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後蜀(五代十国)第2代

後主孟昶

在位 934–965年(30年166日)934年9月10日 〜 965年2月23日

日本は平安時代

蜀の孟知祥の第三子で、父の死後に位を継ぎ、宋に攻められて降った皇帝である。

後主の人物データ

生年
919年12月
在位
  • 934年9月10日〜965年2月23日
30年166日長い順23位/365人16歳で即位(数え年)
没年
965年7月12日47歳(数え年)長生き順同率92位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 高祖後蜀後主は高祖の子
次代
—
呼び名
姓孟諱昶呼び名の見方

出典

在位
資治通鑑 巻二百七十九 後唐紀八(清泰元年七月)/続資治通鑑長編 巻六(乾德三年正月)/宋史 巻二 太祖本紀二(乾德三年正月)
死因
宋史 巻479(世家二)/続資治通鑑長編 巻六
即位経路
新五代史 巻六十四(後蜀世家第四)

生涯

どんな皇帝か

十国春秋は、即位の初めは政務に励み性格は仁慈で柔弱だったが、中年からは奢侈を楽しんだと記し、その論は人の用い方を誤ったと結ぶ。

即位まで

孟知祥の第三子で、父が病むととなった。父の死は伏せられ、王処回と趙季良が昶を立ててから喪が発せられた。

治世と最期

即位して数か月で、専横の宿将の李仁罕を捕らえて殺し、一族を滅ぼした。と走馬を好み、のも行って良家の娘を後宮に集めたが、の韓保貞が強く諫めると、その日のうちに娘たちを出し、保貞に金を与えた。の官はから選べというに、なぜ人物を選べと言わないのかと嘆いたが、上書者を問いただすことは、唐の太宗の例を引いて止めた。

948年に張業を誅し、旧臣が去ると自ら政務を執り、朝堂に匭を置いて下々の声を通じさせた。955年、後周に攻められると、韓継勲では防げないと見て、自ら願い出た趙季札をとした。季札は急ぎ引き返して問われても何も答えられず、昶は怒って殺した。秦・成・階・鳳の四州は失われた。君臣は奢侈を競い、溺器まで七宝で飾った。母の李氏は、王昭遠らにを分け持たせることに反対し、父の旧臣の高彦儔に任せよと勧めたが、昶は従わなかった。

北漢と結ぶ密書が宋の手に渡り、宋の太祖は蜀討伐を命じた。昶は、父と自分とで四十年士を養ったのに一矢も放つ者がいないと嘆き、965年に降った。出兵から六十六日であった。宋の都に着いて秦国公とされ、七日で没した。母の李氏は昶が死ぬと哭さず、に殉じなかった子を責め、食を断って死んだ。

史料について

継勲を危ぶむ言葉を、新五代史は昶のものとし、資治通鑑は季札自身のものとし、十国春秋は両方を載せる。密書を、新五代史は使者の孫遇が辺吏に捕らえられたとし、宋史と十国春秋は使者の趙彦韜が宋に献じたとする。新五代史と宋史は死因を記さず、十国春秋に載るが病を言うだけである。確かめた史書に、毒殺とする記述は無い。

後主とつながる皇帝

五代十国の勢力図(934年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

934–964年の地図に、後主が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1・大赦4
  1. 935年母李氏を皇太后に尊号した同月に大赦を実施。
  2. 改元938年元号を「広政」とする
  3. 938年
  4. 952年六月乙酉朔の大雨・洪水により成都で延秋門が壊れ太廟四室・司天監も損壊。
  5. 956年後周軍が秦・鳳・階・成の四州を奪って撤退した後、大赦して当年の夏租を免除。

後蜀の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

五代十国の時代を年表で見る

後蜀が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

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