隠帝
前趙・漢趙(五胡十六国)|在位 318年
- 諱(本名)
- 劉粲
- 在位
- 318年
- 在位期間
- 30日365名中356位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:隠帝
即位の経緯
昭武帝劉聡の太子として即位。
出典: 晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
死因の経緯
即位後、酒色に溺れ政務・軍務を国舅の靳準に委任。靳準はこれに乗じてクーデターを計画し、光極殿で甲士に命じて劉粲・劉元公父子を捕らえ、罪状を数え上げた上で処刑した。劉氏一族も老若男女を問わず皆殺しにされた(在位約1ヶ月)。同一政権内の重臣による粛清のため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
原文「既嗣伪位…大赦境内,改元汉昌」より。具体的な月日は明記されていないが、帝紀(元帝紀)の記述から太兴元年(318年)七月頃の即位直後と推定される。在位1ヶ月未満のためこの1回のみ。
大赦回数
原文「立其妻靳氏为皇后,子元公为太子,大赦境内,改元汉昌」。地域限定の恩赦ではなく国全体を対象とする大赦と判断。在位期間中にこれ以外の大赦記事は見当たらない。
立后回数
原文「立其妻靳氏为皇后」。廃后・再冊立の記録はなし。
皇太子廃立回数
即位時に子の元公を皇太子に立てた(「子元公为太子」)記録はあるが、廃立の記事はない。靳準の乱により刘粲は殺害され「刘氏男女无少长皆斩于东市」(劉氏一族が男女問わず皆殺しにされた)とあるが、これは廃立行為ではなくクーデターによる皆殺しであり、皇太子廃立としてはカウントしない。
親征回数
在位期間(318年、即位から約1ヶ月)中に劉粲自身が軍を率いて出征した記録は晋書載記に見当たらない。「粲大阅上林,谋讨石勒」(上林で大閲兵を行い石勒討伐を謀った)との記述はあるが、これは計画段階に留まり、実行前に靳準のクーデターで殺害されたため出征には至っていない。なお即位前(皇太子・相国・晋王時代)には刘琨・贾疋・赵固等への遠征記録が多数あるが、本人物のreignsは318年の皇帝在位期間のみを対象としているため、それ以前の遠征は本項目に計上しない。
反乱鎮圧回数
在位中(318年)、靳準の讒言により太宰劉景・太師劉顗・大司馬劉驥・大司徒劉劢らを粛清した記録があるが、これは靳準が「諸公が皇帝を廃して済南王(劉驥)を立てようとしている」と偽って告げたことによる劉粲自身の先制的な粛清であり、劉景ら側が実際に挙兵・反乱を起こした事実はない(判定基準の例外3:皇帝自身が権臣を先制的に武力打倒したケース)。反乱そのものが成立していないため鎮圧回数には含めない。在位終盤に発生した靳準の乱(下記rebellionSufferedCount参照)は靳準側が兵力を用いて皇帝を弑逆した政変であり、鎮圧主体が皇帝側ではなく反乱者側であるため(判定基準の例外4)、鎮圧回数には計上しない。
被反乱回数
日付は晋書元帝紀の記述順(劉聡死→粲嗣位→8月冀徐青三州蝗→靳準弑粲)から太興元年(318年)8月頃と推定されるが、載記本文では月の明記がないためdatePrecisionはyearとした。
遷都回数
晋書載記を通読。離石→蒲子→平陽の遷都は劉元海(劉淵)の代、平陽→長安の遷都は劉曜の代の出来事であり、劉和・劉聡・劉粲の各代には追加の遷都記録はない。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(deathCause.note・accessionRoute.note・reignData・reigns[].note等)および_corpus_cache/qianzhao-liucan.txt(晋書載記第二 劉聰下 劉粲部分)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年の直接記載は見当たらなかった。父劉聡の崩御(318年)を受けて即位し、在位約1ヶ月で靳準のクーデターにより殺害された事実(晋書元帝紀・載記とも記載)のみ確認でき、年齢を逆算できる年号年ラベルの対応記載も見つからなかった。五胡十六国期の極短命な即位者に典型的な生年不詳ケースと判断し、ages各フィールドはnullのまま確定する。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳劉聰の死を受けて劉粲が偽位を嗣ぐと同時に改元し、元号を「漢昌」とした。
劉聰の死を受けて劉粲が偽位を嗣ぐと同時に改元し、元号を「漢昌」とした。即位に伴う建元として1回とカウント。
出典: 晋書載記第二
大赦日付不詳即位に伴い「大赦境内」(国内全域の大赦)を実施。
即位に伴い「大赦境内」(国内全域の大赦)を実施。前趙(漢趙)は独立政権のため「境内」は同国の全域を指し、他国の「大赦天下」に相当するものとして全国規模の恩赦とみなした。
出典: 晋書載記第二
立后日付不詳即位に伴い妻の靳氏を皇后として正式に冊立した。
出典: 晋書載記第二
被反乱日付不詳靳準の乱
首謀者: 靳準
結果: 国舅・大将軍・録尚書事の靳準が兵を率いて宮中に乱入し、光極前殿に登って甲士に命じて劉粲を捕らえさせ、罪状を数え上げた上で処刑した。劉氏一族は男女を問わず皆殺しにされ(「刘氏男女无少长皆斩于东市」)、劉元海・劉聡の墓も暴かれ宗廟も焼かれた。劉粲は即位からわずか約1ヶ月で殺害され、前趙(漢趙)政権は事実上崩壊した。靳準は自ら大将軍・漢天王を称して簒奪した。
靳準は劉聡の外戚(二女が貴嬪)かつ側近の重臣として、劉粲の代には軍国の事を一手に委ねられていた(「军国之事一决于准」)。その靳準が兵力を用いて主君を弑逆したクーデターであり、判定基準の例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するためrebellionSufferedCountには計上するが、鎮圧の主体が皇帝側ではなく反乱者側であるためrebellionSuppressionCountには計上しない。