中国皇帝統計

恭宗・宣統帝

清|在位 1908–1912年 / 1917年 / 1934–1945年

恭宗・宣統帝の肖像
諱(本名)
愛新覚羅溥儀
在位
1908–1912年 / 1917年 / 1934–1945年
在位期間
14年256日365名中90位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
3歳(数え年)172名中・若い順5位タイ
没年齢
62歳(数え年)269名中・長寿順31位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
13225名中33位タイ
被反乱
16289名中26位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

光緒34年10月、徳宗(光緒帝)が嗣子を残さず崩御したため、太皇太后(西太后)の懿旨により醇親王載灃の子・溥儀(当時2歳)を穆宗(同治帝)の嗣子として迎え即位させた(「奉太皇太后懿旨,入承大統,為嗣皇帝,嗣穆宗,兼承大行皇帝之祧」)。皇太后主導による幼少即位のため、先行する徳宗(光緒帝)と同型の擁立に分類。1917年張勲復辟・1934年満洲国即位の経緯は在位期間ごとの注記に記載。

出典: 清史稿 本紀二十五(宣統皇帝本紀)

死因の経緯

満洲国崩壊後、ソ連抑留・中国への引き渡し・戦犯管理所を経て釈放。1966年に腎臓癌と診断され、末期の尿毒症(腎不全)を併発して1967年10月17日に死去(享年61)。複数回の即位・退位歴があるが、死因としては最終の死没時のもの(1967年病死)を採用する。

出典: 近現代の学術的に信頼できる複数情報源(正史範囲外)

復位の経緯

1917年張勲復辟。太和殿にて即位の儀礼を行い上諭を発布、清朝再興を宣言。段祺瑞率いる討逆軍により鎮圧され12日間で退位(在位約12日間)。

1934–1945年満洲国執政(1932年)を経て皇帝に即位、元号「康徳」。満洲国崩壊(ソ連対日参戦・日本敗戦)に伴い退位、満洲国滅亡。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

【清朝宣統期1908-1912】清朝皇帝としての在位期間(1908-12-02〜1912-02-12)中、年号は「宣統」のみで改元は即位に伴う最初の建元1回のみ。 / 【張勲復辟1917】張勲は1917年7月1日、宣統帝溥儀の名義で上諭を発し『…權衡重輕,天人交迫,不得已允如所奏,於宣統九年五月十三日臨朝聽政,收回大權,與民更始』と称した(維基百科『張勳復辟』条・国立故宮博物院研究論文『有関宣統復辟的幾個問題』所引用の復辟上諭原文より、また各種検索結果でも『改称此年為「宣統九年」』と一致)。すなわち新元号は建てず、退位前の『宣統』の年号をそのまま延長使用し『宣統九年』と紀年しただけであり、改元(新元号制定)の事実は認められない。清史稿の宣統本紀は1912年退位で終わり本事件を含まないため、正史原典による直接確認はできず、維基百科・故宮博物院論文等の二次資料に基づく判定。confidenceはhighとするが、原典(上諭全文の一次史料)への直接アクセスはできていない点に留意。 / 【満洲国康徳期1934-1945】満洲国執政期の元号「大同」から、1934年3月1日の皇帝即位に伴い「康徳」へ改元(建元)。以後1945年8月18日の満洲国崩壊まで「康徳」の元号が継続使用され、在位中にこれ以外の改元は確認されない。

大赦回数

【清朝宣統期1908-1912】本紀原文には「大赦天下」の定型句そのものは見えないが、即位当日に「常赦所不原(通常の恩赦では赦されない罪)」までことごとく赦除する旨を天下に頒詔しており、内容上は全国規模の大赦に相当する。以後、宣統3年12月の退位(1912-02-12)までの間に他の大赦記事は見当たらない。 / 【張勲復辟1917】復辟に伴う「上諭」(宣統九年五月十三日発布、通称「九章約法」)第8条に『禁除党派惡習,其從前政治罪犯,概予赦免』とあり、政治犯に限定した赦免を布告している(維基百科『張勳復辟』条・国立故宮博物院研究論文『有関宣統復辟的幾個問題』が引用する上諭原文より)。しかしこれは「政治罪犯」という特定罪状に限定した恩赦であり、本プロジェクトの基準(『大赦天下』等、全国規模の大赦と明記された記事のみを1件とする)には該当しないため、amnestyCountは0とする。清史稿の宣統本紀は1912年退位で終わっており本事件を含まないため、正史原典による裏付けは取れず、上記は二次資料(維基百科・故宮博物院論文)に基づく。信頼度はmediumとする。 / 【満洲国康徳期1934-1945】康徳元年(1934年)3月の即位改元に際し、即位詔書とともに「恩赦詔書」が発布され、勅令として「恩赦令」「大赦令」「減刑令」が公布されたことがアジア歴史資料センター(JACAR)所蔵『満洲国政府公報日訳 康徳元年三月分』(Ref.A06031010800、政府公報日訳第三十八号付録)の目次で確認できる。ただし当該史料は目次・見出しレベルでの確認にとどまり、大赦令自体の原文全文(「大赦天下」等の直接文言)までは今回確認できていない。在位中の他の時期(康徳2年・7年の御訪日、康徳9年建国十周年など)についても恩赦・大赦の慣例があった可能性が示唆される記述があったが、具体的な大赦令発令を明記した一次資料は確認できなかったため計上していない。よって本件は即位に伴う1回のみを高確度で確認、それ以外は不明のためconfidenceをmediumとした。

立后回数

【清朝宣統期1908-1912】本紀範囲(3834〜3881行、1908-1912)内に皇后冊立の記事なし。溥儀は即位時わずか3歳で、在位中一貫して幼少のため皇后は立てられていない。婉容の立后(1922年)は本紀範囲外の出来事のため対象外。 / 【張勲復辟1917】1917年7月1日~12日の復辟期間中、皇后冊立の記録は見当たらない。溥儀は当時12歳(数え年)で未婚であり、大婚(婉容の皇后冊立)は1922年12月で本事件の対象期間外。該当なしと判定。 / 【満洲国康徳期1934-1945】婉容は民国十一年(1922年)に清朝皇后として既に冊立済みであり、満洲国皇帝即位(1934年)後も『引き続き皇帝溥儀の后として満洲国の帝室に列せられた』(地位の継続)にとどまる。満洲国皇帝在位中(1934-1945)に新規の皇后冊立の儀が行われた記録はない。譚玉齢・李玉琴はいずれも側室(祥貴人/明賢貴妃、福貴人)であり皇后には冊立されていない。

皇太子廃立回数

【清朝宣統期1908-1912】本紀範囲内に皇太子(法定推定継承者)を立てた記事も廃した記事も見当たらない。 / 【張勲復辟1917】1917年7月1日~12日の復辟期間中、皇太子の冊立・廃立に関する記述は維基百科『張勳復辟』条・国立故宮博物院論文等いずれの資料にも見当たらない。溥儀自身が既に退位した前皇帝であり、この12日間に新たに皇太子を立てた事実もないため、廃立も発生しようがない。該当なしと判定。 / 【満洲国康徳期1934-1945】溥儀には実子がなく、満洲国では在位中を通じて正式な皇太子(帝位継承者)が一度も指名されなかったため、廃立の対象となる皇太子自体が存在しない。

親征回数

【清朝宣統期1908-1912】即位時わずか3歳(数え年)で退位時も6歳、在位中一貫して幼少のため親征の事実なし(軍国機務は摂政王載灃・後に内閣総理大臣袁世凯が処分)。清史稿本紀二十五(行1-46)を通読し該当記事なし。 / 【張勲復辟1917】12日間の在位中、溥儀自身(当時12歳)が軍を率いた記録は維基百科『張勳復辟』条等いずれの資料にも見当たらない(実際の軍事行動の主体は張勲・段祺瑞)。 / 【満洲国康徳期1934-1945】満洲国皇帝としての在位中、日本(関東軍)主導の軍事行動はあったが、溥儀個人が親征(軍を率いて戦場に赴く)した事実は確認できない。日本への複数回の訪問(1935年・1940年)は外交儀礼目的であり親征に該当しない。

反乱鎮圧回数

清史稿本紀二十五(清朝宣統期1908-1912、_corpus_cache/qing-xuantong.txt全46行)を通読し、服属民・国内勢力による武装蜂起で鎮圧に成功した14件を計上した。準噶爾・ロシア・イギリス等の対等勢力・外国関係はこの期間該当なし。個人を狙った暗殺・爆弾テロ未遂(汪兆铭の摂政王暗殺未遂・広州将軍孚琦暗殺・広東水師提督李準暗殺未遂等)は組織的武装蜂起に発展していないためRULES4(実力行使に至らない謀反計画)に準じ除外した。辛亥革命(武昌起義〜退位)は在位終了まで鎮圧できず清朝滅亡に至ったためRULES例外(2)により本フィールドには計上せずrebellionSufferedCountのみに計上した(詳細は同フィールドのnote参照)。湖南飢民の変(長沙抢米風潮)は「谕擒首要,散胁从」との勅命のみで鎮圧完了の明記が本紀にないため確度がやや低い。同一地域・同一人物による連続事案(四川寧遠夷変、趙爾豊の西康鎮撫)は粒度差(RULES例外(1))により統合計上した。判断に解釈の幅があるためconfidenceはmediumとした。1917年張勲復辟期・1934-1945満洲国康徳期は本フィールド該当0件(詳細はrebellionSufferedCount.note参照)。

被反乱回数

【清朝宣統期1908-1912】清史稿本紀二十五を通読し、鎮圧成功14件(rebellionSuppressionCountと同一)に加え、在位終了まで鎮圧できなかった辛亥革命1件(RULES例外(2))を追加計上し、計15件。 / 【張勲復辟1917】二次資料に基づき、朝廷内部の武力による皇帝の統治権剥奪に該当する事例として1件計上(合計16件目)。 / 【満洲国康徳期1934-1945】溥儀は満洲国皇帝として実権を持たない名目上の存在であり、関東軍主導の軍事行動やソ連対日参戦・満洲国崩壊(1945年8月)、国内の抗日聯軍等の武装抵抗勢力との関係についても、溥儀個人が統治の主体として反乱を「受けた」と評価できるだけの実質的な統治権行使が認められないと判断し、本フィールドには計上しなかった(親征・鎮圧いずれについても同様の理由でpersonalCampaignCount・rebellionSuppressionCountにも計上せず)。この判断には解釈の幅があるため、当該期間分についてはconfidence低めである旨を明示する。総計confidenceはmedium。

遷都回数

清史稿本紀を通読。該当在位期間中に新たな遷都の記録なし(盛京瀋陽→北京は世祖〔順治帝〕の代の出来事として計上済み。1900年義和団の乱時の西太后・光緒帝の西安一時避難は1902年に北京へ帰還しており恒久的な遷都に該当せず対象外)。

即位時年齢・没年齢

宣統帝は3期(1908-1912清朝宣統期・1917張勲復辟・1934-1945満洲国康徳期)にまたがる複数即位歴を持つが、本フィールドは初回即位(1908年)時点のaccessionAgeと実際の没年(1967年)のdeathAgeを数え年で算出する運用方針に従う。accessionAgeは清史稿本紀二十五「徳宗崩,奉太皇太后懿旨,入承大统,为嗣皇帝,嗣穆宗,兼承大行皇帝之祧,时年三岁」の直接記載(光緒34年10月癸酉=1908年11月14日、即位礼自体は同年11月9日=辛卯)による数え年3。birthDateは同本紀冒頭「光绪三十二年春正月十四日,诞于醇邸」(光緒32年正月14日)を近現代の暦換算により1906年2月7日と確定(通説と一致)。deathDateは既存deathCause.noteに記載の1967年10月17日(近現代の学術的に信頼できる複数情報源、正史範囲外)を採用。deathAgeは数え年換算(1967-1906+1=62)で算出したが、deathCause.noteに既存の「享年61」は満年齢(実年齢)であり、本プロジェクトの数え年統一方針に基づき62とした点に留意(両者は同一の生没年に基づく異なる年齢計算方式の差であり矛盾ではない)。

在位中の出来事(33件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧1908年11月安慶兵変(熊成基起義)

首謀者: 熊成基

結果: 鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】清史稿本紀二十五「庚辰,颁大行皇帝遗诏。安庆兵变,剿定之。」(光緒34年11月)。安徽新軍将校熊成基が率いた砲兵営蜂起、清軍により鎮圧。

被反乱1908年11月安慶兵変(熊成基起義)

首謀者: 熊成基

結果: 鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

改元1908年12月2日【清朝宣統期1908-1912】即位に伴う建元。

【清朝宣統期1908-1912】即位に伴う建元。原文:「辛卯,帝即位于太和殿,以明年为宣统元年。」(光緒三十四年十一月辛卯、帝、太和殿に即位し、明年(光緒三十五年)を宣統元年と為す)

出典: 清史稿 本紀二十五 宣統皇帝本紀

大赦1908年12月2日【清朝宣統期1908-1912】即位に伴う恩赦。

【清朝宣統期1908-1912】即位に伴う恩赦。原文:「颁诏天下,罪非常所不原者咸赦除之。」(詔を天下に頒し、罪の常赦の原す所に非ざる者も咸く赦除す)

出典: 清史稿 本紀二十五 宣統皇帝本紀

反乱鎮圧1909年6月〜1909年11月四川寧遠(西昌・会理)夷変

首謀者: 不明(浅水倮夷・二板房夷匪、いずれも首魁名記載なし)

結果: 鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「赵尔巽奏平四川宁远浅水倮夷」(元年六月)、「四川西昌、会理交界二板房夷匪为乱,官军剿平之」(元年十月)。同一地域(四川寧遠府西昌・会理)における連続した少数民族(夷)の武装蜂起を粒度差(RULES例外(1))により一件として統合。

被反乱1909年6月〜1909年11月四川寧遠(西昌・会理)夷変

首謀者: 不明

結果: 鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1909年8月洪江会匪姚芢山の乱

首謀者: 姚芢山

結果: 討滅・処刑

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「洪江会匪姚芢山伏诛」(元年七月)。哥老会系秘密結社洪江会による蜂起、首魁捕縛・処刑。

被反乱1909年8月洪江会匪姚芢山の乱

首謀者: 姚芢山

結果: 討滅・処刑

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1909年9月〜1911年4月趙爾豊による西康(康区)土司・原住民鎮撫

首謀者: 不明(西藏地方勢力・三岩野番、趙爾豊が鎮圧側)

結果: 鎮圧・改土帰流

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「藏番不靖,赵尔丰剿定之」(元年八月)、「赵尔丰奏平三岩野番,改孔撒、麻书两土司,设流官」(3年3月)。四川辺務大臣趙爾豊による川辺(西康・康区)の服属民(土司・原住民)不穏の鎮撫を、同一人物による一連の辺境鎮撫作戦として統合(RULES例外(1))。

被反乱1909年9月〜1911年4月趙爾豊による西康(康区)土司・原住民鎮撫

首謀者: 不明

結果: 鎮圧・改土帰流

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1910年2月広州新軍起義(庚戌新軍起義)

首謀者: 倪映典(本紀に個人名記載なし、二次資料で補完)

結果: 鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「广州新军作乱,练军讨平之」(2年正月)。同盟会系の広州新軍による蜂起、練軍により鎮圧。「广东革命党王占魁等伏诛」(同2月)も関連残党処分として含む。

被反乱1910年2月広州新軍起義(庚戌新軍起義)

首謀者: 倪映典

結果: 鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1910年4月雲南威寧「邪匪」李老么の乱

首謀者: 李老么

結果: 討滅・処刑

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「云南威宁邪匪袭昭城,官军剿灭之,匪首李老么伏诛」(2年3月)。

被反乱1910年4月雲南威寧「邪匪」李老么の乱

首謀者: 李老么

結果: 討滅・処刑

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

被反乱1910年4月湖南飢民の変(長沙抢米風潮)

首謀者: 不明(無位無官の飢民主導)

結果: 鎮圧命令(擒首要,散胁从、本紀に鎮圧完了の明記なし)

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「湖南民饥倡变,谕擒首要,散胁从」(2年3月辛亥)。米価高騰による長沙民衆暴動(長沙抢米風潮)。suppressionCountには鎮圧完了の明記が本紀にないため含めず、sufferedのみに計上(confidence低め)。

反乱鎮圧1910年7月山東莱陽民変(曲詩文起義)

首謀者: 曲思文

結果: 平定

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「山东莱阳绅民相仇,匪首曲思文聚众万馀,围攻城邑,劫杀官兵,海阳亦因徵收钱粮激变,旋并平定之」(2年6月)。莱陽・海陽両県にまたがる民変を平定。

被反乱1910年7月山東莱陽民変(曲詩文起義)

首謀者: 曲思文

結果: 平定

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1910年8月新疆陸軍田熙年の兵変

首謀者: 田熙年

結果: 処刑

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「新疆陆军营官田熙年以擅杀酿变伏诛」(2年7月)。新疆陸軍将校の擅殺に端を発する兵変、当該将校を処刑して鎮定。

被反乱1910年8月新疆陸軍田熙年の兵変

首謀者: 田熙年

結果: 処刑

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1910年11月広西岑渓匪乱

首謀者: 陈荣安

結果: 鎮圧・処刑

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「广西岑溪匪乱,官军剿定之,匪首陈荣安伏诛」(2年10月)。

被反乱1910年11月広西岑渓匪乱

首謀者: 陈荣安

結果: 鎮圧・処刑

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1910年12月〜1911年1月四川黔江・温朝鍾の乱

首謀者: 温朝钟

結果: 撃退・捕縛処刑

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「四川匪踞黔江县为乱,官军击卻之,复其城」「四川匪首温朝锺窜入湖北咸丰县境,擒斩之」(2年12月)。四川酉陽・黔江一帯の武装蜂起、清軍が撃退・城奪還後、首魁を湖北で捕縛処刑。

被反乱1910年12月〜1911年1月四川黔江・温朝鍾の乱

首謀者: 温朝钟

結果: 撃退・捕縛処刑

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1911年4月27日黄花岗起義

首謀者: 黄興

結果: 撃退

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「革命党人黄兴率其党于广州焚总督衙署,击走之」(3年3月丁卯)。同盟会による広州蜂起(黄花岗起義)、清軍により撃退。

被反乱1911年4月27日黄花岗起義

首謀者: 黄興

結果: 撃退

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1911年7月丹噶爾・西寧匪乱

首謀者: 李旺・李统春・李官博俭

結果: 鎮圧・処刑

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「丹噶尔及西宁县匪党纠众为乱,官军击散之,首犯李旺、李统春、李官博俭等伏诛」(3年6月)。

被反乱1911年7月丹噶爾・西寧匪乱

首謀者: 李旺・李统春・李官博俭

結果: 鎮圧・処刑

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

反乱鎮圧1911年9月四川保路同志会武装衝突(成都血案)

首謀者: 蒲殿俊・羅綸ら保路同志会

結果: 一時鎮圧(同志会による総督署包囲を武力分散)

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「赵尔丰执谘议局议长蒲殿俊、副议长罗纶、保路同志会长邓孝可、股东会长颜楷及胡嵘、江三乘、叶秉诚、王铭新九人。寻同志会聚众围总督署,击之始散」(3年7月壬午)。四川保路運動が武力衝突化(成都血案)、いったんは武力で分散させたが、この直後(2ヶ月後)に武昌起義(辛亥革命)へ連鎖したため別事案として区別し、辛亥革命自体はrebellionSuppressionCountに含めない(下記参照)。

被反乱1911年9月四川保路同志会武装衝突(成都血案)

首謀者: 蒲殿俊・羅綸ら保路同志会

結果: 一時鎮圧

【清朝宣統期1908-1912】rebellionSuppressionCountと同一事案。

被反乱1911年10月10日〜1912年2月12日辛亥革命(武昌起義〜清朝滅亡・退位)

首謀者: 革命党(黎元洪・黄興ら/湖北新軍を発端に陝西・湖南・山西・雲南・江西・安徽・広西・福建・広東・山東・浙江・江蘇等各省新軍が相次いで独立)

結果: 未鎮圧のまま退位・清朝滅亡

【清朝宣統期1908-1912】清史稿「武昌新军变附于革命党,总督瑞澂弃城走,遂陷武昌」(3年8月乙卯=1911年10月10日)に始まる。鎮圧の試みとして、陸軍大臣廕昌の督師派遣、後に袁世凯を欽差大臣として起用し馮国璋(第一軍)・段祺瑞(第二軍)を節制させ、馮国璋が「与革命军战于滠口,水陆夹击汉口,复之」と漢口を一時奪還する等、実際の軍事的鎮圧行動は確認できる。しかし革命は陝西・湖南・山西・雲南・江西・安徽・広西・福建・広東・山東・浙江・江蘇の各省新軍蜂起・独立宣言へと急速に波及し、南北議和を経て「遂逊位」(3年12月25日=1912年2月12日)、清朝滅亡・退位に至った。最終的に鎮圧できないまま在位終了したため、RULES例外(2)に従いrebellionSuppressionCountには計上せず、rebellionSufferedCountのみに1件として計上する(各省の新軍蜂起・独立を個別に計上せず、辛亥革命全体を一つの反乱事象として統合)。

被反乱1917年7月1日〜1917年7月12日張勲復辟の鎮圧(討逆軍)

首謀者: 段祺瑞(討逆軍総司令)

結果: 鎮圧され再度退位

【張勲復辟1917】張勲が宣統帝溥儀の名義で清朝再興(復辟)を宣言したが、段祺瑞率いる討逆軍により12日間で鎮圧され、溥儀は再度退位に追い込まれた(維基百科『張勳復辟』条・国立故宮博物院研究論文『有関宣統復辟的幾個問題』等の学術的に信頼できる二次資料に基づく、清史稿は1912年退位で記述終了のため本事件を含まず)。この間、溥儀側は鎮圧される側であり鎮圧の主体ではないため、rebellionSuppressionCountには計上せずrebellionSufferedCountにのみ計上する(reigns[1].noteと同内容)。

大赦1934年3月【満洲国康徳期1934-1945】満洲国政府公報日訳(政府公報日訳第三十八号付録、康徳元年四月十九日発行)の目次に、即位に伴う詔書として「即位詔書」「恩赦詔書」、勅令として「恩赦令」「大赦令」「減刑令」が掲載されている。

【満洲国康徳期1934-1945】満洲国政府公報日訳(政府公報日訳第三十八号付録、康徳元年四月十九日発行)の目次に、即位に伴う詔書として「即位詔書」「恩赦詔書」、勅令として「恩赦令」「大赦令」「減刑令」が掲載されている。即位詔書本文には「奉天承运,皇帝诏曰……以大同三年三月一日,即皇帝位,改为康德元年,仍用满洲国号」とあり、同時に恩赦関連の詔書・勅令が公布された。

出典: Wikipedia日本語版記事「『満洲国政府公報日訳』康徳元年三月分(第1号~第22号)JACAR Ref.A06031010800」

改元1934年3月1日【満洲国康徳期1934-1945】執政溥儀が皇帝に即位すると同時に「大同」から「康徳」に改元。

【満洲国康徳期1934-1945】執政溥儀が皇帝に即位すると同時に「大同」から「康徳」に改元。即位詔書に「奉天承运,皇帝诏曰……以大同三年三月一日,即皇帝位,改为康德元年,仍用满洲国号」とある。

出典: 満洲国皇帝即位詔書(1934年3月1日発布、石印本)/『満洲国政府公報日訳』康徳元年三月分(JACAR Ref.A06031010800)

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