明帝
斉・南北朝|在位 494–498年
- 諱(本名)
- 蕭鸞
- 廟号
- 高宗
- 在位
- 494–498年
- 在位期間
- 3年254日365名中207位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 47歳(数え年)269名中・長寿順93位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:明帝
即位の経緯
自ら擁立に関与した鬱林王を武力クーデターで排除、続いて自ら擁立した海陵王も約1ヶ月で仮病を装って死に至らしめた上で、皇太后の詔により高帝の養子格で即位。実質は自ら擁立した2人の幼帝を次々と排除した末の権力奪取のため簒奪に分類。
出典: 南齊書/卷5・卷6補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
「帝崩于正福殿,年四十七」(南齊書卷6 明帝紀)。暴力的死や毒殺を示す語はないが、具体的病状の記述がなく確認できる精度がやや低い。
出典: 南齊書/卷6(明帝紀)補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位建元(建武)と後年の永泰改元の計2回。なお巻五(海陵王紀)史臣曰に「隆昌、延興、建武、亦三改年号」とあるが、これは郁林王・海陵王(昭文)・明帝の3代にわたる年号変遷を指すもので、明帝個人の改元回数ではない。
大赦回数
いずれも「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを計上。建武二年正月辛未の「京師系囚殊死可降為五歳刑」(京師限定)、永泰元年四月甲寅の「赦三署囚系原除各有差」(三署限定)、永泰元年五月の「曲赦浙東、呉、晋陵七郡」(地域限定)は部分的恩赦のため除外した。
立后回数
在位中(建武元年~永泰元年)に皇后を正式冊立した記録は本紀中に見当たらない。乙酉条「追尊始安貞王為景皇,妃為懿后」は父母への追尊であり、皇后冊立には該当しない。
皇太子廃立回数
建武元年十一月戊子に皇子宝卷を皇太子に立てた記録はあるが、廃立の記録はなし。明帝崩御後、皇太子宝卷がそのまま即位(東昏侯)した。
親征回数
南齊書卷6明帝紀を通読したが、在位期間中(建武元年10月〜永泰元年7月、494-498年)に皇帝自身が「親征」「帝自将」等の形で出陣した記述はない。索虜(北魏)の司州・豫州・徐州・梁州侵攻(建武二年〜四年)に対しては、王広之・萧坦之・沈文季・陳顕達・崔慧景ら将軍への派遣(「遣」「督」)でのみ対応しており、皇帝本人の出陣は確認できない。また王敬則の乱(永泰元年)も刘山陽に「率軍東討」させており親征ではない。該当記事なしのためcount 0。
反乱鎮圧回数
同時期に見られる「誅萧谌・西陽王子明・南海王子罕・邵陵王子貞」(建武二年六月)「誅王晏」(建武四年二月)「誅河東王鉉ら十王」(永泰元年正月)は、原文に挙兵・軍事行動を示す語がなく、いずれも皇帝側からの一方的処刑・粛清(宗室・重臣の政治的粛清)であり武装反乱ではないため、反乱鎮圧・被反乱いずれにも計上しない(設問の参考情報どおり)。索虜(北魏)との交戦(建武二〜四年、司豫徐梁州方面)は対等な独立政権である北魏との対外戦争であり反乱には当たらないため除外。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と対称(同一事象を鎮圧・被反乱の両面から計上)。粛清(萧谌・王晏・河東王鉉ら十王誅殺)は皇帝側からの一方的処刑であり武装反乱ではないため除外。索虜(北魏)との戦争は対等な独立政権間の対外戦争のため除外。
遷都回数
南斉書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から502年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
没年齢47歳は本紀に「年四十七」と直接記載(永泰元年七月己酉)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元494年12月22日建武元年冬十月癸亥、即位の詔に「大赦天下,改元。
建武元年冬十月癸亥、即位の詔に「大赦天下,改元。」とあり、建武と改元(即位に伴う建元)。
出典: 南斉書帝紀第六(明帝紀)
大赦494年12月22日建武元年冬十月癸亥、即位の詔に「大赦天下,改元。
建武元年冬十月癸亥、即位の詔に「大赦天下,改元。」とあり。即位に伴う大赦天下。
出典: 南斉書帝紀第六(明帝紀)
反乱鎮圧498年4月〜498年5月王敬則の乱
首謀者: 王敬則
結果: 鎮圧成功
南齊書卷6明帝紀:永泰元年(建武四年)四月丁卯「大司馬会稽太守王敬則挙兵反」。会稽太守(大司馬の位を帯びる旧臣)が挙兵し建康に迫ったが、五月壬午に辅国将軍劉山陽が東討に派遣され、乙酉(同月)に王敬則は斬首・伝首。曲赦を浙東・呉・晋陵七郡に行った。皇帝自身の親征ではなく将軍による鎮圧。既に服属していた地方長官・旧臣の武装蜂起であり、南北間の対外戦争には当たらないため反乱鎮圧に計上。
被反乱498年4月〜498年5月王敬則の乱
首謀者: 王敬則
結果: 鎮圧され王敬則は敗死(斬首・伝首)
反乱鎮圧回数の事象と同一(王敬則の乱、永泰元年四月丁卯挙兵〜五月乙酉討伐完了)。会稽で挙兵し建康に迫る勢いを見せたが、劉山陽の討伐により約1ヶ月で鎮圧された。
改元日付不詳永泰元年夏四月甲寅「改元,赦三署囚系原除各有差。
永泰元年夏四月甲寅「改元,赦三署囚系原除各有差。」建武から永泰への改元。
出典: 南斉書帝紀第六(明帝紀)
大赦日付不詳建武二年十一月己卯「納皇太子妃褚氏,大赦。
建武二年十一月己卯「納皇太子妃褚氏,大赦。」皇太子妃冊立に伴う大赦天下。
出典: 南斉書帝紀第六(明帝紀)
大赦日付不詳建武四年春正月庚午「大赦。
建武四年春正月庚午「大赦。」
出典: 南斉書帝紀第六(明帝紀)
大赦日付不詳永泰元年春正月癸未朔「大赦。
永泰元年春正月癸未朔「大赦。」
出典: 南斉書帝紀第六(明帝紀)