中国皇帝統計

武烈帝

夏・五胡(五胡十六国)|在位 419–425年

諱(本名)
赫連勃勃
廟号
世祖
在位
419–425年
在位期間
6年248日365名中164位
即位経路
建国
死因
諸説あり
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
4332名中29位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
10112名中4位
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武烈帝

即位の経緯

匈奴系鉄弗部の首長として自立後、義熙3年(407年)に天王・大単于を僭称(「僭稱天王、大單于」)。その後長安を攻略し、灞上で正式に皇帝位に即いた(「為壇於灞上,僭即皇帝位」)。夏王朝の建国者。

出典: 晉書/卷130補記: zh.wikisource.org原文

死因の経緯

『晋書』巻130赫連勃勃載記の原文には「在位十三年而宋受禪,以宋元嘉二年死」とあるのみで、死因の具体的記述はない。後世の2次資料では統万城の永安殿で病死したとする説と、落雷に打たれて死んだとする説の両方が伝わるが、いずれも原文に直接の裏付けはない。

出典: 晉書/卷130補記: zh.wikisource.org。死因記述自体が原典になく、通説(病死/落雷)は二次資料由来

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

固有注意事項の通り、407年の天王即位(龍昇建元)と419年頃の皇帝号改称を含め、建国者としての改元を通算4回(龍昇→鳳翔→昌武→真興)とカウントした。データセット上の在位区間は真興元年(419年)以降だが、天王即位・皇帝改称を含める指示に従い、天王期・昌武期の改元も本人の実績としてカウントに含めた。義熙三年(407年)以外は原文に具体的年次の記載がなく、通説年代を参考情報として付記した。

大赦回数

本載記では『大赦』『大赦天下』ではなく毎回「赦其境内」(境内=夏の支配領域全域)という表現が用いられている。天子直轄の『天下』ではなく地方政権の載記に特有の言い回しだが、支配領域全体を対象とする恩赦である点で全国規模の大赦に相当すると判断し、改元4回すべてに伴う大赦としてカウントした(confidence medium)。

立后回数

義熙年間(天王を僭称していた時期)に妻の梁氏を「王后」に立てた記事はあるが(『立其妻梁氏為王后』)、これは皇帝号を称する以前の「天王」段階での冊立であり「皇后」ではない。皇帝位に即いた後(昌武・真興年間)に梁氏あるいは他の妃を正式に「皇后」として冊立したとの記載は本『晋書』載記中に見当たらないため、count=0とした。

皇太子廃立回数

義熙年間、子の璝(赫連璝)を皇太子に立てた記事はある(『立其妻梁氏為王后、子璝為太子』)が、その後の廃立に関する記述は本『晋書』載記中には見られない。他の史書(宋書・魏書・資治通鑑等)では赫連勃勃死去直前の425年に璝が弟の赫連昌に殺害され、代わって昌が皇太子に立てられたとする経緯が伝わるが、本『晋書』載記の本文にはこの経緯の記載が確認できないため、本典拠に基づく限りcount=0とした。

親征回数

在位期間はemperors.json上419年(真興元年)〜425年だが、建国者としての扱い(改元回数調査ブロックと同様)に従い、407年の天王即位から425年の死去までを通算対象とした。事象4-8(408年頃〜416年頃の対姚興戦役)は『晋書』赫連勃勃載記に「其年」等の相対表現のみで具体的年次記載がなく、姚興載記(巻百十七)側にも対応する明確な年次記載がなかったため年代不詳とした。後秦戦役は文脈上、対象地域・敵将の転換ごとに5回の別遠征として区分したが、これは載記の記述単位に基づく編集的判断であり実際の回数区分には幅がある可能性がある。

反乱鎮圧回数

安定の胡儼・華韜の離反1件のみを服属民の反乱として計上した。齊難・姚廣都の事例は挙兵の明記がなく除外。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一事象(安定の胡儼・華韜の離反)を対称的に計上した。齊難・姚廣都の「謀叛」(是歳,齊難、姚廣都謀叛,皆誅之)は実際の挙兵に至らない謀議露見の可能性が高いため除外。また、勃勃が没奕于を謀殺し部衆を奪った事件(義熙3年の天王即位以前)は反乱鎮圧の文脈ではなく勃勃自身が攻撃主体であったため、両カウントから除外した。

遷都回数

晋書載記を通読。赫連勃勃の統万城定都(建国時の定都、群臣の長安遷都進言を明確に拒否)から427年の統万陥落後の平涼転戦期を含め、恒久的な再定都は確認されない。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause/accessionRoute/reignData等)および_corpus_cache/xia-helianbobo.txt(『晋書』巻130赫連勃勃載記)を確認したが、生年・享年についての直接記載は見当たらなかった。崩御記事は「在位十三年而宋受禅、以宋元嘉二年死」(真興7年8月20日=425年9月18日、reignsのendDateと一致)とあるのみで、没年月日は判明するが没年齢・生年月日の記載はない。年号年ラベルの差分から逆算できる直接記載の年齢値も原文中に見当たらないため、accessionAge/deathAgeともにnullとした。

在位中の出来事(20件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元407年【皇帝即位前】義熙三年、朔方にて天王・大単于を僭称し、建元して龍昇とした(即位に伴う最初の建元)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

大赦407年義熙三年、朔方にて天王・大単于を僭称し「赦其境内」(境内=夏の支配領域全体への大赦)、建元して龍昇とした。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

親征407年鮮卑薛干等三部

対象: 鮮卑薛干等三部

結果: 自ら討伐して撃破し、部衆一万数千を降した。

天王を僭称し龍升と建元した義熙3年(407)のことと記載。

親征407年姚興(後秦)三城以北諸戍

対象: 姚興(後秦)三城以北諸戍

結果: 三城以北の後秦諸拠点を攻め、将の楊丕・姚石生等を斬った。

前項と同年(407)内の連続記述だが、対象(鮮卑vs後秦)が異なるため別項とした。

親征407年11月秃髮傉檀(南涼)

対象: 秃髮傉檀(南涼)

結果: 求婚を拒絶されたことに怒り2万騎で自ら親征、陽武の戦いで大破し80余里追撃、大将十余人を斬って「髑髏台」を築いた。傉檀は南山へ敗走。

『晋書』安帝紀「冬十一月、赫連勃勃大敗秃發傉檀、傉檀奔于南山」と対応し月精度とした。

親征416年6月姚泓(後秦、姚興没後の後継君主)

対象: 姚泓(後秦、姚興没後の後継君主)

結果: 上邽(秦州)・陰密・雍城・郿城と転戦して後秦領を席巻。降附した安定は一時的に離反したが、後秦の全面崩壊とともに嶺北諸鎮戍がことごとく降り、嶺北全域を制圧した。

『晋書』安帝紀「夏六月、赫連勃勃攻姚泓秦州、陷之」と対応し月精度とした。

親征418年11月東晋(劉裕勢力、長安守将・硃齡石/劉義真)

対象: 東晋(劉裕勢力、長安守将・硃齡石/劉義真)

結果: 子の璝を都督前鋒諸軍事として先発させ、自らも大軍を率いて南伐。青泥で東晋軍を大破し咸陽を占拠、劉義真は長安を放棄して東走、長安の民が硃齡石を逐って勃勃を迎え入れた。璝は劉義真を追撃してさらに晋軍を破った。長安占領後、灞上で皇帝に即位した。

『晋書』安帝紀「十一月、赫連勃勃大敗王師于青泥北」と対応し月精度とした。

改元日付不詳【皇帝即位前】都城統万の造営開始に伴い改元して鳳翔とした。

【皇帝即位前】都城統万の造営開始に伴い改元して鳳翔とした。原文に具体的年次記載なし(通説では義熙九年=413年頃)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

改元日付不詳【皇帝即位(改元同時)】灞上で皇帝位に即き(群臣の勧進を受け即皇帝位、皇帝号への改称)、改元して昌武とした。

【皇帝即位(改元同時)】灞上で皇帝位に即き(群臣の勧進を受け即皇帝位、皇帝号への改称)、改元して昌武とした。原文に具体的年次記載なし(通説では義熙十四年=418年頃)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

改元日付不詳【皇帝在位中】統万還都・宮殿完成に伴い改元して真興とした。

【皇帝在位中】統万還都・宮殿完成に伴い改元して真興とした。原文に具体的年次記載なし(通説では419年頃、データセット上の在位(真興元年〜)の起点に相当)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

大赦日付不詳都城統万の造営開始に伴い「赦其境内」のうえ改元して鳳翔とした。

都城統万の造営開始に伴い「赦其境内」のうえ改元して鳳翔とした。原文に具体的年次記載なし(通説では義熙九年=413年頃)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

大赦日付不詳灞上で皇帝位に即いた際「赦其境内」のうえ改元して昌武とした。

灞上で皇帝位に即いた際「赦其境内」のうえ改元して昌武とした。原文に具体的年次記載なし(通説では義熙十四年=418年頃)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

大赦日付不詳統万還都・宮殿完成に伴い「赦其境内」のうえ改元して真興とした。

統万還都・宮殿完成に伴い「赦其境内」のうえ改元して真興とした。原文に具体的年次記載なし(通説では419年頃、データセット上の在位開始年に相当)。

出典: 晋書載記第三十(赫連勃勃)

親征日付不詳姚興(後秦)張佛生・齊難等(嶺北方面)

対象: 姚興(後秦)張佛生・齊難等(嶺北方面)

結果: 青石原で張佛生を破り、来援した齊難を潜軍で急襲・木城で追撃して捕縛。嶺北の夷夏数万が降附した。

載記中に具体年次の記載なし。407年以降、姚興死去(416)以前のいずれか。

親征日付不詳姚興(後秦)三城・敕奇堡(王奚)・黄石固(金洛生)・我羅城(弥姐豪地)

対象: 姚興(後秦)三城・敕奇堡(王奚)・黄石固(金洛生)・我羅城(弥姐豪地)

結果: 三城で姚興の軍勢未集を衝いて撃破、敕奇堡の王奚を落とし(王奚は自刎)、黄石固・我羅城も攻略、7000余家を大城へ徙した。

前項に続く別の作戦クラスター(対象地域が転換)として区分。年次不詳。

親征日付不詳姚興(後秦)姚壽都(清水城)

対象: 姚興(後秦)姚壽都(清水城)

結果: 清水城の姚壽都を攻め、壽都は上邽へ敗走、その民1万6千家を大城へ徙した。

同段落内の先行部分(金纂・羅提)は「遣」の明記ありで非親征のため除外し、本件のみ主語が勃勃のままの親征部分として計上。

親征日付不詳姚興(後秦)楊佛嵩・黨智隆(安定方面)

対象: 姚興(後秦)楊佛嵩・黨智隆(安定方面)

結果: 3万騎を率いて安定を攻め、青石北原で楊佛嵩を破り部衆4万5千を降し、東郷の黨智隆も降した。

載記中「其年」の新たな区切りマーカー以降の事象。年次不詳。

親征日付不詳姚興(後秦)姚逵(杏城)

対象: 姚興(後秦)姚逵(杏城)

結果: 杏城の姚逵を20日で攻略、姚逵及び将の姚大用・姚安和・姚利僕・尹敵等を捕らえ、戦士2万人を坑殺した。

姓改め(赫連氏制定)・立太子の記事に続く段落で、主語は勃勃のまま(遣の明記なし)。年次不詳。

反乱鎮圧日付不詳安定の反乱(胡儼・華韜の離反)

首謀者: 胡儼・華韜

結果: 夏に投降していた安定の胡儼・華韜らが夏の鎮守・羊苟兒を襲殺し、安定城を挙げて後秦の姚泓に帰順した。勃勃自身がこの反乱を直接の軍事行動で鎮圧したとの明記はないが、後秦全体の崩壊に伴い間もなく嶺北諸鎮戍がことごとく降附し、安定も夏の支配下に復した。

『晋書』赫連勃勃載記に「勃勃退如安定、胡儼閉門距之…以城降泓」(安定人胡儼・華韜らが夏の鎮守羊苟兒を殺害し後秦へ帰順)、その後「尋進據安定、姚泓嶺北鎮戍郡縣悉降」と続く。安定再編入が勃勃側の能動的鎮圧によるものか、後秦崩壊に伴う一般的降伏の結果に過ぎないかが原文からは判然としないためconfidenceをlowとした。同載記中の齊難・姚廣都の「謀叛、皆誅之」は実際の挙兵・交戦の記述がなく計上外した。

被反乱日付不詳安定の反乱(胡儼・華韜の離反)

首謀者: 胡儼・華韜

結果: 夏に服属していた安定の胡儼・華韜らが夏の鎮守・羊苟兒を襲殺し、安定城を挙げて後秦の姚泓に帰順した。安定は一時夏の支配から離脱したが、後秦の全面崩壊とともに間もなく夏の勢力下に復した。

rebellionSuppressionCountと同一事象を対称的に計上。齊難・姚廣都の謀叛、及び勃勃が没奕于を謀殺し部衆を奪った事件(即位前)は除外した。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。