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前秦(五胡十六国)第7代

末帝苻崇

在位 394年(92日)

日本は古墳時代

苻崇は前秦の最後の皇帝で、父の苻登が敗死したあと湟中で帝位に就き、同じ年のうちに西秦の乞伏乾帰に討たれた。

末帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 394年〜394年
92日長い順339位/365人即位の年齢は不詳
没年
394年11月年齢不詳
死因
同じ死因8人/365人
即位経路
先代
  • 高帝前秦末帝は高帝の子
次代
—
呼び名
姓苻諱崇呼び名の見方

出典

在位
十六国春秋輯補 巻四十 前秦録九
死因
晉書 載記第十五 苻登(附苻崇)
即位経路
晉書 載記第十五 苻登

生涯

どんな皇帝か

本人の言葉や性格を伝える記事は、調べた史料のどこにも無い。

即位まで

苻登の子で、387年に・東平王とされ、翌年に皇太子に立てられた。同じとき苻登の子の苻弁と苻尚も王に封じられたが、二人はのちに姚萇の夜襲で、苻登の妻の毛氏とともに殺された。394年、苻登が全軍で東へ向かうと、苻崇は胡空堡を、苻登の弟の苻広は雍を守った。苻登が敗れると二人とも城を捨てて逃げ、苻登は帰る所を失った。苻登は乞伏乾帰に子を人質に送って救いを求めたが、同じ年、山南で姚興と戦って敗死した。苻崇は湟中に逃れて帝位に就き、延初とした。苻登には高皇帝の諡と太宗のが贈られた。

史料について

東平王とするのは資治通鑑である。人質の子を、晋書の苻登と資治通鑑、十六国春秋の前秦録は汝陰王宗とし、同じ書の西秦録と別本・別伝は崇とする。別伝は廟号を書かない。苻登の最期を、資治通鑑は姚興に捕らえられて殺されたとする。

治世と最期

その年の冬、乞伏乾帰に湟中を逐われ、隴西王楊定のもとへ逃れた。楊定は兵を率いて苻崇とともに乞伏乾帰を攻めた。乞伏乾帰の軍の一隊ははじめ楊定に敗れ、残る軍も退きかけたが、引き返して楊定の軍を大破し、楊定と苻崇はともに殺された。前秦はこれで滅び、苻健の建国から四十四年だった。

史料について

晋書の乞伏乾帰載記もこの戦いを書くが、苻崇の名は出さない。資治通鑑はこのすぐ後に、秦の太子宣が楊定の後継の楊盛のもとへ奔ったと書くが、苻崇との続柄は書かない。

末帝とつながる皇帝

在位中の出来事

親征1・改元1
  1. 改元394年元号を「延初」とする
  2. 394年11月乞伏乾帰(西秦・梁王)

前秦の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第1代苻洪皇帝を名乗っていない350年
  2. 第4代苻堅皇帝を名乗っていない357–385年

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

前秦が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

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