父の劉聡の跡を継いだ漢の皇帝で、即位したその年に劉聡の皇后の父の靳準に殺され、劉氏の一族も皆殺しにされた。
隠帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 318年〜318年
- 没年
- 318年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 昭武帝前趙・
漢趙 隠帝は昭武帝の子
- 昭武帝前趙・
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱粲字士光呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百二 載記第二(劉聰載記末尾、劉粲部分)
- 死因
- 晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
- 即位経路
- 晉書 載記第二 劉聰(劉粲)
生涯
どんな皇帝か
晋書の載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は、若いころは才気にすぐれ文武を兼ねたとしつつ、厳しく恩恵が無く、諫めを拒んで非を取り繕ったと評する。
即位まで
劉聡の子で河内王となり、降った晋の南陽王司馬模とその子を殺して劉聡を激怒させると、晋の近親なのに節に死ななかったからだと弁じた。劉聡は、降った者を殺した報いを免れまいと言った。劉聡が王公を斬り、諫めた臣を獄に下すなど刑罰が度を越したときは、叔父の劉乂とともに強く諫めた。宰相となってからは威福罰と恩賞を思いのままに与える力をほしいままにし、宮室の造営を好んで相国臣下として政治を取りまとめる最高の位府を宮殿に似せて造らせた。宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の王沈らの専横が弾劾されたときは、王沈らを忠実清廉だと称えた。劉粲は王平を使って、皇太弟皇帝の跡継ぎに立てられた弟の劉乂に東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人の臣へ甲を着けさせるよう勧めさせ、それを謀反の備えだと告げさせた。劉乂が廃されると靳準に殺させ、自身は皇太子に立てられた。捕らわれていた晋の愍帝については、兵を挙げる者がみな名目にしているとして除くよう劉聡に説いた。晋の耿稚らが黄河を渡ってくると知らされても取り合わず、その夜に襲われて陣営を奪われた。
史料について
愍帝についての進言に、載記は劉聡が同意したとだけ書き、資治通鑑は劉聡がいったん退け、劉粲が重ねて上表したと書く。
治世と最期
318年に劉聡が没すると位を継ぎ、自分の妻の靳氏を皇后に立てて漢昌と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。喪に心を向けず、劉聡の若い皇后たちと昼夜淫らに交わった。
靳準から諸公が廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを企てていると告げられて一度は退けたが、劉聡の後宮にいた二人の靳氏にも言われると、太宰朝廷で最も位の高い大臣の一つの劉景ら重臣を誅した。酒色にふけって、軍国の事はすべて靳準が決めた。同じ年、靳準は宮中に兵を入れて劉粲を捕らえ、罪を数えて殺した。劉氏の男女は老いも若きも斬られ、劉淵と劉聡の墓は暴かれた。
史料について
隠帝という諡は資治通鑑に見え、晋書の載記には無い。
隠帝とつながる皇帝

勢力図
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318年の地図に、隠帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元318年8月元号を「漢昌」とする
- 反乱318年9月靳準の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 皇后日付不詳即位に伴い妻の靳氏を皇后として正式に冊立した。
前趙・漢趙の歴代皇帝
歴代5人の一覧年表
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