中国皇帝統計

太宗・崇徳帝

清|在位 1636–1643年

太宗・崇徳帝の肖像
諱(本名)
愛新覚羅皇太極(ホンタイジ)
在位
1636–1643年
在位期間
7年130日365名中153位
即位経路
擁立
死因
不詳
即位時年齢
45歳(数え年)172名中・若い順148位タイ
没年齢
52歳(数え年)269名中・長寿順74位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
3112名中24位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

太祖ヌルハチ崩御時、後継者未定。大貝勒代善とその子岳託・薩哈廉が皇太極の才徳を推し、諸貝勒と協議して即位を要請。再三辞退した末に受諾し即位。

出典: 清史稿 巻二(太宗本紀一)

死因の経緯

崇徳8年8月9日戌時、崇政殿にて前触れなく崩御。「無疾崩」と明記されており直前の病の記録がない突然死。医学的死因(脳卒中・心疾患等の推定はあるが)は正史に記載なし。

出典: 清史稿 巻三(太宗本紀二)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位期間(1636-05-15〜1643-09-21)は崇徳の一元号のみで、途中の改元はない。即位(皇帝即位・国号「大清」制定)に伴う建元「崇德」をevents[0]として1件計上。

大赦回数

『清史稿』本紀三 太宗本紀二の記事中「大赦」と明記された全国規模の恩赦のみを計上。「赦殊死以下」「赦死罪以下」等の限定的恩赦(崇徳七年十月己未・崇徳八年三月庚戌)は基準により除外した。

立后回数

『清史稿』本紀(太宗本紀一・二、102〜316行目)自体には立后の儀礼記事は見当たらないが、同じ清史稿の列伝一「后妃」および志六十三 礼七(嘉礼一)「册立中宫仪」に、崇徳改元と同時に孝端文皇后(博尔济吉特氏・哲哲)が正式に中宮皇后として冊立されたことが明記されており、在位期間(1636-05-15〜)内の出来事として計上した。

皇太子廃立回数

太宗(崇徳帝)の治世中、清朝には皇太子冊立の制度が未確立であり(正式な皇太子制度は康熙朝以降)、本紀にも「皇太子」を立てた記事・廃した記事は一切見られない。本紀102〜316行目に「皇太子」の語が現れるのは天命十一年(1626年、即位前)の即位経緯を語る一節(「後知汉称储君曰『皇太子』」)のみで、崇徳期の在位期間(1636-05-15〜1643-09-21)内に立太子・廃太子の記事は存在しない。

親征回数

在位期間(1636-05-15〜1643-09-21、崇徳元年〜崇徳八年)における『清史稿』本紀三(太宗本紀二)記載の親征のみを対象とし、1636年以前の後金ハーン期の遠征(天聪年間の朝鮮出兵・察哈爾親征等)は対象外とした。朝鮮・喀爾喀蒙古はいずれも当時清の統治下にない独立勢力・服属していない外国のため、判定基準5に準じてpersonalCampaignCountのみに計上しrebellionSuppression/sufferedには含めない。明(錦州・松山方面)への親征は崇徳3年・4年・6年の3度にわたるが、いずれも祖大寿の拠る錦州奪取という同一目的地・同一相手への一連の行動(松錦の戦い)のため1回として計上した。

反乱鎮圧回数

在位期間(1636-05-15〜1643-09-21)の『清史稿』本紀三(太宗本紀二)を通読したが、清朝の統治下にある勢力による武装蜂起(挙兵を伴う反乱)の記録は見当たらない。莽古尔泰・莽古済らの謀反疑惑(原本紀では冷僧机の密告により発覚、関係者処刑)は天聪九年(1635年)末に摘発・処断されており崇徳改元(1636-05-15)前のため対象期間外。仮に対象期間内だったとしても実際の挙兵に至らない密告・摘発のみの案件のため判定基準4により鎮圧・被反乱いずれにも計上しない。朝鮮・喀爾喀蒙古・明との戦争は独立勢力・外国との対外戦争(判定基準3)に該当し、personalCampaignCountにのみ計上した。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同様、在位期間(1636-05-15〜1643-09-21)中に清の統治下にある勢力からの武装反乱を受けた記録は本紀中に見当たらない。朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター(判定基準2-(4))に該当する事例も同期間中には確認できない。

遷都回数

清史稿本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(盛京瀋陽→北京は世祖〔順治帝〕の代の出来事として計上済み。1900年義和団の乱時の西太后・光緒帝の西安一時避難は1902年に北京へ帰還しており恒久的な遷都に該当せず対象外)。

即位時年齢・没年齢

生没年は清史学界で広く確定した通説(明万暦二十年十月二十五日=1592年11月28日生、崇徳八年八月九日=1643年9月21日崩御。故宮博物院公式サイト・清史学者孫文良の評伝等で「享年五十二歳」と明記され、複数の信頼できる情報源で一致)。没年月日は本レコードreigns[0].endDateと一致。数え年での没年齢52歳は広く引用される通説と合致(WebSearch確認)。accessionAgeは本データセットの慣例(reigns/flags.usedEmperorTitleFromが1636年皇帝号採用時点を起点とする方針)に合わせ、reigns[0].startDate(1636-05-15、崇徳改元・大清建国・皇帝即位)時点の数え年45歳を採用した。実際の後金ハーン即位(天命十一年=1626年)時点では数え年35歳だが、reignsに含まれない期間のためaccessionAgeには採用していない。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元1636年5月15日崇徳元年夏四月乙酉、皇帝尊号を受け国号を大清と定め、改元して崇徳とした。

崇徳元年夏四月乙酉、皇帝尊号を受け国号を大清と定め、改元して崇徳とした。原文:「崇德元年夏四月乙酉,祭告天地,行受尊号礼,定有天下之号曰大清,改元崇德,群臣上尊号曰宽温仁圣皇帝,受朝贺。」

出典: 清史稿・本紀三 太宗本紀二

大赦1636年5月15日崇徳元年四月乙酉、受尊号・改元と同日に大赦。

崇徳元年四月乙酉、受尊号・改元と同日に大赦。原文:「祭告天地,行受尊号礼,定有天下之号曰大清,改元崇德……以受尊号礼成,大赦。」

出典: 清史稿・本紀三 太宗本紀二

大赦日付不詳崇徳二年秋七月壬午、大赦。

崇徳二年秋七月壬午、大赦。原文:「秋七月己巳,遣喀凯等分道征瓦尔喀……壬午,大赦。」

出典: 清史稿・本紀三 太宗本紀二

大赦日付不詳崇徳六年十月壬申、万寿節(皇帝誕生日)に大赦。

崇徳六年十月壬申、万寿節(皇帝誕生日)に大赦。原文:「冬十月壬戌,遣英俄尔岱等往朝鲜责罪。壬申,万寿节,大赦。」

出典: 清史稿・本紀三 太宗本紀二

立后日付不詳崇徳元年(1636年)、博尔济吉特氏(哲哲、科尔沁貝勒莽古思の女)が中宮皇后(孝端文皇后)として正式に冊立された。

崇徳元年(1636年)、博尔济吉特氏(哲哲、科尔沁貝勒莽古思の女)が中宮皇后(孝端文皇后)として正式に冊立された。原文(列传一 后妃):「崇德元年,上建尊号,后亦正位中宫。」/原文(志六十三 礼七 嘉礼一 册立中宫仪):「册立中宫仪崇德初元,孝端文皇后以嫡妃正位中宫,始行册立礼。是日设黄幄清宁宫前……宣读册文,具满、蒙、汉三体……皇后率公主、福晋、命妇至崇政殿御前六肃三跪三叩。」

出典: 清史稿・列传一 后妃/志六十三 礼七(嘉礼一)

親征日付不詳朝鮮(李氏朝鮮、国王李倧)

対象: 朝鮮(李氏朝鮮、国王李倧)

結果: 皇帝自ら大軍を率いて朝鮮国都・南漢山城を包囲、朝鮮国王李倧は三田渡にて出降し清に臣従(丙子の役/第二次朝鮮出兵)

崇徳元年十二月壬申(『上率礼亲王代善等征朝鲜,大军次沙河堡』)親征開始、崇徳二年正月庚午『朝鲜国王李倧率其子及群臣朝服出降于汉江东岸三田渡』にて受降、二月辛卯『上还盛京』にて帰還。朝鮮は当時清に服属していない独立国家であり対等な外国勢力への親征としてpersonalCampaignCountのみに計上。

親征日付不詳喀爾喀蒙古(ハルハ・モンゴル)

対象: 喀爾喀蒙古(ハルハ・モンゴル)

結果: 皇帝自ら親征したがハルハ軍は交戦を避けて逃走、直接の会戦には至らず

崇徳三年二月丁酉『亲征喀尔喀,豫亲王多铎、武英郡王阿济格从』、『喀尔喀闻之,遁去』。四月乙巳『上还盛京』。ハルハは当時清に服属していない独立勢力(正式服属はより後代)のためpersonalCampaignCountのみに計上。

親征日付不詳明(錦州・松山方面、祖大寿・洪承畴)

対象: 明(錦州・松山方面、祖大寿・洪承畴)

結果: 最終的に松山陥落・明総督洪承畴捕縛、錦州の祖大寿が開城降伏(松錦の戦い)

崇徳三年九月壬申『上亲向山海关以挠明师』を皮切りに、十月『上统大军发沈阳』で義州・錦州方面に親征、十一月に中後所で祖大寿と対峙するも降らず十二月帰京。崇徳四年二月『上亲统大军』で再度松山を攻めるが城壁を崩せず四月帰京。崇徳六年八月『上亲率大军御之』で明の洪承畴率いる十三万の援軍を松山にて撃破する決定的勝利を収め(斬首五万)、九月帰京。以後の松山陥落・洪承畴捕縛・錦州開城(崇徳七年二〜三月)は皇帝不在のまま諸将(豪格・多尔衮ら)が完遂。同一目的地(錦州・松山、明の最終防衛線)・同一相手(明、祖大寿→洪承畴)への一連の親征として1回に計上した。

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