中国皇帝統計

光文帝

前趙・漢趙(五胡十六国)|在位 308–310年

光文帝の肖像
諱(本名)
劉淵
在位
308–310年
在位期間
308日365名中305位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
3332名中45位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
245名中3位タイ

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:光文帝

即位の経緯

匈奴の単于家系(前漢と縁戚関係を主張)出身。西晋の八王の乱に乗じ、304年に漢王を自称して挙兵、308年に皇帝を称し漢(前趙、漢趙)を建国。

出典: 晉書 載記第一 劉元海

死因の経緯

河瑞2年(310年)7月、病篤くなり劉歓楽・劉洋らに遺詔を託した後、崩御(在位6年)。9月、光文皇帝と諡され永光陵に葬られた。『晋書』劉元海載記は「寝疾」「疾篤」と病状悪化の経過のみ記し、具体的な病名の記載はないが他殺の記述もない。

出典: 晉書 載記第一 劉元海

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

人物固有の注意事項に従い、建国者としての元熙(皇帝即位前・漢王即位時)→永凤(皇帝即位時)→河瑞(皇帝在位中)の3回の建元・改元をすべて含めた。永凤改元の年次は原文「永嘉二年」(308年)を採用し確定(2026-07-16ユーザー確認、reigns側の即位年も309→308に修正済み)。

大赦回数

「大赦」と明記された事例のみを計上した(2回)。これとは別に、漢王即位時(永興元年/304年、「乃赦其境内、年号元熙」)および崩御直前の立后・立太子時(「以刘欢乐为太傅…赦其境内。立其妻单氏为皇后、子和为皇太子」)にも「赦其境内」の記述があるが、「大赦」の語を欠くため厳密基準では計上対象外とした(境内=自国全域を対象とする恩赦である点は他の大赦事例と同様であり、広義には該当し得る点に留意)。

立后回数

『晋書』本文で「立...为皇后」と明記される事例は単氏の一件のみ。呼延氏の王后冊立(304年)は皇帝即位前の出来事であり、かつ「王后」であって「皇后」ではないため対象外とした。

皇太子廃立回数

劉元海の在位中に皇太子(子の劉和、崩御直前に立太子)が廃されたとする記述はない。和は元海の崩御後に即位し、その後まもなく弟の劉聡に討たれているが、これは元海在位中の出来事ではない。

親征回数

晋書載記第一によれば、劉淵は304年の大単于・漢王即位以降310年崩御まで、対晋の軍事行動(劉曜・劉景・劉延年・劉聡・王弥・呼延翼ら諸将子への派遣)を一貫して将軍・皇子に委任しており、本人が自ら軍を率いて出陣した記述は見当たらない(例:「元海遣其建武将軍劉曜寇太原」「命右於陸王劉景…将討鮮卑」「元海駆黄門郎傅詢召聡等還師」等はいずれも派遣・命令のみ)。聡が敗走した際も「元海素服迎師」(喪服で迎えるのみ)とあり、親征の実例なし。

反乱鎮圧回数

劉淵在位期間(304年大単于即位〜310年崩御)中、載記第一に記録される軍事衝突はすべて対晋(司馬騰・司馬越・劉琨・王浚ら)の戦争であり、これは劉淵が晋から独立した対等な政権を樹立して晋を打倒しようとする建国戦争であるため、ブロック方針により鎮圧・被反乱いずれからも除外する。載記中に劉淵配下の服属民・部族による蜂起の記述は見当たらない。

被反乱回数

同上の理由により、対晋戦争は対等政権間の統一戦争として除外。「元康末、坐部人叛出塞免官」という記述があるが、これは304年即位以前(晋の官吏として左部帥・北部都尉であった時期)の出来事であり、かつ実際の武力鎮圧行動が記されていない(部民が塞外へ逃亡しただけで免官処分を受けた)ため、対象期間外・要件不充足として計上せず。劉淵没後の劉和と劉聡の内紛(310年)は劉淵の在位終了後の出来事のため対象外。

遷都回数

在位中に遷都2回(0305年 離石→蒲子、0308年 蒲子→平陽)。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause/accessionRoute/reigns等)および_corpus_cache/qianzhao-liuyuan.txt(晋書載記第一 劉元海伝)を確認したが、生年月日・享年・即位時年齢の直接記載は見当たらなかった。原文は「七歳にして母の喪に遭う」等の逸話や「身長八尺四寸」といった体格描写はあるが、生年や没年齢を示す「時年」「享年」等の記述はなく、崩御記事も「以永嘉四年死、在位六年」と在位年数のみで年齢の記載がない。年号年ラベルの差分から逆算する材料(特定年号年における年齢の直接記載)も存在しないため、accessionAge/deathAgeともnullのまま確定した。deathDateは既存reigns[].endDate(河瑞2年7月8日=310年8月19日、日精度)を採用。birthDateは不明のためnull。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元304年【皇帝即位前】南郊に壇を設けて漢王に即位し、境内を赦して年号を「元熙」と建元した(「乃为坛于南郊、僭即汉王位…乃赦其境内、年号元熙」)。

【皇帝即位前】南郊に壇を設けて漢王に即位し、境内を赦して年号を「元熙」と建元した(「乃为坛于南郊、僭即汉王位…乃赦其境内、年号元熙」)。永興元年(304年)の出来事。人物固有の注意事項により、建国に伴う最初の建元としてeraChangeCountに含めた。

出典: 晋書載記第一(劉元海)

遷都305年離石 → 蒲子

劉元海(光文帝)在位中。晋書載記第一(刘元海載記): 永興元年(304)左国城で漢王を称し離石に都した後、「二年(永興二年=305年)……是歳、離石大饑、遷於黎亭、以就邸閣穀……遂進拠河東、攻寇蒲坂・平陽、皆陥之。元海遂入都蒲子」とあり、離石の飢饉により黎亭へ一時移動した後、蒲坂・平陽を攻略して正式に蒲子に都を定めた(「入都蒲子」の明記)。離石自体は建国当初の定都(永興元年の漢王即位に伴う最初の定都)にあたるため対象外とし、その後の蒲子への移転を遷都イベントとしてカウントした。(出典: 晋書 巻百一 載記第一 劉元海)

改元308年【皇帝即位(改元同時)】皇帝を僭称し、境内を大赦して「永凤」に改元した(「永嘉二年、元海僭即皇帝位、大赦境内、改元永凤」)。

【皇帝即位(改元同時)】皇帝を僭称し、境内を大赦して「永凤」に改元した(「永嘉二年、元海僭即皇帝位、大赦境内、改元永凤」)。原文の「永嘉二年」(308年)を採用し、既存reignsのstartDateRawも309年10月から308年に修正済み(2026-07-16ユーザー確認)。

出典: 晋書載記第一(劉元海)

大赦308年【皇帝即位(改元同時)】皇帝を僭称した際、境内を大赦し、永凤と改元した(「元海僭即皇帝位、大赦境内、改元永凤」)。

【皇帝即位(改元同時)】皇帝を僭称した際、境内を大赦し、永凤と改元した(「元海僭即皇帝位、大赦境内、改元永凤」)。原文の「永嘉二年」(308年)を採用(2026-07-16ユーザー確認)。

出典: 晋書載記第一(劉元海)

遷都308年蒲子 → 平陽

劉元海(光文帝)在位中。晋書載記第一: 「永嘉二年、元海僭即皇帝位、大赦境内、改元永鳳……太史令宣于修之言於元海曰『……平陽勢有紫気、兼陶唐旧都、願陛下上迎乾象、下協坤祥。』於是遷都平陽。」永嘉2年(308)に皇帝を称すると同時に、堯の故都とされる平陽へ正式に遷都した明記あり。(出典: 晋書 巻百一 載記第一 劉元海)

改元日付不詳【皇帝在位中】汾水で玉璽(「有新保之」の文字、王莽時代の璽と伝わる)を得たことを瑞祥とし、境内を大赦して「河瑞」に改元した(「元海以为己瑞、大赦境内、改年河瑞」)。

【皇帝在位中】汾水で玉璽(「有新保之」の文字、王莽時代の璽と伝わる)を得たことを瑞祥とし、境内を大赦して「河瑞」に改元した(「元海以为己瑞、大赦境内、改年河瑞」)。具体的な年月は原文に記載がないが、永凤改元後・第二次洛陽侵攻(「是冬」)以前の出来事として記される。

出典: 晋書載記第一(劉元海)

大赦日付不詳【皇帝在位中】汾水で玉璽を得たことを瑞祥とし、境内を大赦して河瑞と改元した(「元海以为己瑞、大赦境内、改年河瑞」)。

【皇帝在位中】汾水で玉璽を得たことを瑞祥とし、境内を大赦して河瑞と改元した(「元海以为己瑞、大赦境内、改年河瑞」)。原文に具体的な年月の記載はなく、永凤改元後・第二次洛陽侵攻(「是冬」の記事)以前の出来事として記される。

出典: 晋書載記第一(劉元海)

立后日付不詳「立其妻单氏为皇后、子和为皇太子、封子乂为北海王」。

「立其妻单氏为皇后、子和为皇太子、封子乂为北海王」。第二次洛陽侵攻失敗後・元海の発病前の記事として記され、具体的な年月の記載はない(永嘉三〜四年頃と推定)。なお、漢王即位時(304年)には「立其妻呼延氏为王后」とあるが、これは「王后」であり皇帝の后=「皇后」ではないため計上しない。

出典: 晋書載記第一(劉元海)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。