世祖・劉崇
北漢(五代十国)|在位 951–954年
- 諱(本名)
- 劉崇(劉旻)
- 在位
- 951–954年
- 在位期間
- 3年270日365名中203位タイ
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 57歳(数え年)172名中・若い順166位タイ
- 没年齢
- 60歳(数え年)269名中・長寿順39位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
後漢滅亡(郭威のクーデター)を受け、後漢の年号「乾祐」を継続使用しつつ951年正月太原で自立即位。後漢からの正式な禅譲・継承手続きはなく事実上の新規建国。契丹には「侄皇帝」として臣従。
出典: 十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)
死因の経緯
高平の戦い(954年)敗北後、後周軍に太原を包囲され「以憂得疾」。翌年11月に病没。
出典: 新五代史 巻70(東漢世家)/十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
十国春秋巻104世祖本紀「干祐四年春正月戊寅帝即位於晋陽,仍用干祐年号」、新五代史巻70東漢世家「乃以周廣順元年正月戊寅即皇帝位於太原...故其僭號仍稱乾祐,不改元,不立宗廟」と両史料が明記する通り、951年の即位時に後漢の元号「乾祐」をそのまま継続使用し改元しなかった。在位中(乾祐四年〜七年、951-954)の記事を月単位で追跡しても新元号への改元記事は一切なく、乾祐七年十一月の崩御まで一貫して乾祐年号のまま。次代睿宗(劉鈞)が乾祐十年を「天会元年」に改元したのは世祖没後の出来事であり別人物のためカウント対象外。
大赦回数
十国春秋巻104世祖本紀は干祐四年(951)正月即位から干祐七年(954)十一月崩御まで月単位で詳細に記事を追っているが、「大赦」の語は世祖(劉旻)在位中の記事に一度も現れない。次代の睿宗(劉鈞)は天会元年(957)正月己丑朔に「大赦」を行っているが、これは世祖の治世ではなく除外。新五代史巻70東漢世家にも世祖の大赦記事なし。
立后回数
十国春秋・新五代史の両史料が同一事実(遼による冊后)を確認しており、これ以外に世祖在位中(951-954)の立后・再冊立の記事は見当たらない(十国春秋巻106列伝には世祖の皇后についての独立項目もなし、氏名不詳)。
皇太子廃立回数
十国春秋巻104・新五代史巻70とも、世祖(劉旻)在位中に皇太子・皇太弟等の法定推定継承者を立てた記述自体がなく(次子承鈞を「太原尹」「侍衛親軍都指揮使」に任じたのみで正式立太子の記録なし)、したがって廃立の記録も存在しない。なお隠帝期に高祖の養子として立てられ後漢の後継候補となった湘陰公劉贇(世祖の実子)は、世祖自身が皇帝に即位する前・後漢滅亡の過程で郭威(後周太祖)により降格・誅殺されたものであり、世祖自身による皇太子廃立行為ではないため計上しない。
親征回数
旧五代史/新五代史(東漢世家)を通読。952年の府州攻撃(折徳扆に敗北)は原文「明年,又攻府州」で世祖の主体性が曖昧だったため外部史料(百度百科「刘崇」条)で確認したところ「刘崇又遣军攻打府州」と将軍派遣であり世祖自身の親征ではないため計上除外。十国五代の統一戦争(対後周)であり反乱鎮圧・被反乱の対象外。
反乱鎮圧回数
在位中(951-954)、世祖の統治機構下(北漢領内)の節度使・将軍による離反・武装蜂起で世祖側が鎮圧を試みた記録は見当たらない。唯一該当しうる代州将桑珪の裏切り(954年、後周への投降)は世祖が対処する間もなく崩御しており(下記rebellionSufferedCount参照)、鎮圧行動自体が着手されていないため計上しない(未鎮圧のまま在位終了パターン)。対後周・契丹との戦争は対等勢力間の統一戦争・外征のため対象外。
被反乱回数
在位中(951-954)に世祖に対する反乱でこれ以外の事例は見当たらない(新五代史東漢世家を通読)。即位前の後漢隠帝弑逆(郭威によるクーデター)・湘陰公劉贇(実子)の降格誅殺は、世祖自身が皇帝に即位する前の出来事でありaccessionRoute領域のため対象外。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して太原が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
十国春秋巻104世祖本紀末尾に「帝生於唐干寧三年乙卯歳,年六十」「庙号世祖,在位凡四年」と明記。ただし唐乾寧三年(896)は本来丙辰の年で、干支「乙卯」(乾寧二年=895)と一年のずれがある自己矛盾があり(注に『晋阳見聞要録』は「乙卯生,卒年六十一」とし一字の衍字かと指摘)。deathAge=60(直接記載、954年11月没)を確定的な基準としてsui逆算すると生年は954-60+1=895となり、干支「乙卯」(895)と整合する一方「乾寧三年」ラベルの方が誤り(衍字)である可能性が高い。よってbirthDateは895年とし、accessionAge=951-895+1=57を採用(直接記載なし、deathAgeからの年号年差分による逆算)。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
立后951年6月遼(契丹)世宗が燕王述軋(蘇頁)・政事令高勲を遣わし、世祖(劉旻)を「大漢神武皇帝」に冊立すると同時に、その妃を皇后に冊立した。
遼(契丹)世宗が燕王述軋(蘇頁)・政事令高勲を遣わし、世祖(劉旻)を「大漢神武皇帝」に冊立すると同時に、その妃を皇后に冊立した。十国春秋「六月遼主遣燕王蘇頁、政事令髙勲...冊命帝為大漢神武皇帝,妃為皇后」、新五代史「兀欲遣燕王述軋、政事令髙勲以冊尊旻為大漢神武皇帝,並冊旻妻為皇后」と両史料が一致して記す。遼(宗主国)による冊封という形式だが、明確に「皇后」として正式冊立されたと記録されている。妃の氏名は原典に記載なし。
出典: 十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)干祐四年六月条/新五代史 巻70(東漢世家)
親征951年10月〜951年12月後周(晋州)
対象: 後周(晋州)
結果: 落城させられず撤退(敗北)
契丹の援軍(耶律述律が派遣した蕭禹厥率兵五万)と合流し、世祖自ら阴地関を出て晋州を攻撃(旧五代史系新五代史「旻出阴地攻晋州」)。大寒により軍が凍餒し兵の半数以上を失い、後周の王峻率いる援軍接近の報を受け営を焼いて撤退した。なお951年2月にも次子劉承鈞が兵を率いて晋州を攻めた別件があるが、それは世祖自身の親征ではないため計上対象外(WebSearchで確認: 百度百科「北汉」条・中国民族史)。
親征954年1月〜954年6月後周(潞州・高平・太原)
対象: 後周(潞州・高平・太原)
結果: 大敗(高平の戦い)、辛うじて太原に逃げ帰り包囲されるも後周軍が撤退
後周太祖(郭威)崩御の報を受け、契丹の援軍(楊袞の鉄馬万騎等)と合流し「自将騎兵三万攻潞州」と明記され自ら騎兵3万を率いて潞州を攻撃。後周世宗が親征し954年3月に高平で交戦、北漢軍は大敗(張元徽戦死)、世祖は契丹の黄騮に単騎乗り間道を逃走。その後後周軍に太原を4〜6月包囲されたが、後周軍が忻口で契丹に敗れたため世宗は撤退した。潞州侵攻から太原籠城までを同一の対後周軍事行動の一連とみなし1回とした。
被反乱954年5月代州の桑珪による離反・後周への投降
首謀者: 桑珪(代州将)
結果: 鎮圧されず(代州は後周領となり、世祖の在位終了(崩御,954年11月)まで奪還されなかった)
後周軍による太原包囲(954年4-6月)の最中、世祖が契丹への援軍要請の使者(王得中)を代州経由で送った際、代州将桑珪が防御使鄭処謙を殺害し代州城を挙げて後周に投降、王得中も後周に送られた。世祖の統治機構下にある地方将による武装離反であり、規模を問わず計上基準に該当。世祖は間もなく病を得て翌年(955年)11月に没しており、対処(鎮圧)の記録が全くないため未鎮圧のまま在位終了と判断。日付は太原包囲期間(4-6月)内での出来事だが原文に月の特定記載がなく5月と推定。