睿宗・劉鈞
北漢(五代十国)|在位 954–968年

- 諱(本名)
- 劉鈞
- 在位
- 954–968年
- 在位期間
- 13年275日365名中96位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 29歳(数え年)172名中・若い順109位タイ
- 没年齢
- 43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
父・世祖が病篤となった際「命皇子承鈞監國」で事実上の摂政となり、世祖崩御後、契丹から「子皇帝」として正式に天子に冊立された(父の死去に伴う正統な世襲継承)。
出典: 十国春秋 巻104-105
死因の経緯
李筠の乱への援軍失敗後、契丹の信頼を失い国勢が窮迫、「憂瘁得疾」。天会12年7月崩御。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・睿宗本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
指示にあった『先代(世祖)の乾祐継続使用→睿宗代での初改元(天会)』というパターンを原典で確認できた。睿宗は即位時に新元号を建てず前代の乾祐をそのまま使用し続けたため即位時点はカウントせず、喪明け後の天会改元(957年)のみを1回としてカウントする。なお国号変更(大漢→…等)に該当する記述は睿宗代には見られない。
大赦回数
睿宗本紀(十国春秋巻105)通読範囲内で「大赦」の語が明記されるのはこの1回のみ。侯霸栄への個人的な「赦其罪」等は対象外。新五代史東漢世家(china-history収録)でも同一事実を確認。
立后回数
郭氏が睿宗の皇后であったことは列伝の体裁(「睿宗后郭氏」)や崩御時の記述から確実だが、冊立の具体的な日付・経緯を記す一次史料の記述が見つからなかったため確信度は中とした。廃后・再冊立を示す記述はない。
皇太子廃立回数
睿宗(劉鈞)は実子がなく、養子継恩・継元を育てたが、原典(十国春秋巻105睿宗本紀・巻106列伝、新五代史東漢世家)を通読した限り、両養子いずれについても「立…為皇太子」等の皇太子冊立の記述は見当たらない。継恩は「太原尹」に任じられているのみで、これは北漢における事実上の後継者ポストではあるが正式な皇太子ではない。したがって、廃立の対象となる皇太子は在位中に存在せず、廃立回数は0回。
親征回数
睿宗本紀(十国春秋巻105)・新五代史東漢世家を通読。在位中に皇帝自身が軍を率いて出陣した記録はこの団柏谷出兵(対宋・李筠の乱への呼応)1件のみ。
反乱鎮圧回数
rebellionSufferedCountと同一の理由(王隠・劉紹・趙鸞らの謀反計画は挙兵に至らず摘発のみで終了)により対象外。在位中に皇帝側が主体となって実際に鎮圧した挙兵・反乱の記録は本紀通読範囲内に見当たらない。
被反乱回数
在位中に確認できる唯一の内部動乱は天会五年(961年)の「宿衛殿直行首王隠・劉紹・趙鸞等謀作乱、事覚被誅」(十国春秋巻105)だが、原文の記述は「謀作乱」(謀反を計画)「事覚」(事が発覚)であり、実際の挙兵・兵力行使に至る前に摘発・処刑されたことを示している。指示にある「実際の兵力行使(挙兵)に至らず密告・摘発のみで終わった謀反計画は、鎮圧・被反乱いずれにも含めない」の基準に該当するため、鎮圧・被反乱いずれからも除外した。他に節度使・将軍等による挙兵・離反を示す記述は本紀通読範囲内に見当たらない。李筠の乱は北漢の服属民ではなく北宋の昭義節度使による対宋反乱であり、睿宗個人・北漢政権に対する反乱ではないため対象外。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して太原が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存データを再検証し採用。十国春秋巻104睿宗本紀に「以后唐天成元年丙戌生」(926年生)、契丹册命時「時年二十九也」、巻105に「天会十二年秋七月…遂殂…年四十三」と明記。没日は十国春秋「戊申」と遼史「辛丑」で干支が異なり日精度確定不可のため月精度。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元957年1月睿宗は世祖崩御後、当初は三年の喪に服し「仍称干祐不改元」(乾祐を継続使用し改元せず)で即位した(十国春秋巻105「時年二十九也、仍称干祐不改元」)。
睿宗は世祖崩御後、当初は三年の喪に服し「仍称干祐不改元」(乾祐を継続使用し改元せず)で即位した(十国春秋巻105「時年二十九也、仍称干祐不改元」)。喪が明けた乾祐九年(956年)冬に「明年(乾祐十年)を天会元年と改める」ことを決定し、天会元年(957年)正月己丑朔、独自の元号「天会」への改元を実施。これが睿宗代における唯一の改元(=実質的な建元)であり、即位時点では改元していないためカウント対象外、天会への切替のみを1回として計上した。新五代史東漢世家も「承鈞既立、始赦境内、改乾祐十年曰天会元年」として同じ改元を記録。睿宗の在位中に他の改元(天会からの再改元)は行われていない(次の広運改元は睿宗没後の養子継元=英武帝の代)。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・睿宗本紀)
大赦957年1月天会元年正月己丑朔、改元(乾祐→天会)と同時に「大赦」を実施。
天会元年正月己丑朔、改元(乾祐→天会)と同時に「大赦」を実施。新五代史も「承鈞既立、始赦境内、改乾祐十年曰天会元年」とし、改元と大赦が同一の措置であったことを裏付ける。在位中に確認できる全国規模の大赦はこの1回のみ。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・睿宗本紀)
親征960年北宋(昭義節度使・李筠の反宋挙兵を後援するための対宋出兵、団柏谷方面へ自ら親征)
対象: 北宋(昭義節度使・李筠の反宋挙兵を後援するための対宋出兵、団柏谷方面へ自ら親征)
結果: 承鈞自ら国兵を率いて団柏谷に出陣し太平駅まで進軍、李筠を隴西郡王に封じたが、李筠は契丹兵の使用を拒み単独で宋と戦って敗死したため、承鈞は成果なく撤退した
「承鈞即率其國兵自將出團柏谷」(十国春秋巻105)と明記され皇帝自身の親征と確認できる。なお同時期の他2件の軍事行動(契丹将高勲と共に李存瓌を上党攻撃に派遣/世宗北伐契丹への呼応で発兵しかけたが世宗班師で中止)はいずれも将軍派遣のみ、または実行前中止であり皇帝自身の親征に該当しないため計上対象外とした。
立后日付不詳十国春秋巻106列伝(北漢三)に「睿宗后郭氏」として独立の后妃伝が立てられ、睿宗の崩御後に養子継恩の後継者(英武帝継元)によって殺害される際も「后方縗服哭孝和帝於柩前」と皇后として扱われている。
十国春秋巻106列伝(北漢三)に「睿宗后郭氏」として独立の后妃伝が立てられ、睿宗の崩御後に養子継恩の後継者(英武帝継元)によって殺害される際も「后方縗服哭孝和帝於柩前」と皇后として扱われている。ただし冊立の儀礼・年月を明記する記述は原典に見当たらず、正確な立后時期は不明。もう一人の郭姫については「将册立為妃」(妃として冊立しようとしたが枢密使らの反対で中止)とあり、これは皇后ではなく妃号であり、かつ実現しなかったため立后回数には算入しない。
出典: 十国春秋 巻106(北漢三・列伝・睿宗后郭氏)