中国皇帝統計

末帝

前秦(五胡十六国)|在位 394年

諱(本名)
苻崇
在位
394年
在位期間
92日365名中341位タイ
即位経路
世襲
死因
戦死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:末帝

即位の経緯

高帝苻登の子として、父の戦死後に湟中で即位。

出典: 晉書 載記第十四 苻登

死因の経緯

父苻登の死後、湟中で即位(元号「延初」)したが、同年10月、隴西鮮卑の乞伏乾帰(西秦)に駆逐され隴西王楊定のもとへ逃亡。楊定と共に西秦を攻撃するも西秦の涼州刺史乞伏軻弾に敗れ斬殺された。前秦は44年で滅亡。

出典: 晉書 載記第十四 苻登(附苻崇)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

苻崇の記述は極めて短く(数十字程度)、晋書載記第十五の苻登伝末尾に付記される形で登場する。改元は「延初」の1回のみ確認でき、それ以降の改元記録はない(間もなく乞伏乾帰に逐われて死亡したため)。なお、ユーザー指定の原典範囲「載記第十四末尾(行8196-8259)」は実際には苻堅下(王猛・苻融・苻朗伝)の内容であり、苻崇の記述は行8259で始まる載記第十五(苻丕・苻登伝)の末尾(行8289付近)に存在することを確認した。

大赦回数

苻崇(末帝)在位中の大赦の記載は原文になし。晋書載記第十五の苻崇関連記述(登死後に湟中で僭称尊号し、程なく乞伏乾帰に逐われて死亡するまでのごく短い一節)には大赦への言及がない。

立后回数

苻崇在位中の立后の記載は原文になし。皇后不在と判断。

皇太子廃立回数

苻崇の在位中に皇太子を廃立した記載は原文になし。なお、苻崇自身は父苻登の在位中に皇太子に立てられていた(「立其子崇為皇太子」晋書載記第十五)が、これは立太子であり廃立ではないためカウント対象外。

親征回数

在位期間(太元十九年七月〜十月、394年)中唯一確認できる軍事行動。それ以前に乾帰に湟中を逐われた事象は苻崇が自ら攻撃した親征ではなく(受動的に敗走)カウント対象外とした。

反乱鎮圧回数

在位期間がわずか3ヶ月弱(394年7月即位、10月戦死)と極めて短く、その間に服属民・部将等による蜂起を鎮圧した記録は晋書載記(苻登載記末尾)・資治通鑑いずれにも見当たらない。唯一の軍事衝突は独立政権である西秦(乞伏乾帰)との抗争であり、対等政権同士の戦争として鎮圧・被反乱の対象から除外する。

被反乱回数

湟中から乞伏乾帰に逐われた事象は、乾帰が苻崇(前秦)に服属しない独立君主(西秦)であったため対等政権同士の戦争にあたり、服属民の反乱には該当しない。在位中に配下・服属勢力による反乱の記録は確認できなかった。

遷都回数

晋書載記を通読。苻健の長安定都(建国時の定都)から385年の苻堅死去後の混乱・394年の滅亡まで、恒久的な再定都は確認されない。

即位時年齢・没年齢

既存の deathCause.note/accessionRoute.note/reigns[0].note、および _corpus_cache/qianqin-fuchong.txt(晋書載記第十五、苻登伝末尾に付記される苻崇の記述)を確認したが、苻崇本人の生年月日・即位時年齢・享年(「時年」「年◯◯」等)の直接記載は見当たらなかった(父の苻登については「時年五十二、在位九年」と明記されているが苻崇本人には該当しない)。死亡時期のみ、原文「冬十月、崇為梁王乾帰所逐…定與崇皆被殺」(既存personalCampaignCount.events[0]と同一典拠)から太元十九年(394年)10月と月精度で確定できるためdeathDateに転記した(reigns[0].endDateは既存データで未入力=nullのままだが、原文自体は月精度で確定している)。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元394年苻登が姚興に殺された後、太子であった苻崇が湟中に逃れて僭称尊号し、改元して「延初」とした。

苻登が姚興に殺された後、太子であった苻崇が湟中に逃れて僭称尊号し、改元して「延初」とした。即位に伴う最初の建元としてカウント。原文:「崇奔於湟中,僭稱尊號,改元延初。」

出典: 晋書載記第十五(苻丕・苻登伝末尾、苻崇関連記述)

親征394年10月乞伏乾帰(西秦・梁王)

対象: 乞伏乾帰(西秦・梁王)

結果: 湟中を乾帰に逐われ隴西王楊定のもとへ亡命した後、楊定と共に軍二万を率いて乾帰を攻撃。当初は西秦軍(益州)が敗れたが、乾帰配下の軻弾が反撃し楊定軍を大敗させ、楊定・苻崇ともに戦死。前秦は滅亡。

資治通鑑 晋紀(太元十九年冬十月条)「秦主崇為梁王乾帰所逐、奔隴西王楊定。定留司馬邵強守秦州、帥衆二万與崇共攻乾帰…大敗定兵、殺定乃崇」。苻崇自身が軍を率いて出征した(共攻)ことが明記されており親征1回としてカウント。乾帰は苻登生前に婚姻同盟を結んだ独立君主(西秦)であり前秦に服属していないため、対等政権同士の戦争として反乱鎮圧・被反乱いずれにも計上しない。

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