中国皇帝統計

昭武帝

前趙・漢趙(五胡十六国)|在位 310–318年

昭武帝の肖像
諱(本名)
劉聡
在位
310–318年
在位期間
7年352日365名中146位
即位経路
世襲
死因
不詳
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
4332名中29位タイ
大赦
6267名中67位タイ
立后
8204名中1位
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:昭武帝

即位の経緯

光文帝劉淵の子。兄・劉和が弟たちの粛清を企て自身も討伐対象とされたが、逆に劉和軍を打ち破って殺害し、群臣に推されて即位。

出典: 晉書 載記第二 劉聰

死因の経緯

太興元年(318年)、崩御(在位9年)。晩年は暴虐・享楽的な振る舞いが目立ち、側近の讒言を容れて臣下を処刑し、後宮に耽り百日朝廷に出ないこともあったと伝わるが、具体的な病名や他殺を示す直接的な死因の記述は確認できていない。死後、昭武皇帝と追諡され烈宗と廟号された。

出典: 晉書 載記第二 劉聰

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

原文中に「改元○○」「改年○○」と明記された箇所を4件確認(光興・嘉平・建元・麟嘉)。これは劉聡在位中の元号数(光興310年、嘉平311-315年、建元315-316年、麟嘉316-318年)と一致する。

大赦回数

「大赦」の語が明記された箇所を6件確認。即位時の大赦(改元光興と同時)、洛陽陥落後の大赦(改年嘉平と同時)、懐帝鴆殺直後の大赦(殊死已下)、太廟新成による大赦(改年建元と同時)、愍帝出降後の大赦(改年麟嘉と同時)、劉粲立太子時の大赦(殊死已下)の計6回。うち2件は「殊死已下」と適用範囲が限定されているが、「大赦境内」「大赦」と明記され全国(境内)規模のため計上した。

立后回数

劉聡は在位中に複数の皇后(上皇后・左皇后・右皇后・中皇后等、いわゆる四后制)を並立させたため、通常の一夫一皇后制とは異なり冊立回数が多い。原文で「立○○為○皇后」と明記された箇所を8件確認。うち「聡以其皇后靳氏為上皇后」(既に皇后であった靳氏を上皇后に格上げ)は新規冊立ではなく称号変更とみなし除外した。個々の女性の身元(例えば左貴嫔劉氏と後の貴妃劉氏が同一人物か等)に一部曖昧さがあるため confidence は medium とした。

皇太子廃立回数

皇太弟劉乂(聡の異母弟、北海王)が郭猗・王沈・靳準ら宦官・寵臣の讒言により謀反を疑われ、東宫官属を誅殺された上で「廃乂為北部王」と皇太弟位を廃され北部王に格下げされた。まもなく靳準により殺害された。皇太弟は法定推定継承者(皇太子相当)としてカウント対象とした。

親征回数

『晋書』劉聰載記全体(永嘉四年即位〜太興元年薨、在位9年)を通読したが、劉聰自身が軍を率いて出征した記録は一切ない。洛陽攻略(呼延晏・劉曜・王弥)、長安攻略(劉粲・劉曜・趙染)、愍帝討伐、劉琨討伐(劉粲・劉曜)、曹嶷・石勒への対応等、全ての軍事行動は子(劉粲・劉曜)や将軍に委任されており、聰自身は平陽の宮中に留まり狩猟・酒色に耽っていたことが繰り返し記される(中軍王彰の諫言等)。即位前は父劉淵の下で右賢王・鹿蠡王等として従軍したが、独立した君主号での出征ではないため対象外。

反乱鎮圧回数

劉乂粛清自体は劉粲側が策謀により先制的に劉乂を誣告・攻撃したもので、劉乂側に挙兵の事実はないため例外3に該当し鎮圧・被反乱いずれからも除外した。その巻き添えで生じた氐羌部落の反乱のみを1件として計上。なお石勒・曹嶷は聰の存命中に명号上は服属を保ったまま自立傾向を強めたが、命令拒否・密約に留まり実際の挙兵・武力衝突には至っていないため計上していない。

被反乱回数

鎮圧側と対称の1件のみ計上。劉乂粛清事件自体(劉乂は挙兵していない冤罪ケース)は例外3により除外。

遷都回数

晋書載記を通読。離石→蒲子→平陽の遷都は劉元海(劉淵)の代、平陽→長安の遷都は劉曜の代の出来事であり、劉和・劉聡・劉粲の各代には追加の遷都記録はない。

即位時年齢・没年齢

調査したが原典(晋書載記第二・劉聰載記)に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。冒頭に「十五月而生聰焉」とあるが妊娠期間の記述のみで生年は不明。「年十四」の記載は劉聰が14歳で経史に通じたという逸話であり即位年齢・没年齢の手がかりにはならない。崩御記事は「太興元年、聰死、在位九年」とあり没年(318年)は確定するが日付・享年の記載はない。deathDateはreignsの既存endDate(0318-08-31、日本語wikiベースの日精度値)を採用したが、これは晋書原文には日付までの記載はなく出典が異なる点に留意。

在位中の出来事(21件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元310年永嘉4年(310年)、皇帝位に即位(僭称)し「大赦境内、改元光興」。

永嘉4年(310年)、皇帝位に即位(僭称)し「大赦境内、改元光興」。即位に伴う建元。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

大赦310年永嘉4年(310年)、皇帝位に即位(僭称)し「大赦境内、改元光興」。

永嘉4年(310年)、皇帝位に即位(僭称)し「大赦境内、改元光興」。即位に伴う大赦。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后310年永嘉4年(310年)即位時、妻の呼延氏を皇后に立てる。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

反乱鎮圧317年4月氐羌部落の反乱

首謀者: 氐羌諸酋長(姓名不詳・複数)

結果: 靳準を行車騎大将軍として派遣し鎮圧(討平)した

太弟劉乂粛清(靳準・王沈らの讒言により郭猗が氐羌酋長十余人を拷問し虚偽の自白を取らせ、劉乂を北部王に降格後に殺害、東宮属官・士卒1万5千余を坑殺)を契機に、氐羌部落十余万落が反乱。『晋書』劉聰載記および『資治通鑑』晋紀十二(建武元年四月)に一致する記述あり。

被反乱317年4月氐羌部落の反乱

首謀者: 氐羌諸酋長(姓名不詳・複数)

結果: 靳準により鎮圧された

rebellionSuppressionCountと同一事象。服属下にあった氐羌部落十余万落が蜂起し、靳準が討平した。

改元日付不詳洛陽陥落・懐帝移送後、「聡大赦、改年嘉平」。

洛陽陥落・懐帝移送後、「聡大赦、改年嘉平」。原文に月日の明記なし。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

改元日付不詳太廟新成に伴い「大赦境内、改年建元」。

太廟新成に伴い「大赦境内、改年建元」。原文に月日の明記なし。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

改元日付不詳西晋愍帝出降後、「大赦境内、改年麟嘉」。

西晋愍帝出降後、「大赦境内、改年麟嘉」。原文に月日の明記なし。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

大赦日付不詳洛陽陥落・懐帝を平陽へ移送した後、「聡大赦、改年嘉平」。

洛陽陥落・懐帝を平陽へ移送した後、「聡大赦、改年嘉平」。原文に月日の明記なし。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

大赦日付不詳正旦の宴で懐帝を鴆殺し庾珉・王俊らを誅した際、「大赦境内殊死已下」。

正旦の宴で懐帝を鴆殺し庾珉・王俊らを誅した際、「大赦境内殊死已下」。殊死(死刑)以下の罪を対象とする大赦。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

大赦日付不詳太廟が新たに完成したことに伴い「大赦境内、改年建元」。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

大赦日付不詳西晋愍帝が長安外城陥落により出降した後、「大赦境内、改年麟嘉」。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

大赦日付不詳皇太弟劉乂を廃した後、劉粲を皇太子に立てた際、「大赦殊死已下」。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳皇后呼延氏の死後、太保劉殷の娘(左貴嫔劉氏)を皇后に立てる。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳中護軍靳準の娘二人(月光・月華)を左右貴嫔とした数ヶ月後、月光を皇后に立てる。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳四后制導入時、貴妃劉氏を左皇后に立てる(既存の皇后靳氏は上皇后に格上げ、これは新規冊立とせず除外)。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳同時期、右貴嫔靳氏(月華)を右皇后に立てる。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳張氏(先の皇太后張氏か)の侍婢であった樊氏を上皇后に立てる(上皇后靳氏が淫行により廃后・自殺した後と見られる)。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳中常侍王沈の養女(14歳)を左皇后に立てる。

中常侍王沈の養女(14歳)を左皇后に立てる。王鑑ら諫言した臣下は処刑された。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

立后日付不詳中常侍宣懐の養女を中皇后に立てる。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

皇太子廃立日付不詳郭猗・靳準らの讒言により皇太弟劉乂の謀反疑惑が作り上げられ、東宮官属が誅殺された上で「廃乂為北部王」。

郭猗・靳準らの讒言により皇太弟劉乂の謀反疑惑が作り上げられ、東宮官属が誅殺された上で「廃乂為北部王」。その後、劉粲の命により靳準に殺害された。原文に月日の明記なし(麟嘉年間、愍帝出降記事の後に位置)。

出典: 晋書載記第二(劉聡載記)

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