厲王
前秦(五胡十六国)|在位 355–357年
- 諱(本名)
- 苻生
- 在位
- 355–357年
- 在位期間
- 2年152日365名中248位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 23歳(数え年)269名中・長寿順219位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:厲王
即位の経緯
景明帝苻健の三男として即位。
出典: 晉書 載記第十三 苻生
死因の経緯
重臣・皇族を次々に粛清する残虐な統治を行い、甥の清河王苻法一派を除こうと漏らした発言が密告され、苻堅・苻法らが雲龍門から挙兵。宿衛の将士も苻堅に帰順し、酔って眠っていた苻生は連行され越王に降格の上で殺害された(享年23、在位3年、厲と諡された)。同一政権内の近親によるクーデターのため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第十三 苻生
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
使用ソースは晋書載記第十二(苻洪・苻健・苻生・苻雄・王堕)中の苻生伝(行8125〜8142)。指定された行範囲8145〜8196は実際には苻堅上(載記第十三)にあたり苻生自身の本伝ではなかったため、正しく苻生の伝記部分を特定して通読した。
大赦回数
載記本文は即位年を「時永和十二年也」とするが、晋書穆帝紀では苻健の死・苻生の嗣位を永和十一年六月(355年)とする齟齬がある。ここでは本紀の年代(355年6月)を採用した。
立后回数
梁皇后は在位中に誅殺されたが、これは廃后ではなく処刑であり、当スキーマでは立后回数のみをカウントするため影響しない。
皇太子廃立回数
苻生は父・苻健の存命中に自身が皇太子に立てられた(「立其子生为太子」)が、これは苻生自身が経験した廃立ではない。苻生自身の在位中(355〜357年)に皇太子を新たに立てた記載、およびそれを廃した記載は見当たらないため0回とした。
親征回数
苻生が皇帝として在位した355〜357年の間、自ら軍を率いて出征した記載は晋書載記(苻生伝)に見当たらない。姚襄との戦い(黄落の戦い等)はいずれも苻黄眉・苻堅・邓羌ら諸将に命じて討伐させたもので、生自身が出陣した記述はない。なお「生単馬入阵、搴旗斩将者前后十数」という桓温との激戦での勇武の記述があるが、これは354年、父・苻健在位中に皇太子として従軍した際の逸話であり、苻生自身が君主号を帯びた時期(355年即位以降)の出来事ではないため対象期間外として計上していない。
反乱鎮圧回数
在位中、姚襄との軍事衝突(匈奴堡での苻産殺害・河東侵掠、黄落での対陣・三原での姚襄討滅)が記録されているが、姚襄は苻生からの仮道要請の許諾や官爵の授与(拝襄官爵)をいずれも拒絶し使者を斬るなど、一度も前秦に服属していない独立勢力であったため、対等な政権同士の抗争として鎮圧・被反乱いずれの対象からも除外した。また苻黄眉による謀反計画(「黄眉怒,谋杀生自立,事发,伏诛」)は挙兵に至らず摘発のみで終わったため、規定により鎮圧・被反乱いずれにも含めていない。
被反乱回数
既存データのdeathCauseフィールド(暗殺、同一政権内の近親によるクーデター)と整合的。
遷都回数
晋書載記を通読。苻健の長安定都(建国時の定都)から385年の苻堅死去後の混乱・394年の滅亡まで、恒久的な再定都は確認されない。
即位時年齢・没年齢
晋書載記第十二(苻生伝)末尾に「生犹昏寐未寤...時年二十三,在位二年,伪谥厉王」とあり、没年齢23歳が直接記載されている。没月は本紀(穆帝紀・升平元年六月「苻堅殺苻生而自立」)に基づき357年6月とした(載記本文には月日の記載なし)。生年月日・即位時年齢の直接記載は見当たらなかった。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元355年6月即位に伴い「改年寿光」とあり、寿光と改元(建元)した。
即位に伴い「改年寿光」とあり、寿光と改元(建元)した。在位期間(355〜357年)を通じて他に改元の記載はなく、寿光のまま357年に苻堅により廃位・殺害された。
出典: 晋書載記第十二
大赦355年6月苻健の死去を受けて苻生が皇帝に即位した際「健卒,僭即皇帝位,大赦境内,改年寿光」とあり、即位に伴い国内全域への大赦を行った。
苻健の死去を受けて苻生が皇帝に即位した際「健卒,僭即皇帝位,大赦境内,改年寿光」とあり、即位に伴い国内全域への大赦を行った。以後の在位期間(〜357年)中に他の大赦の記載は見当たらない。日付は本紀(穆帝紀・永和十一年六月「苻健死,其子生嗣伪位」)に基づく。
出典: 晋書載記第十二
立后355年6月即位時に「立妻梁氏为皇后」とあり、正妻の梁氏を皇后に立てた。
即位時に「立妻梁氏为皇后」とあり、正妻の梁氏を皇后に立てた。後に讖言・妖言を理由に梁氏を誅殺しているが(「于是杀其妻梁氏及太傅毛贵...」)、その後の再冊立の記載は見当たらないため立后は1回のみ。
出典: 晋書載記第十二
被反乱357年6月雲龍門の政変(苻堅による苻生弑逆)
首謀者: 苻堅(清河王苻法・梁平老・強汪・呂婆楼らと共謀)
結果: 苻生が近臣・皇族を次々粛清し苻法兄弟の誅殺を漏らしたことを察知した苻法・苻堅らが、壮士数百人・麾下三百余人を率いて雲龍門から挙兵。宿衛の将士も武器を捨てて苻堅に帰順し、昏睡していた苻生は捕らえられ、廃されて越王とされた後に殺害された(享年23、在位2年)。苻堅がその後即位(天王)。
朝廷内部の権力者(皇族・重臣)による兵力を伴うクーデターに該当するため、鎮圧の主体が皇帝側でないことからrebellionSuppressionCountには計上せず、rebellionSufferedCountにのみ計上した(判定基準の例外4に該当)。