高帝
前秦(五胡十六国)|在位 386–394年
- 諱(本名)
- 苻登
- 在位
- 386–394年
- 在位期間
- 7年244日365名中149位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 52歳(数え年)269名中・長寿順74位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 3回112名中24位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:高帝
即位の経緯
哀平帝苻丕の族子(一族)。苻丕の死後、隴東で祭壇を設け皇帝に即位。
出典: 晉書 載記第十四 苻登
死因の経緯
太初9年(394年)、後秦の姚萇の死を聞き全軍を挙げて後秦を攻めたが廃橋の戦いで大敗(水源を断たれ渇死者多数)。単騎で逃走し馬毛山に籠るが、後秦の姚興に捕らえられ処刑された(享年52)。政権交代後の勝者(後秦)側による処断のため処刑に分類。
出典: 晉書 載記第十四 苻登
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中(386〜394年)の改元は即位時の「太初」建元のみ確認。
大赦回数
「大赦」「大赦境内」と明記された全国規模の恩赦のみを計上。地域限定・部分的な恩赦の記載は見当たらない。
立后回数
皇后毛氏の冊立は1回のみ。廃后の記載はなく、毛氏は姚萇軍に殺害されて後任の皇后は立てられていない。
皇太子廃立回数
太元十一年の即位時に弟の苻懿を皇太弟に立てたが(「僭立其妻毛氏爲皇后、弟懿爲皇太弟」)、その後まもなく子の苻崇を皇太子に立てたとの記載がある(「立其子崇爲皇太子」)。苻懿がこの際に廃されたか否かは原文に明記がなく「廢」の語も用いられていないため、明示的な廃立とはカウントしない。皇太子崇自身は登の死(太元十九年)まで廃立されず、そのまま乞伏乾歸のもとへ逃れて即位した。
親征回数
後秦(姚萇→姚興)との抗争は、互いに独立した皇帝号を称する対等政権同士の統一戦争と判断し、rebellionSuppressionCount/rebellionSufferedCountからは除外した(親征回数にのみ計上)。窦冲の反乱鎮圧のための出征は登本人が率いたことが明記されているため、親征・反乱鎮圧の両方に計上した。
反乱鎮圧回数
苻師奴が兄苻纂を殺害し自立して『秦公』を称した事件(登の任命した部将同士の内紛)は、登自身が鎮圧に関与した記述がなく(『兰犊絶之,皆爲姚萇所敗』と、最終的には敵将姚萇に討たれたのみ)、登による鎮圧行動を確認できないため鎮圧回数に含めなかった。また窦洛・窦于による謀反は発覚後に出奔したのみで実際の挙兵に至っていないため除外した。
被反乱回数
苻師奴による兄苻纂殺害・『秦公』自立(登任命の部将の内紛)は、登本人への直接の攻撃や登による対応の記述が確認できず、最終的に敵将姚萇によって鎮圧されたため、被反乱回数には含めなかった(登自身の統治への実質的影響が原文から読み取れないため、confidenceが分かれる境界事例としてlowで注記のみに留めた)。窦洛・窦于の謀反未遂(発覚後出奔のみ)も実際の挙兵に至っていないため除外した。
遷都回数
晋書載記を通読。苻健の長安定都(建国時の定都)から385年の苻堅死去後の混乱・394年の滅亡まで、恒久的な再定都は確認されない。
即位時年齢・没年齢
『晋書』載記第十四に「登被殺。在位九年,時年五十二」と明記。生年・即位時年齢は原文に直接記載なし(即位は太元十一年=386年、崩年は太元十九年=394年で在位九年と符合)。
在位中の出来事(10件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元386年太元十一年、隴東で皇帝に即位した際「改元曰太初」と建元。
太元十一年、隴東で皇帝に即位した際「改元曰太初」と建元。以後、登の在位中に他の改元記事は見られない(子の苻崇が登の死後に改元した「延初」は登本人の治世には帰属しない)。
出典: 晉書載記第十四 苻登
大赦386年太元十一年、隴東で皇帝に即位した際「大赦境内、改元曰太初」と記される。
太元十一年、隴東で皇帝に即位した際「大赦境内、改元曰太初」と記される。即位に伴う大赦。
出典: 晉書載記第十四 苻登
親征386年11月〜393年10月後秦(姚萇)
対象: 後秦(姚萇)
結果: 在位を通じて長安奪回・後秦打倒を目指し姚萇と一進一退の攻防を継続(安丘の戦い・馬頭原の戦い等で登が勝利する場面もあった一方、大界営陥落で皇后毛氏らを失うなど大敗も経験)。長安を奪回できず、姚萇本人も討ち取れないまま、太元十八年冬十月に姚萇が病没し対戦相手が交代した。
『晋書』載記(苻登伝)に「登進師攻苌」「登率騎萬餘圍苌營」等、登本人が終始軍を率いて出征した旨の記述が連続する。太元十一年(386年)十一月の即位直後から姚萇死去(393年10月)までを一連の継続的軍事行動として1件にまとめた(年をまたぐが同一目的の継続と判断)。
大赦393年姚萇の死(太元十八年冬十月)を聞いた苻登が喜び「於是大赦、盡衆而東」と全軍を挙げて後秦へ侵攻する直前に大赦を行った。
出典: 晉書載記第十四 苻登
親征393年窦冲
対象: 窦冲
結果: 登の部将(右丞相)であった窦冲が反乱を起こし自ら秦王を称して独自の年号を建てた。登は野人堡で窦冲を攻めたが、窦冲が後秦(姚萇・姚興)に救援を求め、姚興が胡空堡を攻めて牽制したため登は包囲を解いて胡空堡救援に向かわざるを得ず、窦冲は後秦陣営と講和して登の統制から完全に離脱した(鎮圧未完了)。
「以窦冲爲右丞相。尋而衝叛,自稱秦王,建年號。登攻之於野人堡…」の記事による。正確な年次は原文に明記がなく、姚萇死去(393年10月)直前の記事として登場するため393年頃と推定した(年精度)。rebellionSuppressionCount/rebellionSufferedCountの窦冲反乱と同一事件。
親征393年〜394年後秦(姚興)
対象: 後秦(姚興)
結果: 姚萇の死を知った登は大赦を行い全軍を挙げて東進、後秦領内の屠各姚奴・帛蒲二堡を落としたが、姚興配下の尹緯が廃橋を守って迎撃、渇水により渇死者が続出(衆の十二三が渇死)して大敗、単騎で雍へ敗走した。その後平涼を経て馬毛山に籠り、隴西鮮卑の乞伏乾帰に援軍を求めたが、山南の戦いで姚興軍に敗れ、登は殺害された(太元十九年=394年、在位9年・享年52)。
終期(登戦死)の正確な月日は原文に記載なく年精度。開始は姚萇死去(393年10月)直後の「於是大赦,盡衆而東」を起点とした。
反乱鎮圧393年窦冲の反乱
首謀者: 窦冲
結果: 登自ら野人堡で攻撃したが、窦冲は後秦(姚興)に救援を求めて胡空堡を牽制させ、登は包囲を解かざるを得なかった。窦冲はそのまま後秦陣営と講和し登の統制から離脱、完全な鎮圧には至らなかった。
窦冲は登により車騎大将軍・南秦州牧、のち右丞相に任じられた登の部将であったが、自ら秦王を称して建元し離反した(服属民の反乱)。
被反乱393年窦冲の反乱
首謀者: 窦冲
結果: 窦冲は登の統制を離れ後秦(姚興)陣営と講和し独立、登に服属することはなかった。
rebellionSuppressionCountの窦冲の反乱と同一事件(対称)。
大赦日付不詳姚萇が病に倒れた際、苻堅の神主に誓文を告げた後「於是大赦境内、百僚進位二等」とある。
姚萇が病に倒れた際、苻堅の神主に誓文を告げた後「於是大赦境内、百僚進位二等」とある。時期は太元十四〜十七年頃と推定されるが原文に明確な年次記載なし。
出典: 晉書載記第十四 苻登
立后日付不詳即位後、徐嵩・胡空らが投降し苻堅を天子の礼で改葬した記事に続けて「又僭立其妻毛氏爲皇后」とあり、妻の毛氏を皇后に立てた。
即位後、徐嵩・胡空らが投降し苻堅を天子の礼で改葬した記事に続けて「又僭立其妻毛氏爲皇后」とあり、妻の毛氏を皇后に立てた。具体的な年月は原文に記載なし(太元十一年即位後、まもない時期と推定)。毛氏はのちに太元十四年頃、姚萇による大界営急襲時に殺害され(「殺登妻毛氏及其子弁、尚」)、以後の立后記事は見られない。
出典: 晉書載記第十四 苻登