大順帝の人物データ
- 生年
- 1606年9月18日
- 在位
- 西王1643年〜1644年
- 皇帝1644年12月4日〜1647年1月2日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1646年11月27日まで
- 没年
- 1647年1月2日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1646年11月27日)42歳(数え年)長生き順同率121位/266人
- 死因
- 戦死戦いの中での死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因8人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓張諱献忠呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 列传第一百九十七「流賊」(daizhigev20版 行22982〜23049)/清史稿 本紀五(世祖本紀二)
- 死因
- 明史 巻309(列伝197・
流賊)/清史稿 巻4(世祖本紀一)・ 巻225・ 巻231 - 即位経路
- 明史 巻309(列伝197・
流賊)
生涯
即位まで
延安衛の人で、延綏鎮の兵だったとき法を犯して斬られかけたが、主将の陳洪範に容貌を奇とされて救われた。1630年、王嘉胤の乱に呼応して八大王と称した。1638年、陳洪範が熊文燦の麾下にいると知ると、受けた大恩をお忘れかと贈り物をして降ったが、翌年に谷城で再び背いた。1641年に襄陽を陥し、縛った襄王に、王の頭を借りて楊嗣昌を罰したいと言って殺した。同じ年、信陽で大敗して従う騎兵が数十まで減り、李自成に身を寄せたが、部下として扱われるのを拒んで殺されかけ、羅汝才にひそかに騎兵を与えられて逃れた。1643年に武昌を陥すと楚王を江に沈めて宗室君主と同じ一族の人々を皆殺しにし、官を置いて科挙学問の試験で役人を選ぶ制度を開き、楚王府の金で飢民を救わせた。1644年に成都を陥し、大西国王を称して大順と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
谷城での降伏を、明史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と崇禎実録は偽りの降伏と書く。鹿樵紀聞は、身を寄せた相手を羅汝才とする。明季南略は、成都で帝を称して国号を大西としたとする。
治世と最期
人を殺さない日は不機嫌で、偽って科挙を開き、集めた士人を皆殺しにした。朝会では猛犬を放ち、嗅がれた官を引き出して斬り、天殺と名づけた。
1646年、成都の宮殿を焼いて北へ向かったが、部将の劉進忠が清に降って道案内をした。1647年の初め、西充で清軍に攻められ、矢に当たって討たれた。
史料について
俗に知られる七殺碑の文句は、調べた範囲の書には見えず、爝火録と蜀碧が載せる聖諭君主が人々に下した教えの言葉は殺の連呼を含まない。最期を、明史は薪の下に隠れたところを捕らえて斬ったとし、清史稿は陣中で斬った、あるいは射殺したとして、誰が討ったかも伝ごとに違えて書く。明史紀事本末は病死とし、爝火録はほかの説も挙げる。谷応泰は、張献忠ほど甚だしく宗社祖先と土地の神の祭り。転じて国家そのものを覆した者はないとする。

勢力図
明清交替の勢力図で見る
1644–1645年の地図に、大順帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 改元1644年12月元号を「大順」とする
- 反乱日付不詳曾英・李占春・於大海・王祥・楊展・曹勲らによる川中蜂起
年表
明・
西が
