世祖の人物データ
- 生年
- 895年
- 在位
- 951年2月24日〜954年12月
- 没年
- 954年12月60歳(数え年)長生き順同率39位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 睿宗北漢睿宗は世祖の子
- 呼び名
- 姓劉諱崇別名劉旻呼び名の見方
出典
- 在位
- 新五代史 東漢世家第十/資治通鑑 顕徳元年(考異)/資治通鑑考異/十国春秋 巻104 北漢世祖本紀/遼史 巻六 穆宗紀上(応暦五年)
- 死因
- 新五代史 巻70(東漢世家)/十国春秋 巻104(北漢一・
世祖本紀) - 即位経路
- 十国春秋 巻104(北漢一・
世祖本紀)
生涯
どんな皇帝か
十国春秋の論は劉氏の祀りを絶やすまいとした志を悲しみ、旧五代史の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は身の程を知らないと評する。
即位まで
治世と最期
張元徽らに、わたしが何の天子か、お前たちも何の節度使地方の軍と政治をにぎった長官かと語り、年号を改めず宗廟君主や王家が祖先をまつるところも立てずに家人の礼で祭った。遼に宰相を送って甥皇帝と称して叔父として仕え、大漢神武皇帝に冊立正式な文書を授けて位につけることされた。土地がやせ民は貧しいうえ、契丹への貢ぎで賦役税と、国に課される力仕事が重く、後周の領内へ逃げ込む民が多かった。同じ年の冬、遼の援兵を得て晋州を攻めたが落とせず、大雪で食に乏しくなり、周の援軍が来ると聞いて営を焼いて退いた。霍邑で追撃されて崖や谷に落ちて死ぬ者が多く、これで進攻の意をやめた。
954年、後周太祖の死を聞くと喜んで契丹に兵を乞い、潞州を攻めた。高平で周軍が少ないのを見ると、契丹を呼んだのを悔い、慎重を説く契丹の将の楊袞を退けた。南風で不利だと王得中が諫めても、老いぼれ書生と罵って軍を進め、大敗した。楊袞は戦わずに兵を全うして退いた。劉旻は契丹から贈られた黄騮に乗って逃げ、道を誤った案内の村民を殺した。帰ると黄騮を自在将軍と呼んで厚く養った。
敗戦と包囲の憂いから病となり、954年の冬に没した。
史料について
周軍が少ないのを見て悔いたのは資治通鑑にある。案内人を殺したことを、新五代史は書かない。冊立の号を、旧五代史は英武皇帝とする。没した年を、新五代史・遼史・旧五代史は955年とし、資治通鑑と十国春秋は954年の冬とする。十国春秋の注は、954年を北漢の旧臣の記録によるとする。
世祖とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
951–954年の地図に、世祖が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征2・皇后1
- 皇后951年7月皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。951年11月〜952年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 951年12月)後周(晋州)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。954年3月〜954年7月後周(潞州・
高平・ 太原) - 反乱954年6月代州の桑珪による離反・
後周への投降
北漢の歴代皇帝
歴代4人の一覧- 第1代世祖951–954年病死
- 第2代睿宗954–968年病死
- 第3代劉継恩968年暗殺
- 第4代英武帝968–979年病死
年表
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