中国皇帝統計

高祖・孟知祥

後蜀(五代十国)|在位 934年

諱(本名)
孟知祥
在位
934年
在位期間
210日365名中320位タイ
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
61歳(数え年)172名中・若い順168位タイ
没年齢
61歳(数え年)269名中・長寿順33位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

後唐からの独立・董璋討滅を経て明宗崩御後に皇帝即位、国号「蜀」。

出典: 新五代史 巻六十四(後蜀世家第四)

死因の経緯

潞王討伐に加わった張虔釗らを労った酒宴で発病、そのまま急逝。

出典: 新五代史 巻六十四(後蜀世家第四)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位はわずか約半年(934年閏正月末即位〜同年7月末崩御)で、建元は明徳の1回のみ。皇帝即位前(西川節度使・蜀王時代)は終始唐(後唐)の年号を使用しており自身での改元は一切行っていないため、2段階即位パターンの【皇帝即位前】改元イベントは存在しない(本人は蜀王のまま唐の臣下として在位した期間があるのみで、皇帝を称する前に独自年号を建てた事実はない)。

大赦回数

在位期間(934年閏正月末〜同年7月末、約半年)を通じ、本紀に大赦の記事はこの1件のみ。新五代史後蜀世家には大赦の記述は見当たらないが、より詳細な十国春秋・高祖本紀に明記されている。

立后回数

在位中(934年閏正月〜7月)に生前の皇后を正式冊立した記事は本紀に見当たらない。『十国春秋』高祖本紀の明徳元年四月条に「追冊晉國雍順長公主李氏爲皇后」とあるが、これは即位前の長興三年(933年)三月に既に死去していた元配(初め琼华公主、後に福慶長公主、追封晉國雍順長公主と改称)に対する没後の追贈(追冊)であり、生前の正式冊立ではないため本カウントには含めない(同一プロジェクト内の他事例〔例:後燕・慕容熙の苻氏追諡皇后〕と同様の判断基準を適用)。同日「冊夫人李氏爲貴妃」ともあるが、これは皇后ではなく貴妃の冊立であり対象外。孟知祥の在位はわずか半年で崩御しており、生存中の正式な立后記事自体が確認できない。

皇太子廃立回数

在位中(934年閏正月〜7月)に皇太子を廃した記事はない。明徳元年七月甲子(934年9月7日、崩御同日)、病篤きに際し子の孟仁賛(後の後主・昶)を皇太子として立て監国とした記事はあるが、これは立太子であり廃立ではないため対象外。原文:「甲子,立皇子……仁賛爲太子仍監國……是夕殂」(十国春秋・高祖本紀)。

親征回数

皇帝在位期間(934年閏正月28日即位〜同年7月26日崩御、約7ヶ月)を通じ、原文(新五代史・後蜀世家)に皇帝自身が軍を率いて出征した記録はない。同年三月、後唐で潞王が挙兵し愍帝軍が敗れると、山南西道節度使張虔釗・武定軍節度使孫漢韶が自ら地を挙げて蜀に帰順しており、これは知祥側から見て戦闘を伴わない帰順の受け入れであり親征には該当しない。四月改元、六月に虔釗らを労う酒宴で発病し、そのまま7月に崩御しているため、在位中は軍事行動なく静穏に終始した。なお、皇帝即位前(西川節度使・蜀王時代)の董璋討滅戦・後唐軍撃退・李厳誅殺等は、本プロンプトの規定によりaccessionRoute領域(簒奪・建国のための軍事行動)として対象外とした。

反乱鎮圧回数

皇帝在位期間(934年閏正月〜7月)中に、皇帝側が鎮圧主体となった反乱・離反の記録は原文(新五代史・後蜀世家)に見当たらない。張虔釗・孫漢韶の帰順は蜀への服属であり反乱ではない。即位前の董璋の離反・討滅(長興元年〜二年、董璋が知祥に対して反旗を翻し金雁橋の戦いで敗死)は本人が皇帝に即位する前の出来事(当時は蜀王・西川節度使)でありaccessionRoute領域のため対象外とした。

被反乱回数

皇帝在位期間(934年閏正月〜7月)中に、皇帝知祥に対して起こされた反乱の記録は原文(新五代史・後蜀世家)に見当たらない。在位はわずか約7ヶ月で、四月改元後は六月の発病から七月の崩御まで静穏に推移した。即位前(蜀王・西川節度使時代)の董璋の離反は、本人が皇帝に即位する前の出来事でありaccessionRoute領域のため対象外とした。

遷都回数

十国春秋を通読。一貫して成都が都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年は『十国春秋』高祖本紀冒頭に「以唐咸通十五年四月二十一日誕生」と直接記載(干支換算で西暦874年5月10日)。没年齢は本紀末尾「(明徳元年秋七月甲子)是夕殂【二十六日】年六十一」に直接記載(享年61、数え年)。没日は明徳元年七月二十六日甲子=西暦934年9月7日。即位時年齢61歳は原文に直接記載はないが、即位(明徳元年閏正月二十八日己巳=934年3月16日)と崩御(同年七月二十六日)が同一年号年(明徳元年=934年)内であり年またぎがないため数え年は変化せず、没年齢と一致することを確度の高い逆算として採用。生年(咸通十五年=874)と没年齢(61)からの独立計算(934-874+1=61)とも完全に一致しクロスチェック済み。既存データをそのまま採用(劣化なし)。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元934年5月27日明徳元年(後唐長興五年)四月辛巳、即位に伴う最初の建元。

明徳元年(後唐長興五年)四月辛巳、即位に伴う最初の建元。「長興」から「明德」に改元。原文:「辛巳,受玉冊玉寶,御得賢門,大赦,改元曰明德【錦里耆舊傳云改唐長興五年爲明德元年】」(十国春秋・高祖本紀)。新五代史も「四月,知祥改元曰明德」と一致。国号「蜀」の建国(皇帝即位)自体は同年閏正月己巳(934年3月16日、蜀梼杌に「二十八日」と注記)に行われたが、その時点では後唐の年号「長興」をそのまま踏襲しており、独自の建元は約2ヶ月半後の四月まで持ち越された。

出典: 十国春秋 巻四十八(後蜀一・高祖本紀)

大赦934年5月27日明徳元年四月辛巳(庚午朔から十二日目)、玉冊玉宝を受け得賢門に御し、明徳への改元と同日に大赦を実施。

明徳元年四月辛巳(庚午朔から十二日目)、玉冊玉宝を受け得賢門に御し、明徳への改元と同日に大赦を実施。原文:「辛巳,受玉冊玉寶,御得賢門,大赦,改元曰明德」(十国春秋・高祖本紀)。

出典: 十国春秋 巻四十八(後蜀一・高祖本紀)

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