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光緒帝の肖像画

清第11代

光緒帝載湉

在位 1875–1908年(33年263日)1875年2月25日 〜 1908年11月14日

日本は明治時代

日清戦争に敗れたあとを始め、同じ年のうちに西太后がを再開して政治の実権を失った清の皇帝である。

  • 1894年

    日清戦争

    日本が朝鮮に攻め込み、清は日本に宣戦した。

    原文
    • 秋七月乙亥朔,日本侵朝鲜,下诏宣战。― 清史稿(本紀二十三 徳宗本紀一)
  • 1895年

    下関条約

    李鴻章が日本の伊藤博文・陸奥宗光と馬関(下関)で講和し、朝鮮を独立国と認め、遼東半島の南部・台湾・澎湖諸島を譲り、軍費2億両を払うと決めた。

    原文
    • 李鸿章与日本全权伊藤博文、陆奥宗光马关会议。和约成,定朝鲜为独立自主国,割辽南地、台湾、澎湖各岛,偿军费二万万― 清史稿(本紀二十四 徳宗本紀二)

光緒帝の人物データ

生年
1871年8月
在位
  • 1875年2月25日〜1908年11月14日
33年263日長い順20位/365人5歳で即位(数え年)
没年
1908年11月14日38歳(数え年)長生き順同率143位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 同治帝清光緒帝は同治帝の従兄弟
次代
  • 宣統帝溥儀清宣統帝は光緒帝の甥
呼び名
姓愛新覚羅諱載湉廟号徳宗諡号景皇帝元号光緒呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
  • 反乱を起こされた 57回多い順3位

出典

在位
清史稿 本紀二十三〜二十四(徳宗本紀一〜二)
死因
清史稿 徳宗本紀二(伝統的記述)/国家清史編纂委員会『清光緒帝死因研究工作報告』(清史研究2008年第4期、2008年11月公表)
即位経路
清史稿 穆宗本紀二/徳宗本紀一

生涯

どんな皇帝か

は病死と書くが、2008年の調査で遺髪から致死量を大きく超える砒素が見つかった。

即位まで

道光帝の第七子である醇親王奕譞の子で、母は西太后の妹である。同治帝が子の無いまま没すると、両皇太后は光緒帝を咸豊帝の子として継がせ、光緒帝の子を同治帝の後継ぎとすると定めた。即位すると、両皇太后が簾の後ろから政治を執った。

治世と最期

1887年にを始め、1889年に西太后の姪を皇后に立てると西太后は政務を返した。翁同龢伝は、親政が長くなると裁決が的確になり、事ごとに翁同龢を頼ったと書く。1895年の下関条約で朝鮮の独立を認め、台湾と澎湖などを割譲した。敗戦のなかでに話が及ぶと声を上げて泣いた。講和では台湾を失えば人心も去る、朕は何をもって天下の主となれようかと言った。西太后の伝は、太后に謹んで仕えたが、変法で国を救おうとして良しとされず、食い違いが積み重なったと書く。

1898年に国是を定める詔を出し、康有為を取り立てた。同じころ、師の翁同龢は硃諭で職を解かれて郷里へ帰され、政変後は永く官に就けないとされた。康有為伝によれば、変法を説く康有為に、横から邪魔が入るのをどうしたものかと嘆き、その献策をすべて良しとした。王照のを取り次がなかったの6人を一度に免じた。楊鋭へのでは、強行すれば朕の位さえ保てないと書き、太后の意に背かずに新政を進める策を諮った。その秋に西太后が再び訓政を始め、康有為の逮捕が命じられ、譚嗣同ら6人が斬られた。清史稿の康有為伝は、機密が漏れて害を招いたと書くが、袁世凱の密告とは書かない。光緒帝は病とされ瀛台に移された。

1900年に八国連合軍が北京を落とすと、西太后と太原へ逃れた。后妃伝では、太后が都を出たとき珍妃が井戸に沈んだが、は宮中で殉節したと書き、誰の手によるかはどちらも書かない。1907年に病み、1908年に瀛台で没し、翌日に西太后も没した。清史稿の論は、1900年のあと鬱屈して心身を損なったと結ぶ。清史稿は本紀も西太后の伝も病の経過として書き、毒殺の記述は無い。2008年、中国の合同調査が遺髪などを分析し、同時代の皇后の二百数十倍の砒素を検出して急性中毒と結論した。このサイトが死因を暗殺とするのはこの物証による。毒を盛った人物は特定されていない。

光緒帝とつながる皇帝

清の勢力図(1875年)

勢力図

清の勢力図で見る

1875–1908年の地図に、光緒帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱57・皇后1・皇太子1・改元1・大赦1
  1. 改元1875年元号を「光緒」とする
  2. 反乱1875–1878年西北回変残余(陝甘・新疆回民起義)
  3. 反乱1875年台湾生番乱(開山撫番期)
  4. 反乱1875年雲南鎮雄匪乱
  5. 1875年2月25日太和殿における即位式当日に赦詔を発し恩科を開いた。
  6. 反乱1876年貴州下江匪乱
  7. 反乱1876年四川蛮匪乱
  8. 反乱1876年雲南鄧川匪乱
  9. 反乱1876年広西陽萬土州判作乱
  10. 反乱1876年甘粛階州斎匪乱
  11. 反乱1876–1877年雲南騰越練軍兵変
  12. 反乱1877年四川穆坪夷匪乱
  13. 反乱1877年四川馬辺倮夷乱
  14. 反乱1877年雲南昭通・広南匪乱
  15. 反乱1878–1879年広西李揚才叛乱
  16. 反乱1880年広西西林苗匪乱
  17. 反乱1880年雲南尋甸匪乱
  18. 反乱1880年甘粛階州番匪乱
  19. 反乱1881年湖南江華瑤匪乱
  20. 反乱1881–1891年四川雷波夷匪乱
  21. 反乱1881年雲南昭通匪乱
  22. 反乱1881年湖北施南会匪乱
  23. 反乱1881年広西果化土州匪乱
  24. 反乱1882年広西郁林匪乱
  25. 反乱1883年広東高州都司叛乱
  26. 反乱1883年湖南会匪方雪敖の乱
  27. 反乱1883–1884年広西台州匪王金満の乱
  28. 反乱1886年海南黎匪乱
  29. 反乱1886年台湾蘇魯馬那邦叛番
  30. 皇后1888年懿旨により葉赫那拉氏(慈禧皇太后の姪、後の孝定景皇后)を皇后に立てた。
  31. 反乱1890–1896年四川瞻対番乱
  32. 反乱1890年雲南永北土司謀逆
  33. 反乱1890年雲南鎮康土族乱
  34. 反乱1890年安徽石埭会匪乱
  35. 反乱1890年台湾内山番社酋有敏の乱
  36. 反乱1891年雲南巧家蛮乱
  37. 反乱1891年熱河朝陽金丹道教乱
  38. 反乱1892年広東陽江匪乱
  39. 反乱1892年広西上林・賓州匪乱
  40. 反乱1892年台湾内山番社作乱
  41. 反乱1893年福建徳化匪乱
  42. 反乱1893年湖南醴陵匪乱
  43. 反乱1894年貴州普安匪乱
  44. 反乱1895–1896年甘粛河湟回民起義(第二次西北回変)
  45. 反乱1898年戊戌政変
  46. 反乱1899年甘粛海城回乱
  47. 反乱1899年奉天錦州・広寧匪乱
  48. 皇太子1901年皇太子を廃する
  49. 反乱1902年広西・雲南辺境匪乱(皈朝)
  50. 反乱1903年雲南臨安匪乱
  51. 反乱1903–1904年広西覃志発匪乱
  52. 反乱1904–1905年広西新軍嘩変
  53. 反乱1905年四川犍為匪乱
  54. 反乱1905年貴州都匀匪乱
  55. 反乱1905年四川巴塘事変(鳳全遭難)
  56. 反乱1906年萍瀏醴起義
  57. 反乱1907年四川巴塘喇嘛乱(第二次)
  58. 反乱1907年安慶起義(徐錫麟の乱)
  59. 反乱1907年鎮南関起義
  60. 反乱1908年河口起義
  61. 反乱1908年広西巡防営叛乱

清の歴代皇帝

歴代12人の一覧
  1. 第1代ヌルハチ皇帝を名乗っていない1616–1626年

年表

清・中華帝国の時代を年表で見る

清が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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