烈祖・李昪
南唐(五代十国)|在位 937–943年
- 諱(本名)
- 李昪
- 在位
- 937–943年
- 在位期間
- 5年125日365名中184位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 56歳(数え年)269名中・長寿順51位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
呉の楊溥から譲位を受け即位、国号「斉」→のち「唐」。
出典: 新五代史(南唐世家)
死因の経緯
不老長寿を求めて服用していた金石薬(丹薬)の中毒により発病・崩御。臨終の際、本人が息子の李璟に「吾服金石欲延年,反以速死,汝宜視以爲戒」と直接語っており丹薬中毒死であることが原典で明確に裏付けられる。自己服薬による中毒のため広義の病死に分類。
出典: 陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀)・巻十六(萧俨伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位7年間を通じて『升元』の元号のみを使用。升元三年に国号を『斉』から『唐』へ改めた出来事があるが、これは国号変更であり改元(年号変更)ではないため本カウントには含めない。
大赦回数
升元四年十月壬寅(斉王璟が皇太子号を辞退した際)にも恩赦が行われたが、『陸游南唐書』『十国春秋』は「赦殊死以下」(死罪以下に限定した恩赦)と明記する一方、『資治通鑑』巻二百八十二は同一の出来事を単に「大赦」と記しており出典間で表現が食い違う。南唐専門史書(陸游本・十国春秋)の記述を優先し本カウントには算入していない。この事件を「大赦」とみなす場合はamnestyCountは3となる可能性がある。
立后回数
在位中に皇后の廃后・再冊立を示す記述は確認されず、宋皇后が終始一貫して皇后の地位にあったとみられる。
皇太子廃立回数
本人(李璟)が自ら固辞し烈祖がそれを許可した形の皇太子号撤回であり、烈祖側からの懲罰的な廃立ではない点に留意(『資治通鑑』は「固辞太子」「唐主許之」と記す)。ただし結果として法定推定継承者としての正式な地位が失われた事実が原典に明記されているため、字義通り「皇太子廃立」1回としてカウントした。
親征回数
新五代史(南唐世家)を通読。在位中(937〜943年)に烈祖自身が軍を率いて出征した記録はない。升元四年(940年)に後晋の安州節度使李金全が晋に叛き南唐に帰順を求めた際、烈祖は鄂州屯営使李承裕を派遣して迎えさせたが、これは将軍派遣であり皇帝自身の親征ではないため計上しない(李承裕軍は晋軍に大敗)。呉越国の火災(升元六年)に乗じて攻撃すべしとの群臣の進言も烈祖自身が拒否しており実行されていない。烈祖は「志在守吴旧地而已,无复经营之略也」(呉の旧領を守るのみで拡張の意図なし)と記され、対外拡張策を取らなかった人物として一貫している。
反乱鎮圧回数
新五代史(南唐世家)を通読。在位中(937〜943年)に南唐の統治機構下にある節度使・将軍等による離反・武装蜂起の記録は見当たらない。呉臨江王楊濛の廃位・処刑(歴陽公に廃されたのち逃亡し捕縛・誅殺)は、烈祖が正式に皇帝へ禅譲される前段階(「及昪将谋篡国」)の出来事であり、accessionRoute領域として在位中の反乱鎮圧には含めない。李金全の叛(後晋に対する叛乱で南唐に帰順を求めた事案)は南唐(烈祖)に対する反乱ではなく他国(後晋)内部の離反であるため対象外。
被反乱回数
新五代史(南唐世家)を通読。在位中(937〜943年)に烈祖自身に対して起こされた反乱・クーデター・弑逆未遂等の記録は見当たらない。徐知訓による暗殺未遂は烈祖がまだ呉に仕える臣下の身分だった時期の出来事であり、皇帝在位期間外のため対象外。楊濛の一件も即位(禅譲)前の簒奪過程の出来事でありaccessionRoute領域として除外する。
遷都回数
十国春秋を通読。建国時の金陵定都(対象外)、在位中の遷都なし。
即位時年齢・没年齢
既存データを再検証し維持。陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀)「帝以光啓四年十二月二日生於彭城」・「帝崩於升元殿,年五十六」、『十国春秋』巻十五にも同内容の記述があり生年月日・崩御時年齢とも高確度で確定。即位時年齢(升元元年十月即位)は原文に「時年◯◯」等の直接記載がなく、生年からの逆算では数え49〜50歳前後とぶれが生じるため、既存調査の判断(accessionAgeは不採用)を踏襲しnullのまま確定。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元937年10月升元元年(937年)十月甲申、呉帝楊溥から禅譲を受け皇帝に即位すると同時に、呉の天祚年号(三年)を改め「升元」に建元。
升元元年(937年)十月甲申、呉帝楊溥から禅譲を受け皇帝に即位すると同時に、呉の天祚年号(三年)を改め「升元」に建元。国号は当初「斉」(のち升元三年に「唐」へ改号)。皇帝即位に伴う最初の建元にあたる。在位中(937〜943年)は「升元」の元号を一貫して使用し続け、これ以外に改元の記録は見当たらない。
出典: 陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀);資治通鑑 巻二百八十一
大赦937年10月升元元年十月甲申、呉から禅譲を受け皇帝に即位すると同時に大赦を実施。
出典: 資治通鑑 巻二百八十一
立后937年10月皇帝即位直後の升元元年(937年)冬(十月〜十一月の間)、王后宋氏(後の元敬皇后)を皇后に冊立。
皇帝即位直後の升元元年(937年)冬(十月〜十一月の間)、王后宋氏(後の元敬皇后)を皇后に冊立。『陸游南唐書』は「乙未」、『資治通鑑』は「乙巳」とやや干支表記に差異があるが、いずれも即位と同じ月(升元元年十月)内の出来事として記録。
出典: 陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀);資治通鑑 巻二百八十一
大赦939年4月升元三年四月辛巳、南郊にて高祖神尧皇帝を配祀する郊祀の礼を行い、癸未(礼を終えた直後)に大赦。
升元三年四月辛巳、南郊にて高祖神尧皇帝を配祀する郊祀の礼を行い、癸未(礼を終えた直後)に大赦。『陸游南唐書』は「大赦」、『十国春秋』は「大赦境内」、『資治通鑑』も「大赦」と明記し複数史料で一致。
出典: 陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀);『十国春秋』巻十五(烈祖本紀);資治通鑑 巻二百八十二
皇太子廃立940年9月升元四年八月丁巳、斉王李璟(後の元宗)を皇太子に立てたが、璟自身が固辞。
升元四年八月丁巳、斉王李璟(後の元宗)を皇太子に立てたが、璟自身が固辞。『資治通鑑』巻二百八十二によれば九月乙丑、烈祖はこれを許可(許之)し、正式な皇太子号は撤回された(ただし「詔中外致牋如太子礼」として太子に準ずる礼遇は継続)。『陸游南唐書』『十国春秋』は同じ出来事を升元四年十月壬寅「以齐王璟让储位」として記す(日付は干支表記が資治通鑑と一致しない)。以後、崩御(升元七年二月)に至るまで璟は再び皇太子に立てられず、臨終の場面でも「齐王璟」と呼ばれ「太子」の称は用いられていない。
出典: 資治通鑑 巻二百八十二;陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀);『十国春秋』巻十五・十六(烈祖本紀・元宗本紀)