後主・劉鋹
南漢(五代十国)|在位 958–971年
- 諱(本名)
- 劉鋹
- 在位
- 958–971年
- 在位期間
- 12年170日365名中111位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
- 没年齢
- 39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
中宗の嫡長子として正規に継承。
出典: 十国春秋 巻60(南漢後主本紀)
死因の経緯
開宝4年(971)の降伏後、宋の都で恩赦侯→彭城郡公→衛国公と累進し比較的穏やかな待遇を受けたのち、太平興国5年(980)に39歳で「卒」(自然死)。暴力的な死を示す記述は一切ない。
出典: 宋史 巻4(太宗本紀)/宋史 巻481(列伝・劉鋹伝)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
新五代史・南漢世家(「晟卒,以長子立,改元曰大寶」)、十国春秋 巻60(「干和十六年八月辛巳袭位更今名改是年为大寳元年」)ともに、鋹の在位中の元号は終始「大宝」のみで、途中の改元・国号変更(南漢の国号自体は既に父祖の代に「漢」と定まっており変更なし)の記載は見当たらない。
大赦回数
南漢後主(劉鋹)在位中(大宝元年~十四年、958~971年)に本人が主体となって行った大赦は上記1回のみ確認できた。開宝四年(971年)に宋が広南を平定した直後、宋太祖が「辛卯,大赦広南」(宋史 巻4・太祖本紀)を行っているが、これは既に降伏・捕虜となった劉鋹自身による大赦ではなく宋朝廷による措置であるため計上していない。
立后回数
新五代史・南漢世家、十国春秋 巻60(後主本紀)、宋史 巻481(劉鋹伝)のいずれにも、後主による皇后冊立の記載は見当たらない。大宝五年(963年)に宦官李托の養女を貴妃としたという記載(十国春秋:「以宦者李托为内太师…帝纳托养女长为贵妃次为美人」)はあるが、これは妃嬪の冊立であって皇后冊立ではない。史料上、劉鋹に皇后が立てられた形跡は確認できない。
皇太子廃立回数
重複出力防止のため省略(上記参照)
親征回数
在位中の宋による南征(乾祐7年の郴州侵攻、乾祐13年の潘美による全面征服)に対し、劉鋹は将軍(暨彦贇・邵廷琄・潘崇彻ら)を派遣するのみで、自ら軍を率いて出陣した記述は原文に一切ない。最終的に白田にて素衣白馬で投降しており、皇帝自身が戦場に赴いた親征は確認できない。
反乱鎮圧回数
在位中に(1)鍾允章が宦官許彦真に「謀反」と誣告され処刑された事件(実際の挙兵なし、冤罪)、(2)邵廷琄が無記名の讒言により処刑された事件(同じく実際の兵力行使なし)、(3)弟・桂王劉璇興を予防的に粛清した事件(劉璇興側に挙兵の事実なし)があるが、いずれも実際の兵力行使を伴う蜂起ではなく讒言・粛清に留まるため計上対象外。交州(交趾)での呉昌文没後の内紛(丁琏が勝利)は既に独立していた勢力の内紛であり南漢服属民の反乱ではないため対象外。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の事案を検討したが、鍾允章・邵廷琄事件はいずれも冤罪による処刑で実際の挙兵を伴わず、桂王劉璇興も予防的粛清で挙兵の事実なし。皇帝に対する実際の武力を伴う反乱は史料上確認できず0件。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して広州(興王府)が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
十国春秋 巻60(南漢後主本紀)末尾、宋朝廷での審問の場面で後主自身が「臣年十六僣伪位」と述べており、大宝元年(958年)の即位時の年齢は16歳(数え年)と直接記載がある。宋史 巻481(劉鋹伝)に「太平興国…五年,卒,年三十九」とあり、崩御(宋への降伏後、汴京にて没した)時の年齢は39歳と明記されている。生年月日・没年月日(月日)は原文に直接の記載が見当たらない。既存データを再検証のうえ維持。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元958年父・中宗(劉晟)の崩御(干和十六年八月辛巳)を受け、衛王継興が即位して名を鋹と改め、その年を大宝元年として建元した(即位と改元が同時)。
父・中宗(劉晟)の崩御(干和十六年八月辛巳)を受け、衛王継興が即位して名を鋹と改め、その年を大宝元年として建元した(即位と改元が同時)。二段階即位パターン(先に王として在位し後に皇帝を称する形)には該当しない――鋹は最初から父の帝位をそのまま嫡長子として継承しており、皇帝即位前に「王」として独自の元号を用いた事実はない。以後、大宝十四年(971年)に宋に降伏し国が滅ぶまで一貫して大宝の元号を使用し続けており、途中の改元は確認できない。
出典: 十国春秋 巻60(南漢三・後主本紀)
大赦日付不詳大宝二年(960年)冬、尚書右丞・鍾允章が宦官許彦真らに謀反を誣告されて誅殺された直後、辛亥の日に後主が圜丘を祀り、大赦を行った(十国春秋原文:「辛亥帝祀圓丘大赦」)。
大宝二年(960年)冬、尚書右丞・鍾允章が宦官許彦真らに謀反を誣告されて誅殺された直後、辛亥の日に後主が圜丘を祀り、大赦を行った(十国春秋原文:「辛亥帝祀圓丘大赦」)。新五代史・南漢世家の並行記事(「二年,鋹祀天南郊」)には大赦の明記はないが、十国春秋にのみ明記されている。
出典: 十国春秋 巻60(南漢三・後主本紀)