中国皇帝統計

劉守光

桀燕(五代十国)|在位 911–914年

諱(本名)
劉守光
在位
911–914年
在位期間
2年162日365名中247位
即位経路
建国
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

父・劉仁恭配下の将であったが909年に父を幽閉して盧龍節度使の実権を簒奪、兄・劉守文も殺害して勢力を統一した後、911年8月に幽州で自ら「大燕皇帝」を称し国号「大燕」を建てた。既存の皇帝位からの継承ではなく自立による新規建国。

出典: 新五代史 巻39(劉守光伝)

死因の経緯

後唐(晋王李存勗)軍に幽州が陥落し捕縛、晋陽に連行され太廟に献じられた後、赦免を乞うも許されず妻とともに処刑された。実行主体は勝者側(晋王)であり征服者による公的処断のため処刑。

出典: 新五代史 巻39(劉守光伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

新五代史「守光遂以梁乾化元年八月自号大燕皇帝,改元曰応天」、旧五代史「八月甲子,幽州刘守光僭称大燕皇帝,年号応天」、資治通鑑「甲子,守光即皇帝位。国号大燕,改元応天」の三史料が一致して即位と同時の建元(応天)を記録している。それ以前に劉守光が独自の年号を制定した記録はなく、燕王・尚父等の称号も他勢力からの授与によるものであるため、2段階即位パターンには該当しないと判断した。

大赦回数

新五代史巻39(劉守光伝)・旧五代史(巻・唐書荘宗紀該当箇所)・資治通鑑(巻267-269)を通読したが、劉守光の卢龍節度使時代・大燕皇帝在位時代(911年8月〜914年1月)を通じて「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらなかった。即位(911年8月)直後から晋軍に包囲され在位期間の大半を籠城戦に費やしており、大赦を行う余裕がなかった可能性が高い。他の五代十国君主(例:唐荘宗の同光元年即位時の大赦天下等)では原典に明記される一方、劉守光の記事には該当箇所が一切ないため、0回と判定した。

立后回数

劉守光の妻として李氏・祝氏の名が新五代史・旧五代史・資治通鑑いずれにも見えるが(捕縛時「守光与其妻李氏、祝氏」等)、いずれかを正式に「皇后」として冊立したとの記載は一切ない。資治通鑑の処刑場面でも両者は単に「其二妻李氏、祝氏」と記されるのみで「皇后」の称号は用いられていない。0回と判定。

皇太子廃立回数

劉守光の子として継珣・継方・継祚の名が新五代史・旧五代史に見えるが、いずれかを皇太子に立てたとする記載は見当たらない。即位から捕縛(913年11月頃)まで約2年余りしかなく、大半を晋軍との攻防戦に費やしていたため、立太子自体が行われなかった可能性が高い。廃立の記載も一切なし。0回と判定。

親征回数

911年8月の皇帝即位(大燕建国)以降、913年末の捕縛までの在位期間(約2年半)を通読。この間、劉守光は一貫して晋(周德威率いる晋軍・鎮州王鎔・定州王処直の連合軍)に幽州を包囲される守勢に終始しており、自ら軍を率いて出撃した記録は見当たらない(籠城の末に降伏)。即位前(909〜911年、父仁恭幽閉・兄守文討伐・趙救援拒否等)の軍事行動はaccessionRoute領域として対象外とした。0回と判定。

反乱鎮圧回数

在位期間(911年8月〜913年末)を通読したが、劉守光配下の節度使・将軍による独立した武装蜂起・離反の記録は見当たらない。在位末期に嬖臣・李小喜が晋軍に投降した記事があるが、これは籠城戦下での個人の寝返り・逃亡であり、独立した蜂起地点を伴う反乱には該当しないため計上しなかった。晋(周德威・晋王)との戦争は対等な独立勢力間の統一戦争にあたり、対象外。0回と判定。

被反乱回数

在位期間(911年8月〜913年末)を通読したが、劉守光自身の統治機構下の節度使・将軍等による独立した武装蜂起は見当たらない。李小喜の晋軍への投降(籠城末期)は寝返り・逃亡であり独立した蜂起とは言えないため対象外とした。晋・鎮・定連合軍による包囲・攻撃は対等な独立勢力(十国型政権)による対外戦争であり、rebellionSufferedCountの対象外(服属民の反乱ではない)。0回と判定。

遷都回数

新五代史劉守光伝を通読。本拠は幽州のみ、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

新五代史巻39(劉守光伝)を通読したが、劉守光自身の生年・没年齢について「時年◯◯」等の直接記載は見当たらなかった。死亡日(914年2月16日)は既存のdeathCause/reignsデータと一致するが、生年不明のため即位時年齢・没年齢とも算出不可。調査済みだが不明として確定する。

在位中の出来事(1件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元911年9月8日【皇帝即位(改元同時)】天祐八年八月甲子(梁乾化元年八月)、劉守光は幽州にて自ら「大燕皇帝」を称し、国号を「大燕」、年号を「応天」と定めた(建元)。

【皇帝即位(改元同時)】天祐八年八月甲子(梁乾化元年八月)、劉守光は幽州にて自ら「大燕皇帝」を称し、国号を「大燕」、年号を「応天」と定めた(建元)。それ以前、卢龍節度使・河間郡王・燕王・尚書令尚父などの称号は各王朝(唐・後梁・晋)から与えられた官爵であり、劉守光自身が独自の年号を制定した形跡はない(唐の天祐年号を引き続き用いていたとみられる)ため、この即位に伴う建元のみを1回とカウントした。国号「大燕」の制定自体は改元ではないため区別している。

出典: 新五代史 巻39(雑伝第三十九・劉守光伝)/旧五代史(唐書・荘宗紀)/資治通鑑 巻267

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。