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前秦(五胡十六国)第5代

哀平帝苻丕

在位 385–386年(1年)

日本は古墳時代

前秦の苻堅ので、苻堅の死後に晋陽で皇帝の位に即いた。

哀平帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 385年〜386年
1年長い順同率292位/365人即位の年齢は不詳
没年
386年年齢不詳
死因
同じ死因8人/365人
即位経路
先代
  • 苻堅哀平帝は苻堅の子
次代
  • 高帝前秦高帝は哀平帝の同族(遠縁)
呼び名
姓苻諱丕字永叔呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻一百十五 載記第十五(苻丕・苻登合巻)
死因
晉書 載記第十四 苻丕
即位経路
晉書 載記第十四 苻丕

生涯

どんな皇帝か

晋書のは、乱に乗じて帝位を盗みたちまち敗れたと評する。

即位まで

苻堅の長庶子で、若いころから聡明で学問を好み、苻堅は兵略を褒めて鄧羌に兵法を教えさせ、文武の才は苻融に次ぐとされた。襄陽攻めでは急攻を控えて長く囲み、朱序の母が築かせた城壁に阻まれて退いたこともあった。弾劾されると苻堅は罪を許したうえで、来春までに勝てなければ自害せよと剣を送り、苻丕は攻めを急がせて379年に襄陽を陥れた。のち苻堅は氐の子弟三千戸を付けて苻丕を鄴に鎮させ、灞上まで見送って泣いて別れた。淝水の敗戦後、石越に慕容垂を討つよう説かれると、慕容垂が陛下を守った恩は忘れられないと退け、石越は公の父子は小さな仁を好むと嘆いた。慕容垂が囲みを解いたのちも行き詰まり、東晋軍に黎陽を落とされると、謝玄に、援軍が来れば鄴を渡すという書簡で救援を求めることにした。形だけの降伏だったが、もともと苻丕を軽んじていた司馬の楊膺が、その書簡を書き改めて送った。385年、楊膺らの謀反を告げられると、捕らえて殺した。同じ年、王永に招かれて鄴を捨て、晋陽に入り、そこではじめて苻堅の死を知って喪を発した。王永に勧められて晋陽の南で皇帝の位に即き、太安とした。

史料について

楊膺を苻丕の妃の兄とするのは十六国春秋のと資治通鑑の胡三省注で、はこの間柄を書かない。元号を、資治通鑑は大安とする。

治世と最期

竇衝ら隴右の諸将が姚萇の討伐を請うと喜んで官を授け、枹罕の氐が推した苻登を南安王とした。386年、四万の兵で平陽に進み、東へ帰る道を借りたいという西燕の慕容永の求めを許さなかった。王永らに慕容永を攻めさせたが、襄陵で大敗して王永も戦死した。

かねて苻纂の部下を疑っていたので、苻纂に殺されるのを恐れて南の東垣へ逃れたが、東晋の馮該に迎え撃たれて斬られた。皇后の楊氏は、慕容永に上夫人にされそうになると、剣で刺そうとして殺された。太子らは捕らえられて東晋に送られたが赦され、苻登は苻丕に哀平皇帝と諡した。

史料について

晋書の孝武帝紀は苻丕を破った相手を慕容垂とし、載記と資治通鑑・十六国春秋は慕容永とする。東垣へ逃れたのを、資治通鑑と十六国春秋は洛陽を襲う謀のためとする。楊后の話は資治通鑑と十六国春秋の輯本にあり、晋書には無い。十六国春秋の楊后の条は、苻丕を殺したのを慕容永とする。

哀平帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(385年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

385–386年の地図に、哀平帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

親征1・改元1・大赦1
  1. 改元385年元号を「太安」とする
  2. 385年
  3. 386年西燕(慕容永)

前秦の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第1代苻洪皇帝を名乗っていない350年
  2. 第4代苻堅皇帝を名乗っていない357–385年

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

前秦が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

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