哀平帝
前秦(五胡十六国)|在位 385–386年
- 諱(本名)
- 苻丕
- 在位
- 385–386年
- 在位期間
- 1年365名中298位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 戦死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:哀平帝
即位の経緯
苻堅の庶長子。淝水の戦い後、前秦崩壊の混乱の中、晋陽の南で皇帝に即位。
出典: 晉書 載記第十四 苻丕
死因の経緯
淝水の戦い後の混乱の中、西燕の慕容永との襄陵の戦いで大敗。かねて猜疑していた苻纂の害を恐れ東垣へ敗走し、東晋支配下の洛陽攻撃を企てたが、東晋の揚威将軍馮該に迎撃され戦死した。
出典: 晉書 載記第十四 苻丕
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元「太安」の1回のみ確認。在位2年間で他の改元記事はない。
大赦回数
苻丕在位中、明記された恩赦はこの即位時の1回のみ。原文表記が「太赦」であり「大赦」の通用字であるためconfidenceはmediumとした。他に部分的な赦免(例:捕虜処分など)の記述はあるが、苻丕自身による全国規模の大赦としてはこの1件のみ確認。
立后回数
苻丕伝中に立后の記述は見当たらない。皇后冊立に関する記事なし。
皇太子廃立回数
苻丕伝中に皇太子廃立の記述なし。末尾で「執其太子寧」とあり、皇太子苻寧の存在は確認できるが、廃立の記述はなく、苻丕敗死時に東晋軍に捕らえられたのみ。
親征回数
晋書載記(苻丕載記)に基づく。丕自身が軍を率いて平陽へ進出した記述は明確だが、直接の戦闘(襄陵の戦い)は部将に委ねており、当初の戦略目標(対姚苌か対慕容永か)は原文上明示されていないため、targetの記述はやや推定を含む。confidenceはmediumとした。即位前(385年即位以前、鄴城籠城〜晋陽への撤退時)の軍事行動は在位期間(reignsフィールド:385-386年)外のため対象外とした。
反乱鎮圧回数
苻丕在位中(385-386年)、晋書載記に苻丕自身の政権に対する明確な武装反乱(服属民・部将による挙兵)の記述は確認できなかった。在位中の軍事的困難は主に対等な独立政権(姚萇の後秦、慕容垂の後燕、慕容永の西燕)との戦争によるものであり、いずれも本枠組みの『対等政権同士の国家間戦争』として鎮圧・被反乱の対象から除外した。王統の姚萇への降伏や苻定・苻紹・苻謨・苻亮の慕容垂への再降は武力衝突を伴わない離反であり、実際の兵力行使を伴う反乱とは言えないため計上していない。なお鄴城籠城中(384年、即位前)の司馬楊膺・姜譲の謀反発覚・誅殺は在位期間外のため対象外とした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の理由により0件と判定。苻丕の敗死は襄陵の戦い(対西燕慕容永、独立政権同士の戦争)での敗北とその後の敗走中に東晋軍に討たれたことによるものであり、いずれも部下・服属民による反乱には該当しない。苻纂の離反を丕が恐れて自ら逃走した件は、実際の挙兵・武力行使が確認できないため計上していない。
遷都回数
晋書載記を通読。苻健の長安定都(建国時の定都)から385年の苻堅死去後の混乱・394年の滅亡まで、恒久的な再定都は確認されない。
即位時年齢・没年齢
調査したが原典(晋書載記第十四苻丕伝)に生年月日・享年・即位時年齢の直接記載が見当たらなかった。苻丕は苻堅の庶長子とのみ記され、具体的な年齢に関する記述(「時年」「享年」等)は本紀・列伝原文中に存在しない。既存レコードのdeathCause.note、accessionRoute.note、reignData等にも年齢情報は含まれていなかった。年号年ラベルによる逆算も、生年に関する基準となる年齢記載が全く存在しないため不可能。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元385年太元十年(385年)九月、晋陽にて即位し「改元曰太安」と改元。
太元十年(385年)九月、晋陽にて即位し「改元曰太安」と改元。以後、苻丕在位中(386年10月に東垣で敗死するまで)別の改元記事はなし。
出典: 晋書載記第十五(苻丕伝)
大赦385年晋陽にて即位した際、「立堅行廟、太赦境内、改元曰太安」とあり、即位に伴い境内(国内)規模の恩赦を実施。
晋陽にて即位した際、「立堅行廟、太赦境内、改元曰太安」とあり、即位に伴い境内(国内)規模の恩赦を実施。原文は「太赦」(「大赦」と通用する表記)。
出典: 晋書載記第十五(苻丕伝)
親征386年西燕(慕容永)
対象: 西燕(慕容永)
結果: 苻丕は晋陽・壺関を部将に委ね、自ら歩騎4万を率いて平陽へ進出した。東方へ通過しようとした西燕の慕容永が仮道を求めたが丕はこれを拒否し衝突。実戦は前鋒都督俱石子・王永・苻纂ら部将に委ねたが、襄陵の戦いで大敗し王永・俱石子は戦死。丕自身は同陣していた苻纂の離反を恐れて東垣へ敗走し、東晋の揚威将軍馮該に迎撃されて敗死した(在位2年で滅亡)。
目的地・交戦相手は西燕の慕容永。当初の進軍の戦略目標(対姚苌の可能性)は原文上明示されておらず、実際の戦闘は慕容永との間で発生したためtargetを西燕(慕容永)とした。