武帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 482年4月11日〜493年8月27日
- 没年
- 493年8月27日54歳(数え年)長生き順同率62位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓蕭諱賾字宣遠幼名龍児廟号世祖呼び名の見方
出典
- 在位
- 南斉書 本紀第三 武帝紀
- 死因
- 南齊書/卷3(武帝紀)
- 即位経路
- 南齊書/卷3(武帝紀)
生涯
どんな皇帝か
南斉書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、賞罰がすべて自ら出て府庫が満ちたと評しつつ、心のうちは詳らかでないと結ぶ。南史の論はこの批判を除き、斉の良主とする。
即位まで
高帝の長子で、父の即位で皇太子となった。東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人では専断して側近の張景真に天子の品を使わせ、荀伯玉の密告で知った父は怒って嫡子を替える意を持ったが、王敬則のとりなしで廃されずに済んだ。帝は伯玉を深く恨んだ。482年に父が没すると即位し、翌年に永明と改めた。同じ年、父が臨終にかばった荀伯玉は、垣崇祖とともに処刑された。
史料について
嫡子を替える意を、南斉書は豫章王嶷伝に書き、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分には無い。廃されずに済んだのを王敬則のとりなしとするのは南史の荀伯玉伝と魏書である。
治世と最期
剛毅で決断力があり、富国を先とした。同母弟の蕭嶷と仲が良く、揚州刺史州という地方の区画を治めた長官を子良に譲りたいという嶷の願いを最後まで許さなかった。492年に嶷が没すると宴の席でも涙を流した。射雉を好み、488年に諫めた邯鄲超の言をいったんは聞き入れたが、超はのちに誅された。
490年、子の巴東王蕭子響が僚佐を殺して討伐を受け、死んだ。帝は子響の死を憐れみ、のちに華林園で子に向かって鳴く猿を見て嗚咽した。厳しい性格で多くの耳目を置いたが、皇太子の蕭長懋のふるまいを報告する者はなく、太子の東田の壮麗さを見て大いに怒った。
493年に太子が先に没すると、その子の蕭昭業を皇太孫位を継ぐ者と定められた皇帝の孫に立てた。同じ年、北魏が国境に迫るなか病に倒れ、動揺を恐れて病を押して楽を奏させた。危篤で一時息が絶えたとき、王融が竟陵王蕭子良を立てようとしたが、帝は蘇生した。遺詔皇帝が死に際に残した命令で皇太孫を子良らに補佐させ、同じ年に没した。
史料について
邯鄲超を、南史の本紀は上書君主に意見を書いて差し出すことが奏されるとすぐ死を賜ったと書く。子響の最期を、南斉書の子響伝は降って死を賜ったとし、南史の子響伝は文恵太子の密命を受けた蕭順之が縊殺首を絞めて殺すことしたとする。王融の件は南斉書の王融伝と資治通鑑にあり、本紀には無い。
武帝とつながる皇帝

勢力図
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482–493年の地図に、武帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱4・改元1・大赦5
- 改元483年元号を「永明」とする
- 反乱486年唐宇之(唐寓之)の乱
- 反乱487–488年桓天生の乱(雍州・
比陽・ 隔城方面) - 反乱490年巴東王蕭子響(魚復侯子響)の乱
- 反乱493年4月雍州刺史王奐の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
斉・南北朝の歴代皇帝
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