中国皇帝統計

廃帝・鬱林王

斉・南北朝|在位 493–494年

諱(本名)
蕭昭業
在位
493–494年
在位期間
1年11日365名中295位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
21歳(数え年)269名中・長寿順230位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

文惠太子の長子として皇太孫に立てられ、武帝崩御にともない正規の継承手続きで即位。

出典: 南齊書/卷4(鬱林王紀)補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

隆昌元年七月、蕭諶が兵を率いて宮中に侵入。昭業は自刺未遂の後、帛で首を絞められ運び出され殺害された(南齊書卷4 鬱林王紀)。蕭諶は実権を握る西昌侯蕭鸞(後の明帝)配下として動いており、宮廷内クーデターによる謀殺のため暗殺。時年二十一(原文採用、旧「享年二十二」記載から修正)。

出典: 南齊書/卷4(鬱林王紀)補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

本紀中に「改元」の語が明記された記事はこの1件(隆昌)のみ。即位に伴う建元は行われず(永明年号を継続)、隆昌への改元のみが該当する。

大赦回数

本紀を通読し「大赦」の語が明記された記事はこの1件のみ確認。地域限定・部分的な恩赦(放遣・蠲除等)は含めていない。

立后回数

本紀中に立后記事はこの1件(何氏)のみ確認。廃后・再冊立の記事は確認できなかった。

皇太子廃立回数

鬱林王の在位期間中、皇太子・皇太弟・皇太孫等の法定推定継承者が廃された記事は本紀中に確認できなかった。なお本紀後半で高宗(蕭鸞)が鬱林王自身(皇帝)を廃黜する記事はあるが、これは皇帝本人の廃立であり「皇太子廃立」には該当しないため計上しない。

親征回数

南斉書巻四(鬱林王紀)に親征・皇帝自ら軍を率いた記述は見られない。在位中は専ら宮中での放蕩・浪費(銭を数億費消、雞闘に耽る等)が記され、対外・対内の軍事行動を自ら指揮した形跡なし。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

在位中(493年8月即位〜494年7月廃位)に鬱林王側(政権側)が主体となって鎮圧した反乱の記述は見られない。竟陵王子良・武陵王晔はいずれも薨(病死)と明記され、蜂起の記述なし。宦官徐龍駒・直閤将軍周奉叔・中書舎人綦母珍之は高宗(蕭鸞)により誅殺されたが、これは蕭鸞側による帝の側近粛清であり、帝側が鎮圧した反乱ではない。該当記事なし。

被反乱回数

南斉書巻四に基づき、蕭鸞主導の武力クーデターによる廃位・殺害を1件として計上。

遷都回数

南斉書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から502年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

没年齢21歳は本紀に「時年二十一」と直接記載。既存deathCauseフィールドの「享年二十二」は原文に基づき21歳に修正済み(2026-07-16ユーザー確認)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

立后493年10月永明十一年(即位年)冬十月壬寅、皇太孫太妃を皇太后に尊ぶと同時に何氏を皇后に立てた。

永明十一年(即位年)冬十月壬寅、皇太孫太妃を皇太后に尊ぶと同時に何氏を皇后に立てた。原文:「冬,十月,壬寅,尊皇太孙太妃为皇太后,立皇后何氏。」日(壬寅)は干支で判明しているが西暦日への正確な換算は未実施のためdatePrecisionはmonthとした。

出典: 南齊書卷四(鬱林王紀)

改元494年1月隆昌元年春正月丁未、改元。

隆昌元年春正月丁未、改元。原文:「隆昌元年春,正月,丁未,改元,大赦。」即位(永明十一年秋)当初は先帝の永明年号をそのまま継続使用し、翌年正月に隆昌と改元した。日(丁未)は干支で判明しているが西暦日への正確な換算は未実施のためdatePrecisionはmonthとした。

出典: 南齊書卷四(鬱林王紀)

大赦494年1月隆昌元年春正月丁未、改元と同時に大赦を実施。

隆昌元年春正月丁未、改元と同時に大赦を実施。原文:「隆昌元年春,正月,丁未,改元,大赦。」日(丁未)は干支で判明しているが西暦日への正確な換算は未実施のためdatePrecisionはmonthとした。在位中に確認できる「大赦」の記事はこの1件のみ。

出典: 南齊書卷四(鬱林王紀)

被反乱494年7月22日蕭鸞による廃位・弑逆クーデター

首謀者: 蕭鸞(鎮軍将軍・西昌侯、のちの斉明帝)

結果: 鬱林王は寿昌殿から愛姫徐氏の房へ逃げ自刺を試みるも失敗、帛で首を絞められて殺害された(時年二十一)。屍は徐龍駒宅から運び出され王礼で葬られた。蕭鸞は新安王昭文(海陵王)を擁立し、皇太后令により事後的に廃黜の形式を整えた。

例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当すると判断。原文に「使萧谌、坦之等于省诛曹道刚、朱隆之等,率兵自尚书入云龙门,戎服加朱衣于上」「萧谌领兵先入宫,截寿昌阁」「宿卫将士皆操弓盾欲拒战,谌谓之曰:所取自有人,卿等不须动」とあり、明確に兵力を用いたクーデターであることが確認できる。形式上は皇太后令による廃黜だが、実質は権臣蕭鸞が武力で決行した弑逆であり、帝側が鎮圧する立場ではないため rebellionSuppressionCount には計上せず、rebellionSufferedCount のみに計上した。confidence は高いが、鎮圧未遂での抵抗が宿衛将士のごく短時間の動揺にとどまり大規模な戦闘ではない点を考慮しnoteに詳記。

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