廃帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 498年9月1日〜501年12月31日
- 没年
- 501年12月31日19歳(数え年)長生き順同率237位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓蕭諱宝巻字智蔵別称東昏侯呼び名の見方
出典
- 在位
- 南斉書 本紀第七 東昏侯
- 死因
- 南齊書/卷7(東昏侯紀)
- 即位経路
- 南齊書/卷7(東昏侯紀)
生涯
どんな皇帝か
南斉書の賛は、東昏侯を夏の桀や殷の紂に並べ、兵火をもてあそんで身を焼いたと評する。
即位まで
明帝の第2子で、494年に皇太子となった。遊びを好んで学問を好まなかったが、父はこれを咎めず、家人としての行いを勧めるだけだった。夜通し鼠を捕って楽しんだこともあった。498年に即位した。父は臨終に、事を為すのに人の後れを取るなと言い残していた。父の喪の哭礼死者を悼んで声をあげて泣く儀式では喉が痛いと言い、禿頭の羊闡が号泣して頭巾を落とすと大笑いした。
史料について
南斉書は、父のこの言葉のために群小を用いて宰臣君主を助けて政治を取りしきる大臣を誅したとする。
治世と最期
499年のうちに江祏らが殺され、始安王蕭遥光が反して斬られ、蕭坦之や徐孝嗣・沈文季も誅された。その年の末には陳顕達が尋陽で挙兵し、斬られた。通る道筋の住民を追い払って家々を空にさせた。
殺戮を担わせた徐世檦が帝を悪く言うと、権力を争う茹法珍らがこれを告げ、凶暴さを嫌い始めていた帝は500年に兵を送って殺させた。以後は茹法珍と梅虫児が権力を握った。定林寺で隠れていた病の僧が兵に見つかると、哀れむ側近を、獐や鹿を見ても射ないのかと退け、百本の矢を一斉に放たせた。500年には崔慧景が広陵で挙兵し、斬られた。崔慧景の乱を救った蕭懿ものちに害され、兄の死を聞いた蕭衍が襄陽で兵を挙げた。
寵姫の潘氏を貴妃皇帝の妃の中でも高い位の一つとし、皇后の褚氏を顧みなかった。金の蓮を床に貼って潘妃を歩かせ、一歩ごとに蓮の花が生ずると言った。501年には苑に市を立て、潘氏を市令市場を取り締まる役人、自らを市魁市場を仕切る頭として罰を執った。都を囲まれても、将兵への賞賜を請われると、賊は私一人を取りに来るのかと言って金銭を惜しんだ。茹法珍らが大臣を尽く誅すよう説くと、禍を恐れた王珍国と張稷が蕭衍に応じようと謀った。同じ年、二人の兵が殿中皇帝の宮殿の内に入ると、帝は逃げようとして宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男に膝を斬られ、張斉に首を斬られた。
史料について
金の蓮の話は南史と資治通鑑にあり、南斉書には無い。兵が殿中に入った条を、南斉書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は帝が廃されたと書き、南史は帝を殺したと書く。
廃帝とつながる皇帝

勢力図
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498–501年の地図に、廃帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・皇后1・改元1・大赦5
- 皇后498年12月9日皇后褚氏を立后。
- 改元499年元号を「永元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。499年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。499年皇太子誦(蕭誦)を立てるとともに大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。499年相次ぐ大臣誅殺を受けての大赦。
- 反乱499年始安王蕭遥光の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。500年崔慧景の乱鎮圧・
江夏王宝玄伏誅後の大赦。 - 反乱500年陳顕達の挙兵
- 反乱500年裴叔業の反乱(寿春の北魏降伏)
- 反乱500年崔慧景の乱
- 反乱500年12月24日〜501年12月31日蕭穎冑・
蕭衍(梁王、後の梁武帝)の挙兵と王珍国・ 張稷のクーデター - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。501年2月19日南郊祭祀に伴う大赦。
斉・南北朝の歴代皇帝
歴代7人の一覧年表
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