中国皇帝統計

武帝

斉・南北朝|在位 482–493年

諱(本名)
蕭賾
廟号
世祖
在位
482–493年
在位期間
11年141日365名中119位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
54歳(数え年)269名中・長寿順63位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
5267名中82位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
4289名中127位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝

即位の経緯

「建元四年三月壬戌,太祖崩,上即位」。高帝の嫡長子として正常な父子継承。

出典: 南齊書/卷3(武帝紀)補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

「是日上崩,年五十四」(南齊書卷3 武帝紀)。遺詔で皇太孫昭業への政権移譲を指示。暴力的死を示す語なし。

出典: 南齊書/卷3(武帝紀)補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

建元四年三月壬戌の即位記事自体には改元の明記はなく(先帝の年号「建元」がそのまま当年内は継続)、翌永明元年正月辛亥条に「大赦,改元」と明記される。これを即位に伴う最初の(実質的な)建元相当のイベントとしてカウントし、他に改元の記事は見られないため計1回とした。

大赦回数

本紀本文で「大赦」の語が明記される箇所のみを対象に5件を抽出した(うち1件は明確に「大赦天下」)。永明元年六月「詔申壬戌赦恩百日」(即位時大赦の期間延長)、永明二年三月「詔申辛亥赦恩五十日」(改元時大赦の期間延長)は新規の大赦宣言ではなく既存の大赦恩恵の延長であるため対象外。永明元年四月戊寅「悉原赦」、六月「皆原宥」などの部分的恩赦・免除の詔も「大赦」と明記されないため対象外とした。

立后回数

本紀本文中に武帝在位中の生前の皇后冊立の記事は見当たらない。永明元年四月辛卯「追尊穆妃为皇后」は、既に故人であった穆妃(皇太子長懋の生母)を崩御後に皇后として追尊した記事であり、生前の正式な立后には該当しないため対象外とした。武帝の在位中、皇后は不在であったと判断される。

皇太子廃立回数

建元四年六月甲申に皇太子長懋(後の文恵太子)が立てられ、永明十一年正月丙子に長懋が薨去(病没)するまで在位中一貫して皇太子の地位にあり、廃立の記事は本紀中に見られない。長懋の薨去後、永明十一年四月甲午に皇太孫昭業が立てられており、皇太子から皇太孫への継承であって廃位ではない。

親征回数

南斉書卷三武帝紀(在位期間:建元四年三月〜永明十一年七月、482〜493年)を通読したが、「帝自将」「親征」「上親率」等、皇帝本人が出陣したことを示す記述は在位中には見られない。唐宇之(唐寓之)の乱・桓天生の乱・巴東王子響の乱・王奂の乱いずれも「遣○○討之」の形で将軍・使者を派遣する形式であり、武帝自身の出征は確認できないため0回とした。なお即位前(宋末、江州刺史晋安王子劉子勛の反乱鎮圧時など)には自ら兵を率いた記述が複数あるが、これは即位前・皇帝としての在位期間外の事績のため対象外とした。

反乱鎮圧回数

南斉書本紀(china-history収録、卷三)と列伝(daizhigev20版南斉書.txt全文)を突合して4件を特定した。唐寓之の乱・巴東王子響の乱・王奂の乱は原典記述が明確で高確度。桓天生の乱は北魏軍の介入規模が大きく対外戦争的性格も帯びるため、服属民反乱としての計上妥当性についてmedium confidenceとした(全体の確信度もこれに引きずられmediumとした)。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと対称的に同一の4件を計上した。皇帝側が鎮圧の主体であり、丞相・権臣による弑逆等の例外4に該当する事例は武帝の在位中には確認できなかった。桓天生の乱のみ対外戦争との境界が曖昧なためmedium confidenceとした。

遷都回数

南斉書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から502年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢54歳は本紀地の文に「年五十四」と明記されており、この値を採用する(2026-07-16ユーザー確認)。同箇所の武帝自身の遺詔中の自称「吾行年六十」(60歳)とは食い違いがあるが、地の文(史官による記述)を優先した。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧486年1月唐宇之(唐寓之)の乱

首謀者: 唐宇之(唐寓之)

結果: 鎮圧成功(伏誅)

永明四年正月、富陽の民・唐宇之(史料により「唐寓之」表記、事前情報の486年会稽・浙江方面反乱・自称呉王と同一事件と判断)が桐廬に集結し富陽・銭塘等の県を攻略、東陽太守蕭崇之を殺害。皇帝は宿衛兵を派遣して討伐させ、唐宇之は伏誅した(南斉書卷三本紀)。皇帝自身の出征ではなく将兵派遣による鎮圧。

被反乱486年1月唐宇之(唐寓之)の乱

首謀者: 唐宇之(唐寓之)

結果: 鎮圧成功(伏誅)

rebellionSuppressionCountと同一事件。富陽の民衆が挙兵し東陽太守を殺害するなど実害を及ぼしたため被反乱としても計上。

反乱鎮圧487年〜488年桓天生の乱(雍州・比陽・隔城方面)

首謀者: 桓天生

結果: 戴僧静(永明五年、比陽で撃破)・曹虎(永明六年四月、隔城で撃破し奪還)により撃退・鎮圧

南斉書列伝(戴僧静伝・曹虎伝、daizhigev20版)より判明。「荒人」桓天生(斉の辺境の民)が雍・司二州境で蛮族と結び北魏の兵(虜)を引き入れて反乱・侵攻(本紀の永明五年正月「雍、司二州蛮虜屡動」の記事に対応、丹陽尹蕭景先・護軍陳顕達を派遣した記述と一致)。永明五年、戴僧静が比陽で大破、六年四月には曹虎が隔城を攻略し賊軍を撃退した。ただし桓天生本人がその後討たれたか北魏側へ逃亡したかは本紀・列伝から確認できず、鎮圧は「撃退成功」にとどまる可能性がある。また北魏の大軍(一万〜十万規模と誇張的記述あり)が介入している点で対外戦争的性格も帯びるため、服属民(斉の辺境民)による反乱として計上したが、confidence medium相当の判断が必要な事例。

被反乱487年〜488年桓天生の乱(雍州・比陽・隔城方面)

首謀者: 桓天生

結果: 戴僧静・曹虎により撃退

rebellionSuppressionCountと同一事件。斉の辺境民が北魏の兵を引き入れて侵攻・反乱した事例として被反乱にも計上。

反乱鎮圧490年巴東王蕭子響(鱼復侯子響)の乱

首謀者: 蕭子響(巴東王/鱼復侯、武帝第四子)

結果: 当初台軍(尹略ら)は子響軍に敗れたが、増援の蕭順之が到着すると子響方は瓦解し子響は投降、伏誅

南斉書列伝(子響伝、daizhigev20版)・本紀(永明八年条「巴東王子響有罪、遣丹陽尹蕭順之率軍討之、子響伏誅」)より。荊州刺史であった皇子・巴東王子響が長史劉寅ら僚佐を殺害し軍備を整えて拠点にこもり、皇帝が派遣した胡諧之・游撃将軍尹略・中書舎人茹法亮らの部隊と交戦(尹略戦死、台軍敗走)。その後増援の丹陽尹蕭順之が到着すると子響側は離散し、子響は白服で投降するも斬られた(享年22)。皇帝の実子による武装抵抗であり、南朝の宗室内乱として反乱鎮圧・被反乱の双方に計上。

被反乱490年巴東王蕭子響(鱼復侯子響)の乱

首謀者: 蕭子響(巴東王、武帝第四子)

結果: 台軍が一時敗北(尹略戦死)するも増援により鎮圧、子響は伏誅

rebellionSuppressionCountと同一事件。皇帝の実子による武装抵抗で、当初は官軍が敗北しており被害も大きいため被反乱に計上。

反乱鎮圧493年3月雍州刺史王奂の乱

首謀者: 王奂(実際の武装抵抗は子の王彪が主導)

結果: 王奂・王彪ら討伐され伏誅(鎮圧成功)

南斉書本紀(永明十一年三月乙亥「雍州刺史王奂伏誅」)・列伝(王奂伝)より。王奂が部下の寧蛮長史劉興祖を私的に獄死させ詔勅にも従わなかったため、皇帝は中書舎人呂文顕・直閤将軍曹道剛に斎仗五百人を率いさせて王奂を捕縛に向かわせ、鎮西司馬曹虎にも襄陽への合流を命じた。王奂の子・王彪が武装して州の武器庫を開き軍を集めて閉門抵抗し官軍と交戦したが、最終的に王奂配下の司馬黄瑶起・寧蛮長史裴叔業が城内で挙兵して王奂を討ち、王奂・王彪・その弟らは伏誅した。皇帝側からの追討命令に対する現地官の武装抵抗であり、鎮圧・被反乱の双方に計上。

被反乱493年3月雍州刺史王奂の乱

首謀者: 王奂(実際の武装抵抗は子の王彪)

結果: 鎮圧成功(王奂・王彪ら伏誅)

rebellionSuppressionCountと同一事件。地方長官・その子による朝命拒否・武装抵抗のため被反乱に計上。

改元日付不詳永明元年正月辛亥、車駕南郊を祠り「大赦,改元」。

永明元年正月辛亥、車駕南郊を祠り「大赦,改元」。先帝太祖(高帝)の年号「建元」が即位後も建元四年内は継続使用され、翌年正月に至って新年号「永明」へ正式に改元された。武帝の在位中に使用された年号は「永明」のみで、本紀本文中で改元が明記される箇所はこの1件のみ。

出典: 南齐书本纪卷三・武帝纪

大赦日付不詳建元四年三月壬戌、太祖崩御を承けて上(世祖武帝)即位、「大赦」(即位に伴う大赦)。

出典: 南齐书本纪卷三・武帝纪

大赦日付不詳永明元年正月辛亥、車駕南郊を祠り「大赦,改元」(改元と同時の大赦)。

出典: 南齐书本纪卷三・武帝纪

大赦日付不詳永明三年正月辛卯、車駕南郊を祀り「大赦」。

永明三年正月辛卯、車駕南郊を祀り「大赦」。都邑三百里内で罪が重きに入るべき者は一等を降し、その他は赦制による。

出典: 南齐书本纪卷三・武帝纪

大赦日付不詳永明七年正月辛亥、車駕南郊を祀り「大赦」。

永明七年正月辛亥、車駕南郊を祀り「大赦」。京邑の貧民に普く賑賜。

出典: 南齐书本纪卷三・武帝纪

大赦日付不詳永明八年七月癸卯、皇太孫(儲胤)の病を機に「可大赦天下」の詔。

出典: 南齐书本纪卷三・武帝纪

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