
幼くして即位し、叔父の多爾袞の摂政幼い君主に代わって政治を執る役目のもとで入関して燕京に都を定め、親政君主が自分で政治を執ることののちに若くして没した清の皇帝である。
順治帝の人物データ
- 生年
- 1638年3月15日
- 在位
- 1643年10月8日〜1661年2月5日
- 没年
- 1661年2月5日24歳(数え年)長生き順同率213位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓愛新覚羅諱福臨廟号世祖諡号章皇帝元号順治呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 清史稿 本紀四〜五(世祖本紀一〜二)
- 死因
- 清史稿 巻五(世祖本紀二)
- 即位経路
- 清史稿 巻四(世祖本紀一)
生涯
即位まで
ホンタイジの第九子で、母は孝荘文皇后である。1643年にホンタイジが没したとき、跡継ぎは定まっていなかった。両黄旗の大臣は皇子を立てるよう迫り、阿済格と多鐸は多爾袞に即位を勧め、多爾袞がためらうと、多鐸はそれなら自分を立てよと言った。多爾袞は、豪格にも名があると答えた。礼親王代善が諸王王に取り立てられた皇族たちと議して福臨を立て、済爾哈朗と多爾袞が政治を補佐することになった。直後に阿達礼と碩託が多爾袞を立てようと謀って誅され、同じ年に福臨は即位した。
治世と最期
1644年、多爾袞が呉三桂の開いた山海関から入って李自成の軍を破り、順治帝は南郊都の南の郊外で、天をまつる場所で改めて即位して燕京を都とした。1648年、豪格は死罪とされ、帝が忍びずに幽閉したが、獄中で没した。同じ年、多爾袞は皇父摂政王清の順治帝の叔父ドルゴンに贈られた特別な称号と尊ばれた。
1650年に多爾袞が没すると帝の礼で葬られ、皇帝の号を追って贈られた。翌年に親政を始めると、多爾袞の罪が事実とされて布告され、尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号は削られた。豪格は冤罪を雪がれ、粛親王に戻された。
董鄂氏を寵愛して皇貴妃皇后の次に位の高い妃の位に立て、1660年に董鄂氏が没すると、五日間朝を休んで皇后の位を追って贈り、自ら行状を数千言で書いた。1661年に病に倒れ、養心殿で没した。遺詔皇帝が死に際に残した命令は自らの罪を14挙げ、そのなかに董鄂氏の喪祭が礼を越えたことを含めて、玄燁を皇太子に立てた。
史料について
豪格の獄死は清史稿の豪格伝が書き、宿怨のある多爾袞が獄に繋いだとする。本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は帝の幽閉までしか書かない。皇父摂政王の称号は多爾袞伝に見え、本紀には出てこない。清史稿には病名も、出家したという話も書かれていない。
順治帝とつながる皇帝

勢力図
明清交替の勢力図で見る
1643–1661年の地図に、順治帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱8・遷都1・皇后2・改元1・大赦10
- 改元1643年10月8日元号を「順治」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1644年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1644年上御皇極門にて天下に詔を頒ち大赦。
- 遷都1644年盛京(瀋陽) → 燕京(北京)
- 反乱1646年謝遷山東之乱
- 反乱1647年王永強延安・
榆林之乱 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1648年配天及び上尊号の礼成に伴い大赦。
- 反乱1648–1649年姜瓖大同之乱
- 反乱1648–1649年金声桓・
王得仁南昌之乱 - 反乱1648–1649年李成棟広東反正(叛清帰明)
- 反乱1648–1653年陝甘回民起義
- 反乱1650年李建泰太原・
太平之乱 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1651年上親政に伴い大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1651年
- 皇后1651年科爾沁卓礼克図親王呉克善の女、博爾済錦氏を冊立して皇后とす(後に順治十年廃されて静妃となる)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1654年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1654年詔して大赦・咸与更始。
- 皇后1654年科爾沁鎮国公綽爾済の女、博爾済錦氏(孝恵章皇后)を立てて皇后とす。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1656年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1657年配享の礼成に伴い大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1658年
- 反乱1660年郝承裔邛州・
嘉定之乱
清の歴代皇帝
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