劉和
前趙・漢趙(五胡十六国)|在位 310年
- 諱(本名)
- 劉和
- 在位
- 310年
- 在位期間
- 6日365名中364位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
光文帝劉淵の長男として即位。
出典: 晉書 載記第一 劉元海(劉和)
死因の経緯
側近の呼延攸・劉鋭らに唆され、弟たち(北海王劉乂・魯王劉隆・斉王劉裕ら)と大司馬劉聡の粛清を企てたが、劉聡討伐に差し向けた軍が敗れ、逆に劉聡側に討たれて殺害された(即位からわずか数日)。同一政権内(弟)による殺害のため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第一 劉元海(劉和)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
劉和は父劉元海の元号「河瑞」を継続使用したまま在位6日間で殺害されており、改元の記載は無い。載記第一該当箇所(元海死~和嗣伪位~斩和于光极西室)を通読したが、劉和自身による建元・改元の記事は存在しない。
大赦回数
劉和の在位記事(元海死,和嗣伪位…锐、攸枭首通衢)は約6日間の簒奪劇の顛末のみを記し、大赦の記載は無い。直前の元海即位時の大赦(永嘉二年即皇帝位時、および河瑞改元時)はいずれも元海自身の在位中の出来事であり、劉和には帰属しない。
立后回数
劉和の在位6日間の記事中に皇后冊立の記載は無い。父元海の代に「立其妻单氏为皇后」とあるが、これは元海の皇后(単氏、劉和の生母)についての記事であり劉和自身による立后ではない。
皇太子廃立回数
劉和自身は元海生前に皇太子に立てられていたが(「立其妻单氏为皇后,子和为皇太子」)、即位後は逆に弟らに攻められて殺害されており、皇太子を廃したという記事は無い。劉和の在位中に新たな皇太子が立てられ、それが廃された形跡もない。
親征回数
劉和の在位は永嘉四年(310年)七月、父劉淵の死去による即位から同月中の弑殺まで数日間(晋書載記・資治通鑑の干支表記では即位の己卯日から6日後の乙酉日に殺害)のみであり、皇帝(王・天王)としての対外親征の記録は晋書載記・資治通鑑いずれにも見当たらない。即位前は皇太子の地位にあり、独立した君主号を称して出征した記録もない。
反乱鎮圧回数
劉和は即位直後、衛尉西昌王劉鋭・宗正呼延攸らの讒言により、まだ何ら反抗行動を起こしていない異母弟の劉聡(大司馬・大単于)・劉裕(大司徒)・劉隆(尚書令)・劉乂(撫軍大将軍)に対して将軍(劉鋭・劉景・呼延攸・劉安国・劉乗・劉欽・田密・劉璿ら)を差し向け先制攻撃を仕掛けた。これは皇帝自身が権臣・宗室を先制的に武力で打倒しようとした事案(相手はまだ反乱を起こしていない)にあたるため、例外3によりrebellionSuppressionCount・rebellionSufferedCountいずれからも除外する。結果としてこの先制攻撃自体は劉裕・劉隆の殺害には成功したが、劉聡には備えられて失敗し、劉和自身が反撃を受けて敗死したため、劉和側が反乱を鎮圧した事実はない。
被反乱回数
本件は劉和自身の先制攻撃と、それに対する劉聡の反撃・弑逆という一連の内紛の帰結であり、通常の『臣下が皇帝を奇襲した反乱』とは事象の発生順序が逆であるため、例外3(先制攻撃部分の除外)と例外4(結果としての弑逆クーデター)を組み合わせて解釈した。この整理はrebellionSuppressionCount/rebellionSufferedCountの非対称を正当化する4類型の趣旨(特に例外4)に沿うと判断したが、五胡十六国ブロックの他事例との整合性を要確認事項として残す。
遷都回数
晋書載記を通読。離石→蒲子→平陽の遷都は劉元海(劉淵)の代、平陽→長安の遷都は劉曜の代の出来事であり、劉和・劉聡・劉粲の各代には追加の遷都記録はない。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(deathCause/accessionRoute/reigns等の note・raw)および_corpus_cache/qianzhao-liuhe.txt(晋書載記第一 劉和条)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年(時年◯◯・年◯◯等)の直接記載は見当たらなかった。父劉淵の崩御と同日即位し在位6日で殺害されたことのみ判明。没日は既存reignsのendDate(0310-08-25、河瑞2年7月14日)と一致。年号年ラベルの差分から逆算できる別の直接記載も無いため、accessionAge/deathAgeはnullのまま確定。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱310年7月劉聡による反撃・弑逆(劉和の廃位・殺害)
首謀者: 劉聡(大司馬・大単于、劉和の異母弟)
結果: 劉和敗死。劉聡の軍が西明門を攻略し、劉和は南宮に逃げ込むも光極西室にて殺害された。首謀者側の劉鋭・呼延攸・劉乗も梟首された。劉聡がその後皇帝位に即いた(qianzhao-liucong、載記第二)。
先に劉和が異母弟達へ先制攻撃を仕掛けた事案自体は例外3により両カウントから除外対象だが、これに対し劉聡が兵力(単于台の守備兵等)を用いて防戦・反撃し、最終的に皇帝である劉和を弑逆・廃位に追い込んだ点は、朝廷内部の権力者(宗室・大司馬)による兵力を伴うクーデター・弑逆にあたるため例外4に該当し、rebellionSufferedCountにのみ1件計上する(鎮圧の主体が劉和側ではなく劉聡側であるためrebellionSuppressionCountには計上しない)。