前秦の苻堅の族孫で、苻丕の死後に帝位に即き、苻堅を殺した姚萇や、後を継いだ姚興の後秦と戦い続け、殺された。
高帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 386年〜394年
- 没年
- 394年52歳(数え年)長生き順同率73位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 呼び名
- 姓苻諱登字文高廟号太宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百十五 載記第十五(苻丕・
苻登合巻) - 死因
- 晉書 載記第十四 苻登
- 即位経路
- 晉書 載記第十四 苻登
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、衆寡敵せず功は立てがたかったが、義烈慷慨は称えるに足ると評する。
即位まで
苻堅の族孫で、若いころは勇猛だが粗野で苻堅に重んじられず、長じて節を改めて慎み深くなり、書伝を読んだ。毛興の部下のころは小司馬と呼ばれて評議に加わり、毛興は敬い憚って任せきらなかったが、死に臨んで兄の同成に、後事はこの弟に任せよ、姚碩徳を滅ぼすのは必ずこの人だと言い残した。386年、氐の啖青が諸将に迫って、遠い一族ながら志略に優れるとして苻登を帥に推させ、苻丕のもとへ使者を送って任命を請うた。旱魃で兵が飢えると、戦って殺した敵を熟食と名づけ、兵は死人の肉を食べて強く戦った。苻丕が敗れると、逃れてきた子の苻懿を君主に立てようと請うたが、衆は年長の君を立てるべきだと退け、同じ年に皇帝の位に即いた。
治世と最期
苻堅の神主死者の霊を宿らせてまつる木の札を車に載せて戦う前に必ず告げ、将士は矛や鎧に死休の字を刻んで戦死を誓った。姚萇が苻堅の神像を立てて祈ると、楼に登って、君を殺しておいて神像に福を祈るとは何事かと叫んだが、姚萇は応じなかった。
389年、安丘で姚崇を大破したが、大界の陣営を夜襲で陥とされ、妻の毛氏と子らを殺された。毛氏は弓を引いて戦ったが捕らえられ、妻にしようとする姚萇を罵って殺された。姚萇が内応を装って誘ったときは、雷悪地の諫めで取りやめ、ほとんど聖人だと左右に語った。392年、病が少し癒えた姚萇に背後へ回られると、この羌と同じ世に生まれたのは何と厄運かと嘆いて兵を引いた。393年には右丞相左右二人置かれた最高位の大臣のうち右の方の竇衝が背いて秦王を称し、姚萇と結んだ。
姚萇の死を聞くと喜び、394年に全軍で東進したが、尹緯に待ち受けられ、水を得られず2〜3割が渇死し、敗れて単騎で雍へ逃れた。弟と太子も逃げてその兵は散り、子を乞伏乾帰に人質に送って援軍を得たが、迎えに出たところを姚興と馬毛山の南で戦って敗れ、殺された。太子の苻崇は湟中で尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号を称し、苻登に高皇帝と諡した。
史料について
晋書の苻登載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は敗れて殺されたとだけ書き、捕らえてから殺したとするのは資治通鑑である。
高帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
386–393年の地図に、高帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征3・皇后2・改元1・大赦3
- 改元386年元号を「太初」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。386年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。386年12月〜393年12月後秦(姚萇)
- 皇后392年皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。393年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。393年竇衝
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。393–394年後秦(姚興)
- 反乱393年竇衝の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 皇后日付不詳皇后を立てる
前秦の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代苻洪皇帝を名乗っていない350年
- 第2代景明帝352–355年病死
- 第3代厲王355–357年暗殺
- 第4代苻堅皇帝を名乗っていない357–385年
- 第5代哀平帝385–386年戦死
- 第6代高帝386–394年処刑
- 第7代末帝394年戦死
年表
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