蕭昭文は南斉の文恵太子の第2子で、兄の鬱林王が廃されたあと蕭鸞に立てられたが、同じ年のうちに廃され、まもなく殺された。
廃帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 494年9月10日〜494年11月23日
- 没年
- 494年12月15歳(数え年)長生き順同率252位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 廃帝斉・
南北朝 廃帝は廃帝の弟
- 廃帝斉・
- 次代
- 明帝斉・
南北朝 明帝は廃帝の同族(遠縁)
- 明帝斉・
- 呼び名
- 姓蕭諱昭文字季尚諡号恭王別称海陵王呼び名の見方
出典
- 在位
- 南斉書 本紀第五 海陵王紀
- 死因
- 南齊書/卷5(海陵王紀)
- 即位経路
- 南齊書/卷5(海陵王紀)
生涯
どんな皇帝か
南斉書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は人柄を評さず、1年に3度改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることしたことを後漢の献帝や晋の恵帝の例に並べ、喪乱の軌跡は千年を隔てても同じだと述べる。
即位まで
文恵太子の第2子で、母は宮人宮中に仕え暮らした女性たちの許氏である。486年に臨汝公に封じられ、兄の鬱林王が即位すると新安王となった。494年に兄が廃されると、蕭鸞に立てられて即位した。即位の詔は兄を昏忍と断じ、延興と改元した。
治世と最期
在位中には錦繡の履などの禁令が改めて申し渡され、州郡の吏民役人と民を当てていた役を長く停めるよう詔が出た。人心がまだ服さないなか、蕭鸞は江祏の勧めで肩の赤いあざを王洪範に見せ、隠すべきでない、公卿朝廷の位の高い大臣たちに言いましょうと言われて大いに喜んだ。
実権は蕭鸞にあり、鄱陽王蕭鏘や桂陽王蕭鑠など諸王王に取り立てられた皇族たちが次々と誅された。荊州にいた弟の蕭昭秀は、何昌宇が討手を拒んだので都へ戻れた。
帝の起居はすべて蕭鸞に諮ってから行われ、蒸した魚菜を食べたいと望んでも、録公の命が無いとして与えられなかった。同じ年、皇太后の令で、幼く病がちだとして海陵王に落とされ、蕭鸞が高帝の第3子として入って位を継いだ。虞悰は蕭鸞の即位に病と称して列席せず、廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることの功臣に加わるのも断った。漢の東海王の例で遇されたが、王が病気だと称して御医がたびたび遣わされ、そのまま殺された。恭王と諡された。
史料について
殺させたのを、資治通鑑は明帝と明記し、南斉書は主語を書かず、魏書はまもなく死んだとだけ書く。
廃帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
494年の地図に、廃帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1・大赦1
- 改元494年9月10日元号を「延興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。494年9月10日
- 反乱494年10月晋安王蕭子懋の挙兵
- 反乱494年11月23日〜494年12月蕭鸞によるクーデター的廃位・
弑殺
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