中国皇帝統計

殷帝・王延政

閩(五代十国)|在位 943–945年

殷帝・王延政の肖像
諱(本名)
王延政
在位
943–945年
在位期間
2年210日365名中243位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

兄・景宗(王延羲)の暴政に抗して建州で独立、皇帝を称し国号「殷」。

出典: 新五代史 巻六十八(閩世家第八)

死因の経緯

建州陥落・南唐へ降伏後、南唐から羽林大将軍を拝命、のち安化軍節度使・鄱陽王、さらに光山王へと改封される厚遇を受けたが、旧臣に皮肉を言われて不快がる等の逸話が残り、鬱屈のうちに発病して「未幾薨」。刑死・暗殺を示す記述はなく、贈位(福王・諡恭懿)も受けている。

出典: 十国春秋 巻九十八(閩天徳帝本紀)/巻九十七(李家明伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

殷帝期(943年正月〜945年正月)・閩帝期(945年正月〜945年8月建州陥落)を通算しても改元は「天徳」建元の1回のみ。新五代史・閩世家第八(巻六十八相当)の記述「延政乃以建州建國稱殷、改元天德」も同内容で、以後の改元記事は同世家中に存在せず整合する。なお本調査で参照した現地コーパス(daizhigev20所収『十国春秋』)では景宗本紀・天徳帝本紀とも巻九十二(連続する巻頭・巻末マーカーで確認)に収録されており、既存の死因調査ソースにある「巻九十八」という巻番号とは異なる(版本間の巻割り相違の可能性。データセット既存のverification.notesにも同じ巻九十二からの引用があり、本調査の巻番号はそれと整合する)。また即位月について、データセット既存noteには『永隆5年2月』とあるが、原典(景宗本紀・天徳帝本紀とも)は明確に「春正月」であり、2月ではなく正月が正しいとみられる(この点は既存verification.notesでも『不一致あり要継続確認』と指摘されていた箇所で、本調査により正月説を支持する結果となった)。

大赦回数

『十国春秋』巻九十二(閩三・天徳帝本紀、天徳元年〜三年〔943-945年〕の全記事)を通読したが「赦」の字を含む記事は皇后立后記事直前の「立皇后張氏」等にも見られず、大赦・特赦を示す記述は一切なかった。新五代史・閩世家の該当箇所(延政関連段落)にも同様の記載なし。在位期間(943年正月即位〜945年8月建州陥落)はほぼ全期間が兄・景宗および閩内乱・南唐との交戦に費やされており、大赦を布告する余裕がなかった可能性が高い。史料の欠落ではなく実際に大赦が行われなかった蓋然性が高いためcount=0とするが、断片的な地方政権の記録であるため確度はmediumとした。

立后回数

本紀と列伝(后妃伝)の双方で同一の立后記事(天徳元年=即位年、張氏立后)が確認でき、内容も整合している。再冊立や皇后交代を示す記述はなし。

皇太子廃立回数

『十国春秋』巻九十二(天徳帝本紀)および巻九十四(閩五・列伝、天徳帝の子「継沂」条)を確認したが、延政が皇太子(または皇太弟・皇太孫)を立てたとする記述自体が存在しない。子の継沂は単に「天徳帝子継沂」と記されるのみで冊立の記事はなく、当然その廃立の記事もない。新五代史・閩世家にも立太子・廃太子の記述なし。在位期間がわずか約2年半(943年正月〜945年8月)で終始戦乱下にあったため、そもそも立太子の余裕がなかったと考えられる。

親征回数

史料キャッシュ(新五代史・閩世家)を確認したが、延政が皇帝在位中(943年正月建国〜945年建州陥落)に自ら軍を率いて出陣したという記述はない。兄・景宗(曦)との抗争は建国前(即位前)の出来事のためaccessionRoute領域として対象外。南唐の侵攻に対しても『延政遣其従子継昌守福州』と従子・継昌を派遣したのみで親征の記述なし。

反乱鎮圧回数

在位中、延政政権側が主体となって鎮圧に成功した反乱の記述は史料キャッシュ中に見当たらない。唯一該当しうる福州将・李仁達の離反(従子継昌殺害・自立)も、鎮圧着手前に建州が南唐に攻略され延政が降伏・政権崩壊したため未鎮圧のまま在位終了(rebellionSufferedCountのみに計上)。泉州・漳州・汀州の守将が延政側へ帰順した動きは反乱鎮圧ではなく帰服にあたるため計上しない。

被反乱回数

延政在位中(943年正月〜945年建州陥落)に延政自身の統治下にあった将による離反は、福州将・李仁達による従子継昌殺害・自立の1件のみ確認できた。朱文進・連重遇による景宗(曦)弑逆・自立の一連の抗争は延政政権に対してではなく別途福州で成立していた別政権内部の出来事(むしろ最終的に延政側へ帰順する結果となった)であり、延政個人に対する反乱ではないため計上しない。

遷都回数

十国春秋を通読。福州が一貫した都(王延政の建州「大殷」は分立政権の拠点で、復国後の福州は陪都「南都」扱いにとどまり正式な主都遷移は完了せず)。

即位時年齢・没年齢

調査済みだが不明。史料キャッシュ(新五代史・閩世家)および既存deathCause.note引用の『十国春秋』いずれにも生年・没年・享年(『時年◯◯』等)の直接記載がなく、逆算に使える年号年ラベルの対応も確認できない。南唐降伏後に光山王へ改封され『未幾薨』とのみ記され、具体的な薨去年は明記されていない。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元943年1月永隆五年(943年)正月、建州節度使・富沙王であった王延政が兄・景宗(王延羲)と対立して建州で自立し、皇帝を称して国号を「大殷」、年号を「天徳」と改元(建元)。

永隆五年(943年)正月、建州節度使・富沙王であった王延政が兄・景宗(王延羲)と対立して建州で自立し、皇帝を称して国号を「大殷」、年号を「天徳」と改元(建元)。景宗本紀「永隆五年春正月、富沙王延政稱帝、改元、國號殷」、天徳帝本紀「延政以建州開國自立爲帝、國號曰大殷、改永隆五年爲天德元年」の両記事で確認。それまで富沙王(藩鎮の節度使・親王待遇)として景宗の元号「永隆」をそのまま使用しており、独自の建元は行っていないため【皇帝即位前】の改元は0回。この1回のみが【皇帝即位(改元同時)】に該当する。天徳三年(945年)正月に国号を「殷」から「閩」に戻した記事(「復國號曰閩」)があるが、これは国号変更のみで年号「天徳」はそのまま継続使用されており、改元には該当しない(本紀・新五代史閩世家いずれにも天徳以外の元号への切替の記載なし)。したがって在位中(殷・閩通算)の改元は天徳建元の1回のみ。

出典: 十国春秋 巻九十二(閩三・景宗本紀/天徳帝本紀)

立后943年1月永隆五年(943年)正月、富沙王延政が建州で自立して皇帝を称し(国号「大殷」、年号「天徳」)た際、旧富沙王妃の張氏を皇后に立てた。

永隆五年(943年)正月、富沙王延政が建州で自立して皇帝を称し(国号「大殷」、年号「天徳」)た際、旧富沙王妃の張氏を皇后に立てた。『十国春秋』天徳帝本紀「立皇后張氏」の記事、および同書列伝「天徳皇后張氏」条「天徳皇后張氏、故富沙王妃也、天徳元年富沙王称殷帝、立為皇后」により、即位に伴う立后であることが確認できる。他に立后・再冊立の記事はなく、皇后はこの張氏一人のみ。

出典: 十国春秋 巻九十二(閩三・天徳帝本紀)/巻九十四(閩五・列伝「天徳皇后張氏」)

被反乱945年李仁達の福州離反

首謀者: 李仁達

結果: 未鎮圧(延政政権崩壊まで鎮圧に至らず、李仁達はその後南唐に投降し威武軍節度使・弘義に任命された)

南唐が閩の内乱に乗じて建州を攻めた際、延政が福州守備を任せた従子・継昌に対し、福州将・李仁達が『富沙王(延政)不能自保、其能有此土也』と離反、継昌を捕らえて殺害し自立した。延政の統治機構下にあった将による離反・武装蜂起にあたるため計上。建州陥落・延政降伏により鎮圧されないまま終わったため、rebellionSuppressionCountには含めない(未鎮圧のまま在位終了パターン)。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。