景昭帝
前燕(五胡十六国)|在位 352–360年
- 諱(本名)
- 慕容儁
- 廟号
- 烈祖
- 在位
- 352–360年
- 在位期間
- 7年101日365名中154位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 42歳(数え年)269名中・長寿順123位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 3回45名中1位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:景昭帝
即位の経緯
前燕の建国者慕容皝の子。父の死後、燕王を継承し、352年に伝国璽の獲得を大義名分として皇帝を称した。
出典: 晉書 載記第十 慕容儁
死因の経緯
光寿4年(360年)正月、鄴城で大規模な閲兵を行った直後に病状が悪化。大司馬慕容恪・司徒慕容評・司空陽騖・領軍将軍慕輿根を召集し遺詔で後事を託した翌日(正月21日)に崩御(享年42、在位11年)。他殺を示す記述はない。
出典: 晉書 載記第十 慕容儁
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
永和五年(349年)に燕王位に即いた際「依春秋列国故事称元年」とあるが、これは称帝以前(本データセットの在位期間352-360年より前)の出来事であり、正式な年号建元でもないため対象外とした。在位中(352-360年)の年号は元璽(352-356年頃)→光寿(357-360年)の2回のみ。
大赦回数
厳密に「大赦」と明記されるのはこの1件のみ。ほかに(1)升平元年(357年)「復立次子為皇太子、赦其境内、改元曰光寿」、(2)蓟城から鄴への遷都時「俊自蓟城迁于鄴、赦其境内」の計2件があるが、いずれも「大赦」ではなく「赦其境内」という表現(同一載記中で子の慕容暐の即位記事は「大赦境内」と明記されており、慕容儁の当該2件との表現の違いは原文上意図的な可能性がある)。全国規模の恩赦である可能性は高いが、指示基準の「大赦」等の明記に厳密には該当しないため主カウントから除外した。広義に含める場合はcount=3となる。
立后回数
在位中の再冊立・廃后の記事は見当たらない。
皇太子廃立回数
即位時に世子晔を皇太子に立てたが、晔は廃されたのではなく病死(「俊太子晔死、偽謚献懐」)。その後升平元年(357年)に次子を新たに皇太子に立てているが、これは先の皇太子の死去に伴う新規立太子であり「廃立」には該当しない。載記中に皇太子(皇太弟等含む)を廃した記事は見当たらない。
親征回数
晋書載記第十(慕容俊)に基づく。①永和六年(350)、俊自ら三軍を率いて盧龍から出撃し薊城を攻略(対・後趙残存勢力)。②冉閔討伐戦において俊自身も中山まで進出し前線に赴いた(「俊如中山、為二軍声勢」)ため親征に含めたが、実戦の指揮は慕容恪・慕容垂ら諸将が行っており、俊自身が戦闘を直接指揮したとまでは原文から確認できない点で判断に幅がある。他の全ての遠征(冉魏残党討伐の一部、段龕討伐、丁零討伐、張平ら討伐、東晋・諸葛攸迎撃等)は諸将のみの派遣であり俊自身の出陣が明記されないため除外した。
反乱鎮圧回数
服属民(一度帰順した部族・地方勢力)による離反・蜂起を反乱として計上した。段龕(自号斉王、東晋に称藩し俊の即位を認めず)や王午・呂護(自号安国王)、冉閔(冉魏皇帝を僭称)は燕に服属したことのない独立勢力・対等政権との抗争と判断し除外した。張平・馮鴦・高昌・李歴のクラスタ(子を人質に送り称藩していたが実質半独立で建鄴・苻堅とも通じていた)は服属民の反乱とも解釈しうるが、原文に彼らが挙兵・離反したことを示す明確な記述がなく、俊側が先制的に統合を図った可能性が高いため反乱カウントから除外した(判断に幅あり)。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の3件(段勤・李犢・李黒)を対称的に計上した。段龕・王午・呂護・冉閔(いずれも独立政権・対等勢力)、および張平ら半独立クラスタ(挙兵・離反の明確な記述なし)は反乱として計上していない。俊の在位中に鎮圧が未完のまま終わった反乱は原文上確認できなかった。
遷都回数
在位中に遷都3回(0341年 棘城→龍城(和龍)、0350年 龍城(和龍)→薊城、0357年 薊城→鄴城)。
即位時年齢・没年齢
『晉書』載記第十末尾に「升平四年、俊死、時年四十二、在位十一年」と明記。没年齢42歳・在位11年が原文に直接記載されている。生年・崩御月日そのものの直接記載はない(崩御月日は既存reignsデータのendDate 0360-02-23〔光寿4年1月21日〕を参照)。即位時年齢も本文に直接記載なし。
在位中の出来事(15件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
遷都341年棘城 → 龍城(和龍)
『晋書』載記第九(慕容皝):「咸康七年、皝遷都龍城」。棘城は慕容廆が元康四年(294)以来拠点とした前燕王家の旧都(皝が新規に選定したものではない)。咸康三年(337)皝は棘城のまま燕王を称しており、咸康七年(341)の龍城遷都が前燕として最初の正式な遷都に当たる。(出典: 晋書 載記第九 慕容皝)
親征350年後趙幽州刺史配下の残存勢力(守将王他ほか)
対象: 後趙幽州刺史配下の残存勢力(守将王他ほか)
結果: 俊が自ら三軍を率いて盧龍より出撃し無終に進駐、薊城を攻略して守将王他を斬った。以後薊を新たな都とした。
「明年、俊率三軍南伐、出自盧龍、次於無終。石季龍幽州刺史王午弃城走、留其將王他守薊。俊攻陥其城、斬他、因而都之。」(普及頃の初年、即位翌年)
遷都350年龍城(和龍) → 薊城
『晋書』載記第十(慕容俊):永和五年(349)慕容俊が燕王に即位、「明年(永和六年=350年)」南伐し薊城の守将王他を斬り「因而都之(そのまま都とした)」と明記。龍城から薊城へ正式に遷都。(出典: 晋書 載記第十 慕容俊)
親征351年〜352年冉魏(冉閔)
対象: 冉魏(冉閔)
結果: 慕容恪・慕容垂らを冉閔・段勤討伐に派遣する際、俊自身も中山まで進出して両軍の後詰めとなった。冉閔は敗走の末に捕らえられ龍城で斬られ、鄴も陥落して冉魏は滅亡した。
「俊遣慕容恪及相國封弋討冉閔於安喜、慕容垂討段勤於絳幕、俊如中山、為二軍声勢。閽惒、奔於常山、恪追及於泒水。 及戦、敗之、擒閽、送之、斬於龍城。」俊自身が中山に赴いたとの明記はあるが、決戦の指揮は慕容恪が行っているため、親征該当性には判断の幅がある。
反乱鎮圧351年〜352年段勤の離反
首謀者: 段勤
結果: 鎮圧成功(一度俊に帰順した鮮卑段勤が離反、慕容垂を絳幕に派遣して討伐、慕容恪が常山に進出すると畏れて降伏した)
「時鮮卑段勤初附於俊、其後復叛。俊遣慕容恪及相國封弋討冉閔於安喜、慕容垂討段勤於絳幕。」 後に「慕容恪進據常山、段勤惼而請降。」とあり。
被反乱351年〜352年段勤の離反
首謀者: 段勤
結果: 鎮圧された(俊に一度帰順していた鮮卑段勤が離反したが、諸将の討伐を受けて再び降伏)
同上(段勤の離反。慕容垂の討伐後、慕容恪の常山進出に畏れて降伏)
反乱鎮圧352年〜353年常山の李犢の反乱
首謀者: 李犢
結果: 鎮圧成功(常山の李犢が数千人を集めて普壁塁で反乱、慕容恪が討伐して降伏させた)
「常山人李犢聚義数千、反於普壁壘、俊遣慕容恪率眗討降之。」(未席之、即位し後選ばれ、正確な年は不詳)
被反乱352年〜353年常山の李犢の反乱
首謀者: 李犢
結果: 鎮圧された(常山で数千人規模の反乱が起きたが慕容恪により降伏させられた)
同上(常山の李犢の反乱)
改元352年11月永和八年(352年)11月、伝国璽獲得を大義名分に皇帝位に即位し「建元曰元璽」と明記。
永和八年(352年)11月、伝国璽獲得を大義名分に皇帝位に即位し「建元曰元璽」と明記。称帝(皇帝号使用開始)に伴う建国改元として1回に計上(本人固有の注意事項に従う)。
出典: 晉書 載記第十 慕容儁
大赦352年11月永和八年(352年)11月、伝国璽の獲得を大義名分に皇帝位に即き「大赦境内」と明記。
永和八年(352年)11月、伝国璽の獲得を大義名分に皇帝位に即き「大赦境内」と明記。建元(元璽)と同時の全国規模の大赦。
出典: 晉書 載記第十 慕容儁
立后352年11月永和八年(352年)11月の皇帝即位時に「立其妻可足渾氏為皇后」と明記。
永和八年(352年)11月の皇帝即位時に「立其妻可足渾氏為皇后」と明記。妻の可足渾氏を皇后に冊立。
出典: 晉書 載記第十 慕容儁
改元357年升平元年(357年)、太子晔の死去を受け次子を新たに皇太子に立てるとともに「改元曰光寿」と明記。
升平元年(357年)、太子晔の死去を受け次子を新たに皇太子に立てるとともに「改元曰光寿」と明記。元璽から光寿への改元。月日までは原文に記載なし。
出典: 晉書 載記第十 慕容儁
反乱鎮圧357年〜358年河間の李黒の反乱
首謀者: 李黒
結果: 鎮圧成功(河間の李黒が千余人を集め州郡を攻略し棗強令衛顔を殺害、長楽太守傅顔が討伐して斬った)
「河間李黒聚義千餘、攻略州郡、殺棗強令衛顔、俊長楽太守傅顔討斬之。」(俊自薊城遷於鄴後の記述順序、357年前後と推定)
被反乱357年〜358年河間の李黒の反乱
首謀者: 李黒
結果: 鎮圧された(河間で州郡を攻略し県令を殺害する反乱が起きたが傅顔により討ち取られた)
同上(河間の李黒の反乱)
遷都357年12月薊城 → 鄴城
『晋書』載記第十:「俊自薊城遷於鄴、赦其境内、繕修宮殿、復銅雀臺」。同書穆帝紀升平元年(357)十二月条にも「慕容俊入屯鄴」とあり時期が符合する(載記本文には月の記載なし、帝紀の記述を併用)。(出典: 晋書 載記第十 慕容俊/晋書 帝紀第八 穆帝紀 升平元年十二月)