劉曜
前趙・漢趙(五胡十六国)|在位 318–329年
- 諱(本名)
- 劉曜
- 在位
- 318–329年
- 在位期間
- 10年95日365名中132位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 6回267名中67位タイ
- 立后
- 3回204名中5位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 6回112名中8位タイ
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
光文帝劉淵の一族(族子)。靳準の乱で劉粲ら劉氏一族が皆殺しにされた後、長安で自立して皇帝を称した。国号を「趙」に改め、劉淵・劉聡系の漢とは別の政権(前趙)として再建したとみなし建国に分類。
出典: 晉書 載記第三 劉曜
死因の経緯
太和2年(329年)、後趙の石虎を破った勢いで洛陽を攻めたが、石勒自ら大軍を率いて救援に向かい、石虎・石堪・石聡と三方から挟撃されて大敗。劉曜自身が酒に酔っていた状態で捕らえられ、襄国へ護送された。石勒は前趙君主の名義で各地に投降を呼びかけさせようとしたが劉曜がこれを拒否したため、激怒した石勒の命により処刑された。政権交代後の勝者(後趙・石勒)側による処断のため処刑に分類。
出典: 晉書 載記第三 劉曜
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位期間中(318~329年)、光初以外の改元記事は見られず、光初の元号が最後まで継続使用された。
大赦回数
「曲赦」(太寧元年の陇右限定、及び曜が長安に還った際の長安限定の恩赦)は地域限定の恩赦のため「大赦」に該当せず対象外とした。日付未確定の事件は前後の紀年記事(光初三年・太寧元年・咸和三年)から相対的に推定した範囲を注記した。
立后回数
羊氏(初代)・劉氏(二代目、疾病により死去)・劉芳(三代目)の3回の立后が明記されている。廃后の記載はなく、いずれも死去による代替わり。日付は本紀の記述順序から相対的に推定した。
皇太子廃立回数
皇太子熙を廃して胤(義孫)に替える提案が劉聡の遺志を引き合いに議論されたが(呼延晏・卜泰・韓広らの諫言、及び胤自身の固辞)、「曜亦以太子羊氏所生、羊有寵、哀之不忍廃、乃止」とあり、実際には廃立は行われなかった。よって廃立回数は0とした。
親征回数
6件のうち318年即位直後の陳倉遠征と328年の最終決戦は原文の紀年(光初三年・咸和三年)で確定。仇池・張茂・洛陽の3件は原文に年号記載がなく、太寧元年(陳安挙兵)と咸和三年の間の相対的な記事順序及び通説から年代を推定した(confidence低め)。仇池・張茂は服属前の勢力を軍事威圧により服属(称藩)させたものであり反乱鎮圧ではないため親征回数にのみ計上。洛陽・蒲坂/金墉の2件は対等な独立政権である後趙との抗争のため反乱数には含めていない。
反乱鎮圧回数
上郡氐羌(虚除権渠)討伐は原文に「先是、上郡氐羌十余万落保険不降」とあり、元来前趙に服属していなかった勢力の征服・服属化と判断し反乱数には含めなかった。陳倉方面(南陽王保・路松多)も晋残存勢力との攻防であり服属民の反乱ではないと判断し除外した。
被反乱回数
鎮圧回数と対称的に同一の2件を計上した。曜が捕縛された後(咸和三年末)に長安で将軍蔣英・辛恕が後趙の石勒に投降した事件は、曜が既に捕虜となり実質的な統治権を失った後の出来事であり、子の劉煕を中心とする残存勢力の代の事件として扱い、曜自身の被反乱数には算入しなかった。
遷都回数
在位中に遷都1回(0318年 平陽→長安)。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns[].note/deathCause.note/accessionRoute.note等)及び_corpus_cache/qianzhao-liuyao.txt(晋書載記第三 劉曜載記)を確認したが、劉曜本人の生年・即位時年齢・没年齢の直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった。幼少期の逸話として「年八歳、従元海猎於西山」(劉淵に養われていた頃、8歳で狩猟に同行した)との記載はあるが、この出来事に対応する具体的な年号年のラベルがなく、逆算の起点として使えないため採用しなかった。死亡年(329年、後趙により処刑)は既存reigns[0].endDateRaw「329年(日不詳、処刑)」と一致するため年精度のみdeathDateに反映したが、享年不明のためdeathAgeはnullとした。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。
在位中の出来事(21件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元318年「曜以太興元年僭即皇帝位、大赦境内、惟準一門不在赦例、改元光初」。
「曜以太興元年僭即皇帝位、大赦境内、惟準一門不在赦例、改元光初」。即位に伴う建元。
出典: 晋書載記第三
大赦318年太興元年、皇帝を僭称し即位。
太興元年、皇帝を僭称し即位。境内に大赦(靳準一門のみ赦例に非ず)。改元光初と同時。
出典: 晋書載記第三
遷都318年平陽 → 長安
劉曜在位中。晋書載記第三(劉曜載記): 靳準の乱(318年、劉粲が靳準に弑され平陽が混乱・荒廃)の後、劉曜は赤壁で即位(太興元年、改元光初)。靳明の投降・誅殺により靳氏残党を平定した記事に続けて「使刘雅迎母胡氏丧于平阳、还葬粟邑……徙都長安、起光世殿於前、紫光殿於後。」と明記。平陽は靳準の乱で荒廃しており、劉曜は同一政権(国号は漢から趙に改めたが王統は連続)の遷都として長安に都を移した。(出典: 晋書 巻百三 載記第三 劉曜)
親征320年南陽王保勢力(楊曼・路松多、陳倉・草壁・安定方面)
対象: 南陽王保勢力(楊曼・路松多、陳倉・草壁・安定方面)
結果: 曜自ら精鋭を率いて雍から出陣し陳倉で楊曼を撃破(配下の王連戦死)、続いて草壁の路松多、安定を陥落させ、南陽王保は桑城へ退却した。長安へ凱旋。
光初三年(320年)の記事。当初は妖星の兆しにより雍城で一旦進軍を停止したが、後日改めて出陣し攻略に成功した。
反乱鎮圧320年〜322年尹車謀反・句渠知の乱(巴氐羌連合反乱)
首謀者: 尹車・句渠知
結果: 曜は当初親征を企図したが游子遠の諫言で思いとどまり、子遠を車騎大将軍として派遣。赦免と懐柔策により大半が投降し、句氏一族のみ陰密に籠城したが攻略され鎮圧完了した。
光初三年(陳倉遠征)以降、太寧元年(323年)以前の出来事として推定。長水校尉尹車の謀反に端を発し、巴・氐・羌30余万が呼応した大規模反乱。
被反乱320年〜322年尹車謀反・句渠知の乱(巴氐羌連合反乱)
首謀者: 尹車・句渠知
結果: 游子遠の派遣により鎮圧に成功した。
鎮圧回数と同一の反乱を被反乱側からも計上。
親征321年〜322年仇池氐(楊難敵・楊韜)
対象: 仇池氐(楊難敵・楊韜)
結果: 楊難敵を撃破し仇池へ追い詰めたが、曜自身が疾病に倒れ包囲継続が困難となり、使者を派遣して交渉。楊難敵は称藩し武都王に封じられ服属。南安の楊韜も降伏した。
原文に具体的年号の記載なし。光初三年(陳倉遠征)以降、太寧元年(323年、陳安挙兵)以前の記事として相対的に推定(confidence medium)。
親征323年〜324年陳安(隴右の反乱勢力)
対象: 陳安(隴右の反乱勢力)
結果: 曜自ら隴城を包囲し陳安を追い詰めた。陳安は突囲して逃走を図るも追撃され、澗曲で斬られ乱は平定された。
太寧元年(323年)挙兵。鎮圧完了時期は原文に明記なく、通説(資治通鑑等)により太寧二年(324年)頃と推定。
反乱鎮圧323年〜324年陳安の乱
首謀者: 陳安
結果: 曜自ら隴城を包囲して鎮圧、陳安は逃走後に討ち取られた。
太寧元年(323年)挙兵。陳安はもと隴右で曜に服属していた将で、曜の疾病中に不遜を疑い離反・自立(涼王を自称)した。
被反乱323年〜324年陳安の乱
首謀者: 陳安
結果: 曜自身の親征により鎮圧に成功した。
鎮圧回数と同一の反乱を被反乱側からも計上。
親征324年前涼(張茂、涼州)
対象: 前涼(張茂、涼州)
結果: 曜自ら28万5千の大軍を率いて西河まで進軍し軍事的威圧を加えた。実戦には至らず張茂は使者を送り称藩、馬・牛・羊・金銀等を献上して涼王に封じられた。
原文に年号記載なし。陳安平定後、咸和三年以前の記事として推定(通説では太寧二年頃、confidence low〜medium)。
親征325年後趙(石生・石季龍、洛陽方面)
対象: 後趙(石生・石季龍、洛陽方面)
結果: 劉岳を救援するため自ら出兵し、当初は石季龍配下の石聡を破るも、金谷で夜間に軍中が原因不明の混乱に陥り総崩れとなり退却。劉岳ら配下将士多数が後趙軍に捕らえられ、士卒1万6千が生き埋めにされる大敗を喫した。
原文に年号記載なし。張茂の記事の後、咸和三年以前の出来事として推定(通説では太寧三年、confidence low)。
大赦328年咸和三年、三人金面の夢の凶兆を受け「大赦殊死已下」。
出典: 晋書載記第三
親征328年後趙(石勒・石季龍、蒲坂・金墉方面)
対象: 後趙(石勒・石季龍、蒲坂・金墉方面)
結果: 石季龍の侵攻に対し自ら大軍を率いて出撃し高候で撃破・追撃したが、金墉包囲中に石勒本隊が到着。酒に酔った状態で西陽門の戦いに臨み大敗、馬もろとも氷上に転落して負傷、捕らえられた。後に石勒により処刑され前趙は事実上滅亡した。
咸和三年の記事。捕縛後は間もなく(咸和四年頃)処刑された。
大赦日付不詳靳明降伏・遷都長安・立后(羊氏)立太子(熙)等の後、「大赦境内殊死已下」。
靳明降伏・遷都長安・立后(羊氏)立太子(熙)等の後、「大赦境内殊死已下」。光初三年(320年)の記事より前に位置するため光初元~二年頃と推定。
出典: 晋書載記第三
大赦日付不詳游子遠の進言により尹車謀反・巴氐叛乱鎮圧後、「大赦境内」。
游子遠の進言により尹車謀反・巴氐叛乱鎮圧後、「大赦境内」。光初三年(陳倉攻撃の記事)以降、太寧元年(323年)以前と推定。
出典: 晋書載記第三
大赦日付不詳終南山崩の祥瑞を受け、斎戒七日の後に太廟で受け「大赦境内」。
終南山崩の祥瑞を受け、斎戒七日の後に太廟で受け「大赦境内」。太寧元年(323年)以前と推定。
出典: 晋書載記第三
大赦日付不詳父(永垣陵)・妻羊氏(顕平陵)の埋葬後、「大赦境内殊死已下」。
父(永垣陵)・妻羊氏(顕平陵)の埋葬後、「大赦境内殊死已下」。太寧元年(323年)以前と推定。
出典: 晋書載記第三
立后日付不詳「立其妻羊氏為皇后」。
「立其妻羊氏為皇后」。遷都長安・立太子熙・封諸子王等と同時期の記事(光初元~二年頃)。
出典: 晋書載記第三
立后日付不詳「曜立后劉氏」。
「曜立后劉氏」。太寧元年(323年)以降の記事群の中に位置する。
出典: 晋書載記第三
立后日付不詳皇后劉氏の遺言により、その叔父劉昶の娘・芳を「立劉皑女芳為皇后」。
皇后劉氏の遺言により、その叔父劉昶の娘・芳を「立劉皑女芳為皇后」。咸和三年(328年)記事の直前に位置する。
出典: 晋書載記第三