英武帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 968年10月〜979年6月3日
- 没年
- 992年1月25日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 991年12月18日)年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 劉継恩北漢英武帝は劉継恩の弟
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱継元呼び名の見方
出典
- 在位
- 新五代史 東漢世家第十/宋史 本紀四(太宗紀一)・
列傳二百四十一(北漢劉氏)/十國春秋 北漢世家(少主本紀・ 英武帝本紀)/續資治通鑑長編 巻九/遼史 校勘記 - 死因
- 宋史 巻482(北漢劉継元伝)/十国春秋 巻105(北漢二・
英武帝本紀) - 即位経路
- 十国春秋 巻105(北漢二・
少主本紀末尾)
生涯
どんな皇帝か
宋史の北漢世家と十国春秋は、性質が残忍で、意に逆らう臣下は必ず一族ごと滅ぼしたと記す。
即位まで
母は劉旻の娘で、何氏に再嫁して継元を生んだ。両親の死後、子の無い劉鈞の養子となった。968年、侯霸栄が兄の継恩を刺し殺すと、郭無為が侯霸栄を殺させ、継元を立てた。人々は、郭無為が仕組んで口を封じたと疑った。
治世と最期
養母の郭氏が妻を死なせたと疑い、即位すると范超に命じて、柩の前で哭していた郭氏を縊り殺させた。叔父たちを殺し、愚を装った銑だけが免れた。性質が残忍で、意に逆らう臣下は必ず一族ごと滅ぼした。
969年、宋の太祖が親征して太原を囲んだ。郭無為は慟哭して自刃しようとし、継元は手を取って上座に迎えた。その慟哭は人々を揺り動かそうとしたものだったが、守る意志はかえって固まった。宋軍が汾水をせき止めて太原城に水を注ぐと、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の衛徳貴が郭無為の帰順の企てを告げ、継元は郭無為を殺させた。
979年、宋の太宗の親征で太原を囲まれ、頼みの契丹の援軍も敗れた。継元が矢を百万本余り集めたと聞くと、太宗は我がための蓄えだと笑った。病の馬峰が担がれて入り、泣いて興亡を説くと、継元は降り、北漢は滅んだ。降ると、すぐ降りたかったが亡命者たちに阻まれたと述べた。宋では右衛上将軍近衛の軍の将軍の位(名誉の称号)・彭城郡公一つの郡を領地とする、高い爵位とされ、991年の暮れに没した。
史料について
叔父たちを、十国春秋は幽閉されて獄死し、あるいは殺されたとし、同書の伝は銑を殺された側にも入れる。郭無為の慟哭を、宋史の郭無為伝は親征の前に置く。衛徳貴が告げたのを、新五代史は異志とする。降伏を勧めたのを、宋史の楊業伝は楊業とする。
英武帝とつながる皇帝

勢力図
宋・
968–978年の地図に、英武帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后2・改元1
- 改元974年元号を「広運」とする
- 皇后日付不詳皇后を立てる
- 皇后日付不詳皇后を立てる
北漢の歴代皇帝
歴代4人の一覧- 第1代世祖951–954年病死
- 第2代睿宗954–968年病死
- 第3代劉継恩968年暗殺
- 第4代英武帝968–979年病死
年表
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