前秦の苻健の子で、即位すると皇后や大臣を殺し、357年に従兄弟の苻堅らに廃されて殺された。
厲王の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 355年〜357年
- 没年
- 357年7月23歳(数え年)長生き順同率216位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 景明帝前秦厲王は景明帝の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓苻諱生字長生呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百十二 載記第十二(苻生)
- 死因
- 晉書 載記第十二 苻生
- 即位経路
- 晉書 載記第十二 苻生
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は残虐を生来のものと評するが、洛陽伽藍記には、苻生の悪はみだりに書かれたという隠士の話が載る。
即位まで
片目が無く、幼いころ祖父の苻洪に片目からしか涙が出ないのかとからかわれると、刀で自分を刺して血を流し、これも涙だと言い返した。苻洪は早く除かなければ大きくなって家を破ると苻健に言い、苻健は殺そうとしたが弟の苻雄が止めた。兄の苻萇が死ぬと、母の強氏は末子の苻柳を望んだが、苻健は予言に合うとして苻生を太子に立てた。若いころから凶暴で酒を好み、苻健は家業が保てないのを恐れ、死に臨んで従わない酋長や大臣は少しずつ除けと戒めた。355年、苻健が死ぬと即位した。
史料について
母の意向は十六国春秋の輯本失われた書を他書の引用から集め直した本による。即位の年を、晋書の苻生載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は356年とし、穆帝紀と資治通鑑は355年とする。
治世と最期
即位後は昼夜なく酒に溺れ、改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることを非礼だと奏されると怒って言い出した者を探し、右僕射の段純を殺した。星の異変の災いを塞ぐとして皇后の梁氏や太傅皇帝を補佐し導く、最高位の重臣の位らを殺した。丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の雷弱兒を子や孫とともに誅すと、諸羌は叛いた。宴では酒を勧める役の尚書天子のもとで政治の実務を扱う役所や役人、また儒教の古典の名を射殺した。また褒めた側近をへつらいだと斬り、刑罰が少し過ぎると言った者も謗りだと斬った。片目のために不足・無・欠などの言葉を禁じ、意に逆らって死んだ側近は数え切れなかった。
姚襄を隴西へ帰そうとしたときは、苻堅の諫めに従って取りやめた。諫めた母の弟の強平も殺し、母の強氏は憂い恨んで死んだ。猛獣に襲われて七百余人が死んでも、民が罪を犯すからだと祓いを退けた。
357年、苻法兄弟も信用できない、明日除くと苻生が侍婢に言ったのが伝わり、苻法と苻堅が兵を率いて入ると、宿衛宮中に泊まり込んで皇帝を守ること、またその兵は苻堅に帰順した。酔って眠っていた苻生は別室に移され、越王に落とされて、まもなく殺された。
史料について
十六国春秋の輯本は、兵を見た苻生が、賊ならなぜ拝さないのかと言ったと伝える。晋書の苻堅載記と穆帝紀は、殺したのを苻堅とする。
厲王とつながる皇帝

勢力図
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355–357年の地図に、厲王が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元355年7月元号を「寿光」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。355年7月
- 皇后355年7月皇后を立てる
- 反乱357年7月雲龍門の政変(苻堅による苻生弑逆)
前秦の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代苻洪皇帝を名乗っていない350年
- 第2代景明帝352–355年病死
- 第3代厲王355–357年暗殺
- 第4代苻堅皇帝を名乗っていない357–385年
- 第5代哀平帝385–386年戦死
- 第6代高帝386–394年処刑
- 第7代末帝394年戦死
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