後主・孟昶
後蜀(五代十国)|在位 934–965年
- 諱(本名)
- 孟昶
- 在位
- 934–965年
- 在位期間
- 30年174日365名中23位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 諸説あり
- 即位時年齢
- 16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
- 没年齢
- 47歳(数え年)269名中・長寿順93位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
父知祥発病時に皇太子監国、知祥没後に趙季良らの主導で即位。
出典: 新五代史 巻六十四(後蜀世家第四)
死因の経緯
降伏後開封に護送され、乾徳3年6月甲辰に中書令・秦国公を拝命した数日後に急逝。正史(宋史世家・続資治通鑑長編)は「卒/薨」と記すのみで毒殺を明示しないが、あまりに急な死と、母李氏が「汝不能死社稷…吾今何用生為」と嘆いて食を断ち後を追うように死んだという記述から、宋朝による毒殺を疑う説が古来根強い。正史の中立的記述と毒殺通説が対立するため諸説ありとする。
出典: 宋史 巻479(世家二)/続資治通鑑長編 巻六
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中の改元は「明徳→広政」の1回のみ。即位時の明徳継続は改元としてカウントせず。新五代史(後蜀世家第四)にも「昶立、不改元、仍称明徳、至五年始改元曰広政」と同内容の記載があり整合(同書では「广政」が誤って「庆政」と表記されている異同あり)。
大赦回数
十国春秋 后主本紀(後蜀二)本文中に「大赦」と明記された4例のみを採用。周主が広政十八年末に虜獲した蜀兵を「曲赦」した記事(後周側の恩赦であり後蜀の大赦ではない)、および乾徳三年の降表中の修辞的表現「布腹心恭聴赦宥」は対象外とした。新五代史(後蜀世家第四)には大赦の記載なし。
立后回数
十国春秋 巻五十(后蜀三・列伝目次および本文)には「后主妃張氏(太華)」「慧妃徐氏(花蕋夫人)」の記載があるのみで、いずれも妃・貴妃・慧妃の号にとどまり、皇后として正式に冊立された記録はない(父・高祖孟知祥には皇后李氏があるのと対照的)。新五代史・宋史にも孟昶の皇后冊立の記載なし。
皇太子廃立回数
広政二十五年(962年)正月、秦王玄喆(喆)を立てて皇太子とした(十国春秋・新五代史ともに一致)。以後、後蜀滅亡(広政二十八年=乾徳三年=965年)まで廃立の記録はなく、孟昶に伴い降宋した後は兗州節度使に任じられている。皇太子の廃立は確認されない。
親征回数
新五代史 後蜀世家(王衍・孟氏世家系列本紀相当部)を通読。在位中の軍事行動(対後漢の趙思綰・王景崇支援、対後周世宗の侵攻迎撃、対北宋の亡国戦)はいずれも張虔釗・何建・李廷珪・高彦儔・王昭遠ら将帥の派遣によるもので、孟昶自身が親征した記録はない。
反乱鎮圧回数
李仁罕(即位数月後に誅殺・族滅)、張業(広政十一年、安思謙と謀り執殺)、安思謙(張業誅殺後に王藻と謀り執殺)はいずれも権勢を誇った重臣・将領に対する宮廷内の逮捕・粛清であり、原文は「昶惧其反」(反乱を恐れて先手を打った)と記すのみで、実際に兵を挙げた形跡がない。皇帝側が反乱がまだ起きていない段階で先制的に排除したケースにあたるため、鎮圧・被反乱いずれにも計上しない(除外パターン3)。趙思綰・王景崇の反乱は対等勢力(後漢)に対するものであり孟昶の統治機構下の反乱ではないため対象外。
被反乱回数
孟昶自身に対して兵力を伴う反乱・クーデターが起こされた記録は原文中に見当たらない。李仁罕・張業・安思謙はいずれも粛清された側であり、彼らが実際に挙兵した形跡はない(「反」の語は本人の意図として使われず、昶が「其反を惧れた」という先制的表現のみ)。国滅亡時の投降も外部からの征服戦であり反乱ではない。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して成都が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
十国春秋 巻四十九(后蜀二・后主本紀)「母貴妃李氏以天祐十六年十一月生仁贊於太原」。同「丁卯昶於柩前嗣皇帝位時年十六【錦里耆旧傳作年十四非】」(即位時16歳)。同末尾「越七日後主薨…年四十有七」(崩御時47歳、宋・乾徳三年〔965年〕六月)。宋史本紀(巻2)に「六月…庚戌、孟昶薨」とあり崩御の干支日が判明。既存データを再検証のうえ踏襲。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳【皇帝在位中】孟昶は明徳元年(934年)七月に父・高祖孟知祥の柩前で即位したが、その際は改元せず先代の元号「明徳」をそのまま継続使用したため建元としてカウントしない(十国春秋「丁卯昶於柩前嗣皇帝位…不改元仍称明徳」)。
【皇帝在位中】孟昶は明徳元年(934年)七月に父・高祖孟知祥の柩前で即位したが、その際は改元せず先代の元号「明徳」をそのまま継続使用したため建元としてカウントしない(十国春秋「丁卯昶於柩前嗣皇帝位…不改元仍称明徳」)。明徳四年十二月戊申、大赦とあわせて翌年から新元号「広政」に改めることを布告し、明徳五年が広政元年となった。以後、広政は後蜀滅亡(広政二十八年=965年)まで一度も改元されず継続使用された。孟昶は即位当初から一貫して皇帝であり、皇帝即位前に王等の身分で在位した期間はないため2段階即位パターンには該当しない。
出典: 十国春秋 巻四十九(后蜀二・后主本紀)
大赦日付不詳母李氏を皇太后に尊号した同月に大赦を実施。
出典: 十国春秋 巻四十九(后蜀二・后主本紀)
大赦日付不詳帝が耀兵太廟した際に大赦し、あわせて翌年(明徳五年)より新元号「広政」に改めることを布告(改元と同時の大赦)。
出典: 十国春秋 巻四十九(后蜀二・后主本紀)
大赦日付不詳六月乙酉朔の大雨・洪水により成都で延秋門が壊れ太廟四室・司天監も損壊。
六月乙酉朔の大雨・洪水により成都で延秋門が壊れ太廟四室・司天監も損壊。被災救済のため境内に大赦を実施(大赦境内賑水災之家)。
出典: 十国春秋 巻四十九(后蜀二・后主本紀)
大赦日付不詳後周軍が秦・鳳・階・成の四州を奪って撤退した後、大赦して当年の夏租を免除。
出典: 十国春秋 巻四十九(后蜀二・后主本紀)