中国皇帝統計

慕容永

西燕(五胡十六国)|在位 386–394年

諱(本名)
慕容永
在位
386–394年
在位期間
9年1日365名中140位
即位経路
建国
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
5112名中12位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
145名中12位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

忠の死後、諸将から使持節・大都督中外諸軍事に推戴され実権を掌握。その後前秦苻丕の領地であった長子を占拠し皇帝位に即いて中興と改元。既存の西燕皇帝号を継承したのではなく新たな根拠地を得ての自立的即位のため建国に分類。

出典: 資治通鑑巻106、通鑑紀事本末第16巻補記: zh.wikisource.org。即位までの詳細経緯は完全には確認しきれずconfidence medium

死因の経緯

394年、後燕の慕容垂が長子を包囲、内応者の手引きで入城。永は逃走を図るも捕らえられ、罪状を数え上げられた上で処刑された(「垂進軍入城,永奔北門,為前驅所獲,於是數而戮之」)。公卿刁雲ら30余人も同時処刑。西燕を滅ぼした後燕(別政権)による捕縛後の公的処断のため処刑に分類。

出典: 晉書/卷123 慕容垂載記補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

永はそれ以前、段隨誅殺後に擁立された宜都王子顗(改元建明)、慕容沖の子瑶(改元建平)、慕容泓の子忠(改元建武)の3代の傀儡皇帝の下で仕えており、これらの改元は永自身のものではなく先行の各皇帝の即位に伴うもの(十六國春秋卷五十に明記)。永自身が皇帝として建元したのは太元十一年(386年)の「中興」の一度のみで、以後394年に慕容垂に滅ぼされるまで他の改元は確認されなかった。

大赦回数

資治通鑑(晉紀二十九・三十)・晉書載記第十五(苻丕・苻登傳、西燕関連記事を含む)・十六國春秋卷五十「慕容永」伝を通読したが、西燕主永自身が「大赦」「大赦天下」を行ったという記載は見当たらなかった。同時期の苻丕・苻登・姚萇・呂光らの大赦は複数回記録されているのに対し、永に関する記事にはこの語が一度も現れない(十六國春秋の永伝本文にも「赦」の語なし)ため、欠落ではなく実際に大赦を行わなかった可能性が高いと判断したが、逸文の可能性もあるため confidence は medium とした。

立后回数

資治通鑑(晉紀二十九、太元十一年条)に「將以秦後楊氏為上夫人,楊氏引劍刺永,為永所殺」とあり、永は前秦苻丕の未亡人楊氏を「上夫人」(皇后より下位の妃嬪号)に立てようとしたが、その前に楊氏に刺され、逆に楊氏を殺害したため、これは実現しておらず、また称号も「皇后」ではない。終始、永が皇后を正式に冊立した記録は見当たらない。

皇太子廃立回数

資治通鑑(晉紀三十、太元十九年条)に「永恐晉兵不出,又遣其太子亮為質;平規追亮,及於高都,獲之」とあり、永の太子亮は魏・晉への救援要請に伴う人質として送られる途中、後燕の将平規に捕らえられたことが確認できるが、これは敵軍による捕獲であり、永自身が太子を廃したという記載ではない。他に永が皇太子を廃立したという記録は見当たらないため0回とした。

親征回数

資治通鑑 晋紀二十九・三十(太元十一〜十九年条)に基づく。いずれも『西燕主永攻』『永引兵』『永自將』等、永自身が軍を率いたことが明記されている。事件1・2は永が河東王として即位直後〜皇帝即位に至る一連の軍事行動、事件5は西燕滅亡に至る最終親征。

反乱鎮圧回数

資治通鑑 晋紀二十九・三十を通読したが、永の在位中(386-394年)に西燕領内の服属民・部将による明確な武力蜂起(挙兵)は確認できなかった。唯一該当しうるのは太元十七〜十八年条『永以釗為車騎大將軍……歲餘,釗謀反,永殺之』(翟釗の謀反計画)だが、原文は謀反発覚と誅殺のみを記し、挙兵・交戦の記述がないため『密告・摘発のみで終わった謀反計画』に該当するとみなし除外した。また太元十九年の長子陥落時に大逸豆帰配下の伐勤が開門し燕兵を引き入れた件は、後燕による外部からの征服戦争(事件5)の一部と位置づけ、独立した内乱としては計上していない。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと対称的に0とした。永が在位中に直面した軍事的脅威は前秦残党・後秦・東晋・後燕という互いに独立した政権との対外戦争(統一戦争)がほとんどであり、これらは服属民の反乱に該当しないため除外した。翟釗の謀反計画(太元十七〜十八年)は挙兵に至った証拠がなく除外。長子陥落時の伐勤による開門(太元十九年)も後燕の外部征服戦争の一環とみなし、独立した被反乱事件としては計上していない。

遷都回数

在位中に遷都1回(0386年 長安→長子(上党))。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(reigns/accessionRoute/deathCause等)および_corpus_cache/xiyan-murongyong.txtに生年月日・享年の直接記載なし。追加で晋書載記(daizhigev20版、苻丕伝・慕容垂載記・慕容盛伝を含む全文)、十六国春秋巻五十慕容永伝(「慕容永字叔明,廆弟運之孫也」で始まる完全な伝記、即位から387年の襄陵の戦い・394年の長子陥落・処刑までの経緯を含む)を通読したが、生年・即位時年齢・没時年齢(時年◯◯/享年◯◯等)を示す記載は一切見当たらなかった。慕容永は西燕の一将軍から諸将推戴により大都督等に就き、さらに長子占拠により皇帝を自称した非皇族傍系(廆の弟運の孫)であり、史書における出自記事も簡略なため、生年不明は調査不足ではなく史料の欠落と判断する。

在位中の出来事(7件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元386年資治通鑑(晉紀二十九、太元十一年条):「永遂進據長子,即皇帝位,改元中興」。

資治通鑑(晉紀二十九、太元十一年条):「永遂進據長子,即皇帝位,改元中興」。晉書載記第十五(苻登伝)にも「永乃進據上黨之長子,僭稱大號,改元曰中興」、十六國春秋卷五十慕容永伝にも「遂進據長子,僭即帝位,改元中興」と一致する記載あり。これが永が自ら皇帝として即位し建元した唯一の改元(即位に伴う最初の建元)である。

出典: 資治通鑑 晉紀二十九 太元十一年/晉書 載記第十五 苻登傳/十六國春秋 卷五十 後燕錄八 慕容永傳

親征386年前秦(苻丕)

対象: 前秦(苻丕)

結果: 襄陵の戦いで前秦軍を大破(『丕弗許,與永戰於襄陵,秦兵大敗』)。丕はその後敗走中に晋軍に殺害され、永はそのまま長子を占拠して皇帝に即位(改元中興)。

資治通鑑 晋紀二十九、太元十一年条。行9439。

遷都386年長安 → 長子(上党)

『晋書』載記第十五(苻丕):「丕之臣佐皆沒慕容永、永乃進據上党之長子、僭稱大號、改元曰中興」。載記第二十四(慕容盛伝)にも「(慕容)沖爲段木延所殺、盛隨慕容永東如長子」とあり、太元十一年(386)正月の慕容沖弑殺後の内乱(段隨・慕容顗・慕容瑤・慕容忠の相次ぐ簒奪・弑立)を経て、慕容永が長安(阿房を含む関中一帯)を離れ上党郡長子県へ東遷し、そこを恒久の都として即位・建元(中興)したことが確認できる。正確な月日は載記に記載なし。(出典: 晋書 載記第十五 苻丕/晋書 載記第二十四 慕容盛)

親征387年前秦残党(雍州刺史兰椟)・後秦(姚萇)

対象: 前秦残党(雍州刺史兰椟)・後秦(姚萇)

結果: 兰椟を攻めたが(『西燕主永攻椟』)、椟の要請で介入した後秦主姚萇に河西で迎撃され敗走(『後秦主萇進撃西燕主永於河西,永走』)。椟はその後姚萇に捕らえられた。

資治通鑑 晋紀二十九、太元十二年条。行9486、9489。

親征390年東晋(洛陽方面、硃序)

対象: 東晋(洛陽方面、硃序)

結果: 洛陽方面へ自ら兵を率いて進軍したが(『西燕主永引兵向洛陽』)、東晋の将硃序に撃破され上党へ退却。

資治通鑑 晋紀二十九、太元十五年条。行9549。

親征391年東晋(河南、楊佺期)

対象: 東晋(河南、楊佺期)

結果: 河南に侵攻したが(『西燕主永寇河南』)、東晋の太守楊佺期に撃破された。

資治通鑑 晋紀二十九、太元十六年条。行9574。

親征394年5月〜394年8月後燕(慕容垂)

対象: 後燕(慕容垂)

結果: 台壁の戦いで自ら精鋭五万を率いて対戦したが(『永召太行軍還,自將精兵五萬以拒之』)、慕容垂の伏兵に大敗(斬首八千余級)、長子へ敗走。後燕軍が長子を包囲し、大逸豆帰配下の伐勤が開門して燕兵を引き入れたため陥落、永は捕らえられ処刑された。西燕は滅亡。

資治通鑑 晋紀三十、太元十九年条。行9634、9642。

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