苻崇は前秦の最後の皇帝で、父の苻登が敗死したあと湟中で帝位に就き、同じ年のうちに西秦の乞伏乾帰に討たれた。
末帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 394年〜394年
- 没年
- 394年11月年齢不詳
- 死因
- 戦死戦いの中での死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因8人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 高帝前秦末帝は高帝の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓苻諱崇呼び名の見方
出典
- 在位
- 十六国春秋輯補 巻四十 前秦録九
- 死因
- 晉書 載記第十五 苻登(附苻崇)
- 即位経路
- 晉書 載記第十五 苻登
生涯
どんな皇帝か
本人の言葉や性格を伝える記事は、調べた史料のどこにも無い。
即位まで
苻登の子で、387年に尚書左僕射政務を執る役所の次官で、宰相にあたる高い官・東平王とされ、翌年に皇太子に立てられた。同じとき苻登の子の苻弁と苻尚も王に封じられたが、二人はのちに姚萇の夜襲で、苻登の妻の毛氏とともに殺された。394年、苻登が全軍で東へ向かうと、苻崇は胡空堡を、苻登の弟の苻広は雍を守った。苻登が敗れると二人とも城を捨てて逃げ、苻登は帰る所を失った。苻登は乞伏乾帰に子を人質に送って救いを求めたが、同じ年、山南で姚興と戦って敗死した。苻崇は湟中に逃れて帝位に就き、延初と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。苻登には高皇帝の諡と太宗の廟号皇帝の死後、祖先をまつる祭りで呼ぶための名が贈られた。
史料について
東平王とするのは資治通鑑である。人質の子を、晋書の苻登載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録と資治通鑑、十六国春秋の前秦録は汝陰王宗とし、同じ書の西秦録と別本・別伝は崇とする。別伝は廟号を書かない。苻登の最期を、資治通鑑は姚興に捕らえられて殺されたとする。
治世と最期
その年の冬、乞伏乾帰に湟中を逐われ、隴西王楊定のもとへ逃れた。楊定は兵を率いて苻崇とともに乞伏乾帰を攻めた。乞伏乾帰の軍の一隊ははじめ楊定に敗れ、残る軍も退きかけたが、引き返して楊定の軍を大破し、楊定と苻崇はともに殺された。前秦はこれで滅び、苻健の建国から四十四年だった。
史料について
晋書の乞伏乾帰載記もこの戦いを書くが、苻崇の名は出さない。資治通鑑はこのすぐ後に、秦の太子宣が楊定の後継の楊盛のもとへ奔ったと書くが、苻崇との続柄は書かない。
末帝とつながる皇帝
在位中の出来事
親征1・改元1
- 改元394年元号を「延初」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。394年11月乞伏乾帰(西秦・
梁王)
前秦の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代苻洪皇帝を名乗っていない350年
- 第2代景明帝352–355年病死
- 第3代厲王355–357年暗殺
- 第4代苻堅皇帝を名乗っていない357–385年
- 第5代哀平帝385–386年戦死
- 第6代高帝386–394年処刑
- 第7代末帝394年戦死
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