中国皇帝統計

廃帝・海陵王

斉・南北朝|在位 494年

諱(本名)
蕭昭文
在位
494年
在位期間
74日365名中347位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
15歳(数え年)269名中・長寿順255位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

「鬱林王廢,尚書令西昌侯鸞議立昭文為帝」。蕭鸞が鬱林王を廃した後に擁立した傀儡皇帝。

出典: 南齊書/卷5(海陵王紀)補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

「稱王有疾,數遣御師占視,乃殞之」(南齊書卷5 海陵王紀)。仮病を装った体裁で医師を繰り返し派遣した末に死に至らしめたという記述で、病死を装った謀殺を示唆。主語は明記されないが文脈上蕭鸞側の関与が推定される。享年十五。

出典: 南齊書/卷5(海陵王紀)補記: zh.wikisource.org。主語は原文に明記されず文脈からの推定

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

後継の建武への改元は、蕭昭文が海陵王に降封された後、蕭鸞(明帝)が即位して行ったものであり、蕭昭文本人の在位中の出来事ではないため計上しない。「隆昌、延兴、建武,亦三改年号」という史臣曰の記述からも、延兴が蕭昭文の在位に対応する唯一の年号であることが確認できる。

大赦回数

在位期間(延兴元年七月丁酉即位~建武元年十一月殺害)中に「大赦」と明記された記事はこの即位時の1回のみ。

立后回数

在位期間中(在位1ヶ月半程度)に皇后冊立の記述は見られない。

皇太子廃立回数

在位期間中に皇太子・皇太弟等の法定推定継承者が立てられた記述、およびそれを廃した記述は見られない。

親征回数

在位期間(延興元年七月丁酉即位~同年十月辛亥廃位、約2ヶ月半)中、蕭昭文自身が軍を率いて出征したとする記述は南斉書卷五(海陵王紀)に見られない。「宣城王輔政,帝起居皆諮而後行」とあるように政務は実質的に驃騎大將軍蕭鸞(後の明帝)が掌握しており、軍事行動もすべて蕭鸞配下の諸将(王玄邈・王廣之等)への派遣によるもので、皇帝本人の出陣を示す「帝自将」「親征」等の記述は本紀中に確認できない。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

南斉書卷五を通読し、在位期間中に「起兵」と明記された挙兵はこの1件(晉安王子懋)のみ確認。同時期に誅殺された鄱陽王鏘・隨郡王子隆・安陸王子敬・南平王銳・郢州刺史晉熙王鈱・宜都王鏗・桂陽王鑠・衡陽王鈞・江夏王鋒・建安王子真・巴陵王子倫ら多数の宗室は、いずれも挙兵・武力抵抗を示す記述がなく蕭鸞側による一方的な誅殺(粛清)と判断し反乱には含めていない。実権は蕭鸞にあったが、名目上は昭文の朝廷による鎮圧として計上した(confidence medium)。

被反乱回数

反乱鎮圧回数と同数(2件)で対称。蕭子懋の乱は鎮圧・被反乱の双方に同一事件として計上。蕭鸞による廃位・弑殺は、宮中への武力突入を直接描写する記述がない点で鬱林王の事例(蕭諶が兵を率いて宮殿に入り弑殺)ほど明確ではなく、太后令という体裁を取っているため、確実な兵力行使の描写を欠く判断の余地がある事案としてconfidence mediumとした。それでも蕭鸞が軍事的実権(仮黄鉞・纂厳)を背景に廃位を強行した点は明白であり、例外4(内部権力者による兵力を伴うクーデター)に該当すると判断し計上した。

遷都回数

南斉書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から502年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

没年齢15歳は本紀に「年十五」と直接記載。崩御日は月までしか特定できない(建武元年十一月)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元494年9月10日延兴元年秋七月丁酉、即位の詔とともに「大赦、改元」とあり、延興と改元(即位建元)。

延兴元年秋七月丁酉、即位の詔とともに「大赦、改元」とあり、延興と改元(即位建元)。これが在位中唯一の改元。

出典: 南齐书本纪第五 海陵王紀

大赦494年9月10日延兴元年秋七月丁酉、即位の詔で「大赦、改元。

延兴元年秋七月丁酉、即位の詔で「大赦、改元。文武賜位二等。」と明記。即位に伴う全国規模の大赦。

出典: 南齐书本纪第五 海陵王紀

反乱鎮圧494年10月晋安王蕭子懋の挙兵

首謀者: 蕭子懋(晋安王、江州刺史)

結果: 鎮圧成功(討伐軍を派遣し、まもなく解厳)

原文(延興元年九月)「癸未,誅新除司徒鄱陽王鏘、中軍大將軍隨郡王子隆。遣平西將軍王廣之誅南兗州刺史安陸王子敬。於是江州刺史晉安王子懋起兵,遣中護軍王玄邈討之。」実権を握る驃騎大將軍蕭鸞が宗室の粛清(鄱陽王鏘・隨郡王子隆・安陸王子敬らの誅殺)を進める中、江州刺史晉安王蕭子懋が挙兵。政府(名目上は昭文の朝廷)は王玄邈を派遣し討伐に当たらせた。同年冬十月丁酉に「解厳」(全軍戒厳の解除)と記されており、この頃までに鎮圧が完了したとみられる。挙兵の正確な日付(癸未)・解厳日(丁酉)を西暦日に厳密換算する変換表が手元になく、既に確定している即位日(0494-09-10)・廃位日(0494-11-23)の間に収まる月として月精度で概算した。

被反乱494年10月晋安王蕭子懋の挙兵

首謀者: 蕭子懋(晋安王、江州刺史)

結果: 鎮圧された

反乱鎮圧回数側と同一事件(対称計上)。詳細はrebellionSuppressionCount参照。

被反乱494年11月23日〜494年11月蕭鸞によるクーデター的廃位・弑殺

首謀者: 蕭鸞(驃騎大將軍・太傅・宣城公→尚書令・録尚書事、後の明帝)

結果: 皇太后令により海陵王に降封(廃位)、翌月(建武元年十一月)に毒殺され死去

実権を握る驃騎大將軍・宣城公蕭鸞は九月の宗室粛清に際し仮黄鉞・内外纂厳を経てすでに軍事的実権を掌握。延興元年十月辛亥、皇太后令「帝可降封海陵王,吾當歸老別館」により昭文を海陵王に降封し自ら帝位に即いた(建武元年、明帝)。鬱林王の事例のような、兵を率いて宮中に直接踏み込んだという明示的な場面描写は本紀にないが、既に纂厳・仮黄鉞で軍事権を掌握していた蕭鸞が皇太后令を主導させ強制的に廃位に追い込んだ構図であり、朝廷内部の権力者による兵力を背景とした廃立(例外4パターン)と判断した。さらに建武元年十一月「稱王有疾,數遣御師占視,乃殞之」とあり、廃位の約1ヶ月後に毒殺された(deathCauseと内容重複するが規定により許容)。廃位と弑殺は同一の蕭鸞による一連の政変とみなし1件として計上。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。