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桀燕(五代十国)第1代

劉守光

在位 911–913年(2年118日)911年9月8日 〜 914年1月4日 ( 913年12月6日まで)

日本は平安時代

幽州の劉仁恭の子で、父を幽閉して燕の地を奪い、大燕皇帝を名のった人物である。

劉守光の人物データ

生年
不詳
在位
  • 燕王909年〜911年
  • 皇帝911年9月8日〜914年1月4日 913年12月6日まで
2年118日長い順247位/365人皇帝になった年齢は不詳913年に在位を終え、1年後の914年に没
没年
914年2月16日年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓劉諱守光呼び名の見方

出典

在位
新五代史 巻三十九 列傳第二十七(雜傳)/資治通鑑 巻二百六十八(乾化元年八月)・巻二百六十九(乾化四年正月)/旧五代史 巻二十八 唐書四 荘宗紀二(参照)
死因
新五代史 巻39(劉守光伝)
即位経路
新五代史 巻39(劉守光伝)

生涯

どんな皇帝か

旧五代史のは、天に逆らい道に背いたこと古来例がなく、刑に臨んでなお死を免れようとしたのは愚かさの甚だしいものだと評した。

即位まで

幽州の劉仁恭の子で、父の愛妾と通じて笞打たれ、追放された。907年、後梁の軍を撃退すると盧龍を称し、大安山にいた父を攻めさせて捕らえ、幽閉した。兄の劉守文が討ちに来ると、陣前でわが弟を殺すなと呼んだ兄を、将の元行欽が捕らえた。劉守光は兄を囚え、やがて殺した。鉄の籠に入れて火であぶるなどの刑を設けたので、燕の士人は他国へ逃れた。諸鎮をそそのかして自分を推させ、晋王李存勗らからに推された。尚父も人臣にすぎないと聞くと、わしが尚父なら誰が帝になるのかと怒った。を求めて庭に斧と処刑台を置き、諫める者は死と命じた。それでも諫めた孫鶴の肉を兵士に割いて食わせ、百日も経たずに大軍が来ると叫ぶ口を塞いで殺させた。911年、大燕皇帝を称し、元号を応天とした。

史料について

兄の死を、資治通鑑は劉守光が人にひそかに殺させ、罪を下手人に着せたとする。晋が尚父に推したのを、旧五代史の僭偽列伝はその悪を募らせるためとする。孫鶴の最期を、新五代史は塩漬けにさせたとし、旧五代史と資治通鑑は寸斬りにしたとする。

治世と最期

祝賀に来た晋の李承勲が臣と称さないので、怒って捕らえた。

翌年、晋は周徳威に3万を率いさせて燕を攻め、劉守光は戦うたびに敗れた。取りなしを頼むと、周徳威は、大燕皇帝はまだもしていないのになぜこうなったのかと突き放した。晋王が自ら幽州に臨むと、劉守光は降伏を口にしながら、寵臣の李小喜に止められて延ばし、その夜李小喜が寝返って、913年に城は破られた。

妻子を連れて逃げたが道に迷い、食を乞わせたところを捕らえられた。晋王に、主人はなぜそんなに急いで客を避けたのかとからかわれ、叩頭して死を請うた。914年、晋陽でに献じられた。処刑の前、降伏を止めたのは李小喜だと訴えると、呼び出された李小喜に、父を囚え兄を殺したのも私が教えたのかと叱りつけられ、晋王は李小喜を先に斬った。なおも命乞いすると、二人の妻は生きて何になろうと罵り、ともに死んだ。晋王は自ら臨んで劉守光を斬った。

史料について

李承勲を、新五代史と旧五代史の荘宗紀は殺したとし、旧五代史の僭偽列伝と李承勲伝、資治通鑑は囚えたとし、李承勲伝はのちに燕で没したとだけ書く。捕らえた後の宴を、旧五代史は父子が号泣して謝り晋王が慰めたとする。処刑の日を、旧五代史の荘宗紀は晋陽に着いた日とし、資治通鑑はその4日後とする。

五代十国の勢力図(911年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

911–912年の地図に、劉守光が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1
  1. 改元911年9月8日元号を「応天」とする

年表

五代十国の時代を年表で見る

桀燕が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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