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殷帝の肖像画

閩(五代十国)第7代

殷帝王延政

在位 943–945年(2年210日)943年3月 〜 945年10月2日

日本は平安時代

閩の王審知の子で、兄の王曦と争って建州で殷を建てて帝を称し、南唐に降った皇帝である。

殷帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 943年3月〜945年10月2日
2年210日長い順240位/365人即位の年齢は不詳
没年
不詳
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓王諱延政呼び名の見方

出典

在位
新五代史 閩世家第八/資治通鑑 巻二百八十三(即位)・巻二百八十五(終了)
死因
十国春秋 巻九十八(閩天徳帝本紀)/巻九十七(李家明伝)
即位経路
新五代史 巻六十八(閩世家第八)

生涯

どんな皇帝か

資治通鑑と十国春秋の楊思恭伝によれば、取り立てのうまさで寵愛された楊思恭が田畑の税を増し、魚や塩まで倍に取り立てたので、人々は楊の皮剥ぎと呼んだ。

即位まで

閩の王審知の子で、兄の曦が立って淫虐になると、建州から書を送って諫めた。曦はを送り込み、監軍が延政の隠し事を告げて兄弟の疑いが積もり、監軍に謀反を咎められた延政は兵を出して南鎮を破った。940年、曦の兵が建州を攻めると、決死の兵に夜に川を渡らせて敵陣を焼かせ、2城を取った。南唐の仲立ちで兄と盟約を結んだが、疑いと恨みはもとのままだった。941年、兄の使者に傲慢に応じたのを潘承祐がひざまずいて諫めると、怒って左右に判官の肉は食えるかと言った。承祐は義を抱いて死ぬほうがよいと応じ、しばらくして怒りは解けた。

史料について

承祐の応答と怒りが解けたことは十国春秋の潘承祐伝にあり、資治通鑑はその後を書かない。

治世と最期

943年、建州で皇帝を称して国号を殷とした。取り立てのうまさで寵愛された楊思恭が田畑の税を増し、魚や塩まで倍に取り立てたので、人々は楊の皮剥ぎと呼んだ。これを含む十か条をした潘承祐は、を削られた。

944年、曦が殺されて朱文進が立つと、泉州・漳州・汀州が延政に帰した。同じ年の暮れ、唐の大軍が助けに来たと偽って福州に告げさせると、福州では連重遇と朱文進が殺された。945年、旧臣に福州へ迎えられようとしたが、南唐の兵が迫っていたので甥の継昌を置いた。継昌が殺されると、加わった黄仁諷の一家を滅ぼした。同じ年、福州からの援兵に謀反の企てがあると聞くと、武装を解いて帰らせ、伏兵で8千余人を殺し、その肉を干し肉にして持ち帰り食糧にした。

945年、南唐に建州を落とされて降り、金陵に移されて鄱陽王などに封じられた。宴で賜り物を惜しむと、に大殷の平天冠はもう無用だから芸人の衣装にもらいたいとからかわれて黙り込み、それから鬱々として病で没した。

史料について

福州に偽って告げさせたのを、資治通鑑と十国春秋は殷の将の呉成義とし、新五代史の南唐世家と馬令の南唐書は延政とする。国号を、資治通鑑と十国春秋の天徳帝は大殷とする。降った年を、新五代史は946年とする。平天冠の話は十国春秋・馬令の南唐書・江南野史にあり、新五代史と資治通鑑は死の年月も死因も記さない。

五代十国の勢力図(943年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

943–944年の地図に、殷帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元1
  1. 改元943年2月元号を「天徳」とする
  2. 皇后943年2月皇后を立てる
  3. 反乱945年李仁達の福州離反

閩の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第1代王潮皇帝を名乗っていない893頃–898年
  2. 第2代王審知皇帝を名乗っていない898–925年
  3. 第3代王延翰皇帝を名乗っていない925–927年

年表

五代十国の時代を年表で見る

閩が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

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