劉継恩
北漢(五代十国)|在位 968年
- 諱(本名)
- 劉継恩
- 在位
- 968年
- 在位期間
- 90日365名中344位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
世祖の外孫(実父・薛釗が世祖の娘を娶って生まれた)で睿宗に実子がなかったため養子とされていた。睿宗崩御後、正統な後継者として即位。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀)
死因の経緯
供奉官・侯霸栄が酒宴後に閣内に押し入り刺殺(在位わずか60余日)。動機は「少主の首級を宋に献上しようと謀った」とされるが、郭無為の指示との噂もあり真相は不明。郭無為は事件直後に侯霸栄一党を即座に殺害しており口封じの疑いを招いた。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀)/巻108(侯霸栄伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
劉継恩は天会十二年(968年)七月、養父承鈞(睿宗)の崩御を承けて「継恩告哀于契丹後嗣皇帝位(帝服縗裳視事)」の形で即位したが、改元は行わず終始「天会」(承鈞の建てた元号)を継続使用した。十国春秋巻105・英武帝(継元)本紀の冒頭に「継元当天会初…既襲位仍称天会不改元」とあり、継恩の後を襲った継元も同じく天会を継続したことが明記されており、継恩の在位期間(天会十二年七月~九月)を通じて改元がなかったことが裏付けられる。即位に伴う建元も行わず前代の元号をそのまま継続したケースであるためカウントしない。
大赦回数
劉継恩は天会十二年(968年)七月に嗣位してから同年九月己酉に供奉官侯霸栄に弑殺されるまで在位わずか60余日であり、十国春秋巻105少主本紀・新五代史巻70東漢世家・宋史太祖本紀のいずれにも継恩自身による大赦の記事は見えない(父承鈞の天会元年正月の大赦は継恩自身の在位期間外の出来事)。
立后回数
在位期間が短く(60余日)、皇后冊立の記事は十国春秋巻105少主本紀・新五代史巻70東漢世家・宋史のいずれにも見当たらない。継恩自身に皇后がいたとする記載も確認できない。
皇太子廃立回数
在位期間が短く(60余日)、皇太子等の冊立・廃立の記事は十国春秋巻105少主本紀・新五代史巻70東漢世家・宋史のいずれにも見当たらない。
親征回数
在位はわずか60余日(天会十二年七月〜九月)。十国春秋巻105少主本紀・新五代史巻70東漢世家・宋史巻482のいずれにも継恩自身が親征した記事は見当たらない。この間の対外事象は契丹への告哀のみで軍事行動は確認できない。
反乱鎮圧回数
供奉官・侯霸栄による弑逆(九月)は郭無為が事後に霸栄一党を殺害しているが、これは継恩がすでに殺害された後の事後処理であり、皇帝側(継恩自身)が主体となって在位中に鎮圧した反乱には該当しないためカウントしない(被反乱カウントの注記パターン4に対応、鎮圧側には計上せず)。
被反乱回数
供奉官侯霸栄による武装クーデター・弑逆1件のみ。皇帝側(継恩)が生前に鎮圧を主体的に行った事実はなく、崩御後に郭無為が事後処理として一党を殺害したのみのため、鎮圧回数(rebellionSuppressionCount=0)とは非対称(判定基準パターン4に合致)。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して太原が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
十国春秋巻105(北漢二・少主本紀)、新五代史巻70東漢世家、宋史巻482のいずれにも劉継恩の生年・没年齢(享年)の直接記載が見当たらない。在位はわずか60余日(天会十二年七月〜九月)で早世したが、具体的な年齢を示す史料が確認できないため調査済みだが不明とする。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱968年11月1日侯霸栄の弑逆
首謀者: 侯霸栄(供奉官)
結果: 継恩、閣中で刺殺される(在位終了・崩御)
十国春秋巻105(北漢二・少主本紀)・巻108(侯霸栄伝)。承鈞の旧臣で供奉官の侯霸栄が十余人を率いて武装のまま酒宴後の閣内に押し入り継恩を殺害。朝廷内の権力者による兵力を伴うクーデター・弑逆であり判定基準パターン4に該当。霸栄・その一党は事件直後に郭無為の指示で殺害された(継恩死後の事後処理のため鎮圧回数には計上しない)。