英武帝・劉継元
北漢(五代十国)|在位 968–979年
- 諱(本名)
- 劉継元
- 在位
- 968–979年
- 在位期間
- 10年275日365名中125位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
劉継恩暗殺後、宰相郭無為が世祖嫡孫(契丹抑留中の劉継文)擁立論を退け「継元の方が制御しやすい(易制)」との理由で継元擁立を強行した。継元本人の主体的な行為ではなく権臣主導の傀儡的即位。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀末尾)
死因の経緯
979年北宋へ降伏後、右衛上将軍・彭城郡公に封じられ厚遇された。淳化2年病を得て宋朝が医官を派遣したがまもなく病没。処刑・処断された事実はない。
出典: 宋史 巻482(北漢劉継元伝)/十国春秋 巻105(北漢二・英武帝本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
改元の回数自体(1回、天会→広運)は諸史料間で一致するが、その時期(即位と同時か、即位数年後か)について新五代史・宋史と十国春秋の間に明確な食い違いがあるため、confidenceはmediumとした。十国春秋は独自の金石資料考証によりこの点を修正しているが、新五代史・宋史側の記述(即位=改元)も正史本紀・列伝としての重みを持つため、確定的にはhighとしていない。
大赦回数
英武帝(継元)在位期間(天会十二年七月即位〜太平興国四年〔広運六年〕五月宋へ降伏)を扱う十国春秋巻105「英武帝本紀」全文および宋史巻482本伝を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらなかった。先代睿宗(承鈞)の天会元年正月の大赦は継元のものではないため対象外。
立后回数
十国春秋列伝に継元の后(先妻の追封皇后、および継室馬氏)についての明確な記載があるが、1件目は没後の追封であり厳密な意味での「正式冊立」(生前の冊立儀礼)に該当するか判断が分かれる可能性がある。また両件とも具体的な冊立年月日が特定できないためconfidenceはmediumとした。宋史巻482継元伝には皇后に関する明記はなし。
皇太子廃立回数
英武帝(継元)の治世において皮太子(皮太弟等を含む)が立てられた記録は十国春秋・宋史いずれにも見当たらず、廃立の事実も確認できない。北漢は郦六十一年と短命で、継元には子はSong降伏後に民ちた「三猪(守節)」一人のみ知られ、在位中に皮太子が存在した形跡はない。
親征回数
新五代史・東漢世家(継元本紀部分)を通読。継元自身の在位期間中、北宋の北征(969年・太祖親征、979年・太宗親征)はいずれも継元側が受ける立場で、継元は一貫して「閉城拒守」(城を閉じて防戦)に徹し、自ら軍を率いて出撃・遠征した記録は見当たらない。外征・親征に該当する事象なし。
反乱鎮圧回数
継元在位中、宰相郭無為が太祖皇帝からの降伏勧告の詔書に心動かされ自裁を図ろうとした一件があり、宦官衛徳貴がこれを「異志」(内通・降伏志向の疑い)ありとして継元に密告、継元は無為を縊殺させた。しかし無為が実際に兵を挙げた形跡はなく、密告・摘発のみで完結した謀反疑惑にとどまるため、指示された基準(実際の挙兵に至らない密告・摘発のみの謀反計画は鎮圧・被反乱いずれにも含めない)によりカウント対象外とした。他に継元の統治機構下での節度使・将軍等による武装離反の記録は原文に見当たらない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の郭無為事案を検討したが、実際の兵力行使(挙兵)に至らず密告・摘発と処刑のみで終わっているため、指示基準によりカウント対象外とした。継元自身の弑逆・廃位を狙った武装反乱・クーデターは原文に見当たらない(継元は最終的に北宋への降伏によって在位を終えており、五代十国に頻発する将軍・重臣による弑逆・廃位クーデターの被害者ではない)。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して太原が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
継元自身の「時年◯◯」「年◯◯」といった明示的な年齢記載は十国春秋(北漢本紀・列伝)、宋史(巻482継元伝)いずれにも見当たらなかった。没年月日は宋史太宗本紀(淳化二年十二月癸未条:「保康軍節度使劉継元卒、追封彭城郡王」)および十国春秋(「淳化中薨」)に明記されているが、生年・即位時年齢・崩御時年齢はいずれも原典未記載のため調査済みだが不明として確定する。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳【皇帝在位中】継元は天会十二年(睿宗嗣子・少主継恩が弑殺された年)七月に即位したが、当初は先代の年号「天会」をそのまま継続使用し改元しなかった(新五代史・十国春秋いずれも即位時点では改元と明記せず、十国春秋は明確に「既袭位、仍称天会、不改元」と記す)。
【皇帝在位中】継元は天会十二年(睿宗嗣子・少主継恩が弑殺された年)七月に即位したが、当初は先代の年号「天会」をそのまま継続使用し改元しなかった(新五代史・十国春秋いずれも即位時点では改元と明記せず、十国春秋は明確に「既袭位、仍称天会、不改元」と記す)。その後、天会十七年冬十二月に改元を決意し遼へ使者を送って禀告、翌春正月(広運元年正月)に正式に「広運」へ改元した。ただし新五代史(東漢世家第十)および宋史(巻482継元伝)は「継元立、改元曰広運」「継元既袭位、改元広運」とし、即位と同時に改元したと記しており、十国春秋の記述と食い違う。十国春秋巻105末尾の「論」は、この新五代史の説を明確に誤りとし、継元治世下に作られた同時代の金石資料(継颙定王碑文が「広運元年歳次甲戌九月丙午朔」と署す、李恽撰・天龍寺千佛楼碑銘が「広運二年歳次乙亥八月庚午朔」と署す等)を根拠に、天会十二年即位・広運元年(数年後)改元という年代を実証しており、本回答ではこの十国春秋の考証を採用した。いずれにせよ、確認できる改元事象は「天会→広運」の一度のみである。
出典: 十国春秋 巻105(北漢二・英武帝本紀・論)
立后日付不詳継元の先妻(新五代史は「段氏」と記す)は、継元がまだ即位前(睿宗〔孝和帝〕在位中、継元がまだ皇族の一員だった時期)に、睿宗の后・郭氏に些細な過失を咎められた後に病死した(継元はこれを郭氏による毒殺と疑っていたとされる)。
継元の先妻(新五代史は「段氏」と記す)は、継元がまだ即位前(睿宗〔孝和帝〕在位中、継元がまだ皇族の一員だった時期)に、睿宗の后・郭氏に些細な過失を咎められた後に病死した(継元はこれを郭氏による毒殺と疑っていたとされる)。継元は即位後、この亡き妻を皇后として追封した(十国春秋:「英武帝后氏、素与孝和后不相協、未幾以病薨。英武帝嗣位、追封為皇后」)。これは存命中の正式冊立ではなく没後の追諡(追封)であり、他の項目(生前の正式冊立)とは性質が異なる点に留意が必要。なお、即位後に継元は睿宗后・郭氏を殺害させている(別事案、皇后冊立とは無関係)。
出典: 十国春秋 巻106(北漢三・列伝・英武帝后氏〔馬氏〕)
立后日付不詳継室として馬氏(左僕射・馬峰の娘)を皇后に立てた(十国春秋:「継後馬氏、左僕射峰女也、不知所終」)。
継室として馬氏(左僕射・馬峰の娘)を皇后に立てた(十国春秋:「継後馬氏、左僕射峰女也、不知所終」)。在位中の存命の皇后としての冊立と考えられるが、具体的な冊立年月日は原典に記載がなく特定できない。その後の消息(廃后の有無等)も「不知所終」とされ不明。
出典: 十国春秋 巻106(北漢三・列伝・英武帝后氏〔馬氏〕)