廃帝・東昏侯
斉・南北朝|在位 498–501年
- 諱(本名)
- 蕭宝巻
- 在位
- 498–501年
- 在位期間
- 3年121日365名中219位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 19歳(数え年)269名中・長寿順240位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 5回267名中82位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
明帝(高宗)の第二子として皇太子に立てられ、父帝崩御にともない正規の継承手続きで即位。
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
永元三年十二月、王珍國・張稷率いる兵が宮中に侵入、逃走中の東昏侯を近侍の武官・張齊が斬首(南齊書卷7 東昏侯紀)。実行犯は東昏侯自身の朝廷内の武官で、殺害時点では蕭衍側との事前共謀の記述は確認できず南斉から梁への王朝交代も未成立のため、同一政権内部の者による謀殺として暗殺に分類。
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中に確認できる改元はこの1回のみ。即位時(永泰元年七月)は先帝の元号を継続しており新元号の制定はなく、翌年正月の「永元」建元が実質的な最初の改元。
大赦回数
『南斉書』卷七 東昏侯紀を通読し「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを5件カウント。「曲赦」(京邑・南徐兖二州・荆雍二州・江州安成廬陵二郡等、地域限定の恩赦)は複数回記録されているが(永元元年八月丙午、永元二年四月癸酉・五月乙丑、永元三年六月戊子・七月癸巳など)、いずれも部分的恩赦のため対象外とした。日付は干支をsxtwl(授時暦系アルゴリズム)で該当年月内の唯一該当日として特定し西暦換算(既存データの在位開始日0498-09-01・終了日0501-12-31との整合を確認済み)。
立后回数
在位中に確認できる立后はこの1回(褚氏)のみ。
皇太子廃立回数
『南斉書』卷七 東昏侯紀に、永元元年四月己巳「立皇太子诵」(子の蕭誦を皇太子に立てた)との記事はあるが、その後の廃立の記述は見当たらない。永元三年十二月丙寅、王珍国・張稷らが「率兵入殿废帝」とあるのは東昏侯自身(皇帝)の廃位であって皇太子の廃立ではないため、本項目には計上しない。
親征回数
『南斉書』卷七 東昏侯紀を通読したが、皇帝本人が軍を率いて出征したことを示す記述(「帝自将」「亲征」「帝率」等)は見当たらない。陳顕達の乱・裴叔業の反乱・崔慧景の乱・蕭衍挙兵のいずれも「遣平西将軍崔慧景」「遣中領軍王莹」等、将軍を派遣する形で対応しており皇帝本人は建康の宮城内にとどまった。永元三年正月丙申朔の「阅武堂元会」で「帝戎服临视」(帝が軍装で観閲)とあるのは新年の閲兵儀礼であり実戦の親征ではないため計上しない。
反乱鎮圧回数
『南斉書』卷七 東昏侯紀を通読し、独立した首謀者による挙兵4件(始安王蕭遥光・陳顕達・裴叔業・崔慧景)を鎮圧回数として計上した。500年末〜501年末の蕭穎冑・蕭衍(梁王)による挙兵は、鎮圧に失敗し最終的に王珍国・張稷の宮中クーデターにより東昏侯自身が殺害され王朝実権を喪失した事件のため、鎮圧回数には計上せず被反乱回数のみに計上した(設問の指示に従う)。徐世檦は謀反者ではなく皇帝自身が先制して禁兵に殺害させた対象(例外3に該当)のため計上除外。日付はsxtwl(授時暦系アルゴリズム)で干支を該当年月内の唯一該当日として特定し西暦換算した(崔慧景挙兵開始日のみ原文の干支重複により特定不能で月精度)。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と同一の4件(蕭遥光・陳顕達・裴叔業・崔慧景)に加え、蕭穎冑・蕭衍の挙兵〜王珍国・張稷のクーデターによる弑殺の1件(鎮圧に失敗し在位終了=崩御に至った事件)を追加計上し合計5件とした。鎮圧回数(4件)との差は基準に定める正当な理由2(未鎮圧のまま在位終了)に該当する。
遷都回数
南斉書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から502年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
没年齢19歳は本紀に「時年十九」と直接記載(永元三年十二月丙寅、廃位と同夜に殺害)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(16件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
立后498年12月9日永泰元年十一月戊子、皇后褚氏を立后。
永泰元年十一月戊子、皇后褚氏を立后。原文:「十一月,戊子,立皇后褚氏,赐王公以下钱各有差。」同年七月己酉(498年9月1日)の高宗崩御・太子即位の後、東昏侯自身による立后。本紀中に廃后・再冊立の記録はなくこの1回のみ。
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)
改元499年1月28日永元元年正月戊寅(朔)、「永泰」から「永元」への改元。
永元元年正月戊寅(朔)、「永泰」から「永元」への改元。原文:「永元元年春,正月,戊寅,大赦,改元。」永泰元年七月己酉(498年9月1日)の即位後、父帝の元号「永泰」をそのまま踏襲していたが、翌年正月にはじめて自身の元号「永元」を制定。在位終了(永元三年十二月丙寅=501年12月31日、廃位・殺害)まで永元のまま改元なし。
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)
大赦499年1月28日永元元年正月戊寅(朔)、「大赦,改元」。
永元元年正月戊寅(朔)、「大赦,改元」。即位翌年最初の全国規模の大赦(改元と同日)。原文:「永元元年春,正月,戊寅,大赦,改元。」
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)
大赦499年5月19日永元元年四月己巳、皇太子誦(蕭誦)を立てるとともに大赦。
永元元年四月己巳、皇太子誦(蕭誦)を立てるとともに大赦。原文:「夏,四月,己巳,立皇太子诵,大赦,赐民为父后爵一级。」
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)
反乱鎮圧499年8月24日〜499年9月5日始安王蕭遥光の乱
首謀者: 蕭遥光(始安王、宗室・揚州刺史)
結果: 鎮圧成功(蕭遥光斬首)
永元元年八月丙午、揚州刺史始安王遥光が東府に拠って挙兵(「据东府反」)。朝廷は京邑を曲赦し戒厳、尚書令徐孝嗣以下が宮城を守り、領軍将軍蕭坦之を派遣して討伐。戊午(12日後)に遥光を斬り首を伝う。原文:「丙午,扬州刺史始安王遥光据东府反。诏曲赦京邑,中外戒严。尚书令徐孝嗣以下屯卫宫城。遣领军将军萧坦之率六军讨之。戊午,斩遥光,传首。」宗室・地方長官による反乱で短期間で鎮圧に成功。
被反乱499年8月24日〜499年9月5日始安王蕭遥光の乱
首謀者: 蕭遥光(始安王、宗室・揚州刺史)
結果: 鎮圧され蕭遥光は敗死
鎮圧回数の同名事件と同一。服属する宗室・地方長官による蜂起。
大赦499年9月9日永元元年八月壬戌、相次ぐ大臣誅殺を受けての大赦天下。
永元元年八月壬戌、相次ぐ大臣誅殺を受けての大赦天下。原文:「壬戌,以频诛大臣,大赦天下。」なお同月丙午条の「诏曲赦京邑」は京邑限定の恩赦のため対象外。
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)
反乱鎮圧500年1月1日〜500年1月30日陳顕達の挙兵
首謀者: 陳顕達(太尉・江州刺史)
結果: 鎮圧成功(陳顕達斬首)
永元元年十一月丙辰、太尉・江州刺史陳顕達が尋陽で挙兵。京師に迫るも十二月甲申に京師付近で六軍が固守し迎撃、翌乙酉に陳顕達を斬り首を伝う。原文:「十一月,丙辰,太尉、江州刺史陈显达举兵于寻阳。(…)十二月,(…)甲申,陈显达至京师,宫城严警,六军固守。乙酉,斩陈显达,传首。」政権に服属する大臣・地方長官による反乱で鎮圧成功。
被反乱500年1月1日〜500年1月30日陳顕達の挙兵
首謀者: 陳顕達(太尉・江州刺史)
結果: 鎮圧され陳顕達は敗死
鎮圧回数の同名事件と同一。服属する大臣・地方長官による蜂起。
反乱鎮圧500年3月〜500年5月崔慧景の乱
首謀者: 崔慧景(護軍将軍→平南将軍)
結果: 鎮圧成功(崔慧景敗走・斬首)
永元二年三月、朝廷は裴叔業討伐のため崔慧景を寿春に派遣したが(乙卯,遣平西将军崔慧景率众军伐寿春)、崔慧景は広陵で反転して挙兵し建康(京師)を襲撃(「崔慧景于广陵举兵袭京师」)。南徐州刺史江夏王宝玄がこれに呼応し建康城を開いて迎え入れた。崔慧景軍は宮城に迫り王莹らを撃破して京師に侵入したが(壬戌,慧景至,莹等败绩。甲子,慧景入京师)、豫州刺史蕭懿の救援もあり夏四月癸酉(0500-05-17)に崔慧景は敗走し斬首された。原文の当該箇所には「乙卯」の干支が三月内で二度出現するなど記述に不整合があり挙兵開始の正確な日は特定できなかったため月精度とした。江夏王宝玄はこの反乱に呼応した従犯として同年五月己酉(伏诛)に処刑されているが、崔慧景本人の乱の一部として扱い別件計上はしない。
被反乱500年3月〜500年5月崔慧景の乱
首謀者: 崔慧景(護軍将軍→平南将軍)
結果: 鎮圧され崔慧景は敗死
鎮圧回数の同名事件と同一。建康に迫るも鎮圧に成功。
反乱鎮圧500年3月15日〜500年4月3日裴叔業の反乱(寿春の北魏降伏)
首謀者: 裴叔業(豫州刺史)
結果: 鎮圧失敗(裴叔業は討伐前に病死、甥の裴植が寿春城を北魏に献じて降伏し領土喪失)
永元二年正月庚午、朝廷は豫州刺史裴叔業討伐を詔(「诏讨豫州刺史裴叔业」)。しかし同年二月己丑、裴叔業は討伐が及ぶ前に病死し、兄の子・裴植が寿春城をもって北魏(虏)に降伏した。原文:「庚午,诏讨豫州刺史裴叔业。」「己丑,裴叔业病死,兄子植以寿春降虏。」朝廷側は討伐を発令したが実際の軍事的鎮圧には至らず、結果として服属地方長官の離反により寿春を北魏に奪われた失敗事例。実際に鎮圧に成功したか否かは問わない基準に従い計上。
被反乱500年3月15日〜500年4月3日裴叔業の反乱(寿春の北魏降伏)
首謀者: 裴叔業(豫州刺史)
結果: 裴叔業は討伐前に病死、甥が寿春城を北魏に献じて降伏(鎮圧失敗)
鎮圧回数の同名事件と同一。服属する地方長官の離反・北魏への投降。
大赦500年6月25日永元二年五月壬子、崔慧景の乱鎮圧・江夏王宝玄伏誅後の大赦。
永元二年五月壬子、崔慧景の乱鎮圧・江夏王宝玄伏誅後の大赦。原文:「己酉,江夏王宝玄伏诛。壬子,大赦。」直後の「乙丑,曲赦京邑、南徐兖二州」は地域限定のため対象外。四月癸酉の「诏曲赦京邑、南徐兖二州」も同様に対象外。
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)
被反乱500年12月24日〜501年12月31日蕭穎冑・蕭衍(梁王、後の梁武帝)の挙兵と王珍国・張稷のクーデター
首謀者: 蕭穎冑(西中郎長史・荊州)/蕭衍(雍州刺史、後の梁王・梁武帝)
結果: 鎮圧失敗。義軍が建康を包囲する中、東昏侯配下の将軍王珍国・張稷が保身のため兵を率いて宮中に突入し東昏侯を弑殺(首は梁王蕭衍のもとへ送られた)。王朝実権は事実上蕭衍側に移った。
永元二年十一月甲寅、西中郎長史蕭穎冑が荊州で挙兵(「西中郎长史萧颖胄起义兵于荆州」)、同年十二月には雍州刺史蕭衍(原文では後の爵位で「梁王」と記す)も襄陽で挙兵(「雍州刺史梁王起义兵于襄阳」)。両者は連携し永元三年三月丁未には南康王宝融(後の斉和帝)を江陵で擁立して対立政権を樹立。義軍は李居士・王珍国ら朝廷軍を各地(新亭・朱雀桁等)で撃破しつつ建康を包囲、朝廷側は最後まで軍事的に鎮圧できなかった。永元三年十二月丙寅、包囲下で王珍国・張稷が「惧祸及」(禍が身に及ぶことを恐れ)て兵を率いて宮殿に突入し東昏侯を廃し、逃げる東昏侯を近侍の武官が斬首して首級を梁王蕭衍のもとへ送った。外部勢力(蕭穎冑・蕭衍陣営)の挙兵と、包囲下での朝廷内部武将による弑逆クーデターが一連の事件として東昏侯の死・王朝実権喪失に直結したため、被反乱回数には計上するが、朝廷側が最終的に鎮圧主体たり得なかった(鎮圧失敗のうえ皇帝自身が殺害された)ため鎮圧回数には計上しない(設問の指示に明示的に従った)。
大赦501年2月19日永元三年正月辛亥、南郊祭祀に伴う大赦天下。
永元三年正月辛亥、南郊祭祀に伴う大赦天下。原文:「辛亥,车驾祀南郊,诏大赦天下,百官陈谠言。」
出典: 南齊書/卷7(東昏侯紀)