力行使に至らなかった計画として鎮圧・被反乱いずれにも含めていない。桓玄配下から徳の下に亡命した劉軌・司馬休之らは反乱ではなく亡命者受入のため対象外。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の4件を対称に計上した(例外1〜4のいずれにも該当せず両面一致)。

遷都回数

晋書載記を通読。慕容徳の広固定都(建国時の定都選定過程の一部、滑台からの遷移含む)から410年の劉裕による滅亡まで広固が一貫した都。

即位時年齢・没年齢

『晋書』載記第二十七に「其月死,即義熙元年也,時年七十」とあり、義熙元年(405年)に70歳(数え年)で崩御したことが直接記載されている。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(16件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元398年【皇帝即位前】隆安二年、滑台到達後「徳依燕元故事、称元年」と、燕王自立(自らの紀年を開始)した最初の建元。

出典: 晋書載記第二十七

大赦398年隆安二年、滑台に遷都後「徳依燕元故事、称元年、大赦境内殊死已下、置百官」。

隆安二年、滑台に遷都後「徳依燕元故事、称元年、大赦境内殊死已下、置百官」。燕王自立に伴う建元と同時の大赦(死罪を除く)。

出典: 晋書載記第二十七

親征399年苻広(前秦苻登の弟。徳に降伏し冠軍将軍に任じられていたが自立して秦王を自称した勢力)

対象: 苻広(前秦苻登の弟。徳に降伏し冠軍将軍に任じられていたが自立して秦王を自称した勢力)

結果: 徳は滑台を慕容和に守らせ、自ら軍を率いて苻広を討伐し斬殺した(「徳乃留鲁阳王和守滑台、自帅众讨广、斩之」=晋書載記「德乃留慕容和守滑台,親率衆討廣,斬之」)。討伐成功。

『晋書』慕容徳載記および『資治通鑑』晋紀三十三(隆安三年・399年)条に拠る。皇帝号を称する前(燕王・自紀元年の段階)の親征だが在位期間内として計上。

親征399年辟閭浑(東晋朝廷が任じた幽州刺史・広固鎮守。徳の服属下にはなかった独立地方勢力)

対象: 辟閭浑(東晋朝廷が任じた幽州刺史・広固鎮守。徳の服属下にはなかった独立地方勢力)

結果: 徳自ら軍を南下させ琅邪・莒城に進駐し、辟閭浑は広固を放棄して魏へ逃亡する途上で徳の追討軍(劉綱)に斬られた。徳はそのまま広固に入城し新都と定めた。

辟閭浑は東晋任命の地方官で徳への服属関係になかったため、この一件はrebellionSuppression/Sufferedには含めず親征のみに計上した。

反乱鎮圧399年苻広の乱

首謀者: 苻広

結果: 徳に降伏していた苻広が自称秦王として離反し徳の将・慕容鍾を破ったが、徳自ら親征し斬殺して鎮圧に成功した。

服属していた降将による離反のため服属民の反乱として計上。

反乱鎮圧399年李辯の乱(滑台失陥)

首謀者: 李辯

結果: 徳の親征(苻広討伐)中に、滑台を守る鲁陽王慕容和の長史・李辯が慕容和を殺害し滑台を魏へ降した。徳配下の右衛将軍慕容雲が李辯を斬り将士・家族を率いて脱出させたが、滑台の地自体は魏に奪われたまま徳側は奪還せず(徳は韓範の諫言で攻撃を断念し南方の広固へ拠点を移した)。首謀者は討たれたが領土回復には至らなかった不完全な鎮圧。

徳の配下(南燕政権側)である慕容雲が首謀者を討ち取った点をもって鎮圧側に計上。徳自身は出撃を取りやめている。

被反乱399年苻広の乱

首謀者: 苻広

結果: 服属していた苻広が離反・自立し徳の将・慕容鍾を破ったが、徳の親征により討伐され鎮圧された。

rebellionSuppressionCountと対称の同一事案。

被反乱399年李辯の乱(滑台失陥)

首謀者: 李辯

結果: 配下の李辯が徳の任じた鲁陽王慕容和を殺害し、根拠地の滑台を魏へ引き渡した。首謀者は徳側の将・慕容雲に討たれたが、滑台の地は結局回復されず徳は拠点を放棄して南方へ移った。

rebellionSuppressionCountと対称の同一事案。

改元400年【皇帝即位(改元同時)】隆安四年、南郊にて皇帝を僭称し「改元為建平」と、皇帝号への改称に伴う改元。

出典: 晋書載記第二十七

大赦400年隆安四年、南郊にて皇帝を僭称した際「僭即皇帝位於南郊、大赦、改元為建平」。

隆安四年、南郊にて皇帝を僭称した際「僭即皇帝位於南郊、大赦、改元為建平」。皇帝号への改称・改元と同時の大赦。

出典: 晋書載記第二十七

立后400年隆安四年、南郊にて皇帝を僭称した際「以其妻段氏為皇后」と、妻の段氏を皇后に立てた記事がある。

出典: 晋書載記第二十七

反乱鎮圧403年慕容達の宮中クーデター未遂

首謀者: 慕容達

結果: 徳が母兄の訃報で病臥中、司隷校尉の慕容達が牙門皇璆に端門を攻めさせ宮中に乱入させたが、段宏らが四門に兵を屯し、徳自身も宮中に入って反乱側の侯赤眉らを誅殺した。慕容達は魏へ逃亡し鎮圧成功。

『資治通鑑』晋紀三十五・元興二年(403年)四月条に「司隸校尉慕容達謀反」とあり月まで判明。

反乱鎮圧403年王始の乱(泰山の妖賊)

首謀者: 王始

結果: 泰山で自ら太平皇帝を称して数万人を集めた王始の乱を、南燕の桂林王・慕容鎮が討ち捕らえ、都で斬首した。鎮圧成功。

『晋書』載記は「先是」として時期をやや遡らせて記すため厳密な年は幅があるが、『資治通鑑』は元興二年(403年)条に配置しており、それに従った。

被反乱403年慕容達の宮中クーデター未遂

首謀者: 慕容達

結果: 徳の病臥中に配下の司隷校尉・慕容達が兵を率いて宮中に乱入したが鎮圧され、達は魏へ逃亡した。

rebellionSuppressionCountと対称の同一事案。

被反乱403年王始の乱(泰山の妖賊)

首謀者: 王始

結果: 南燕領内の泰山で王始が自立し太平皇帝を称したが、慕容鎮に討たれ鎮圧された。

rebellionSuppressionCountと対称の同一事案。

大赦405年義熙元年、超を皇太子に立てる詔を下した際「乃下書以超為皇太子、大赦境内、子為父後者人爵二級」。

義熙元年、超を皇太子に立てる詔を下した際「乃下書以超為皇太子、大赦境内、子為父後者人爵二級」。徳が同月中に崩御する直前の大赦。

出典: 晋書載記第二十七

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