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南漢(五代十国)第5代

後主劉鋹

在位 958–971年(12年167日)958年9月18日 〜 971年3月4日

日本は平安時代

南漢の中宗劉晟の長子で、958年に即位し、971年に宋に降った南漢最後の皇帝である。

後主の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 958年9月18日〜971年3月4日
12年167日長い順110位/365人16歳で即位(数え年)971年に在位を終え、9年後の980年に没
没年
980年39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(経緯記載なし)
先代
  • 中宗南漢後主は中宗の子
次代
—
呼び名
姓劉諱鋹呼び名の見方

出典

在位
資治通鑑 巻二百九十四 後周紀五(即位)/続資治通鑑長編 巻十二(在位終了)/宋史 巻二 太祖本紀二(在位終了・傍証)/新五代史 南漢世家第五(経緯記述)
死因
宋史 巻4(太宗本紀)/宋史 巻481(列伝・劉鋹伝)
即位経路
十国春秋 巻60(南漢後主本紀)

生涯

どんな皇帝か

新五代史は父よりさらに愚かだとし、宋史は昏懦で政をとに委ねたとする一方、弁舌が立ち、手先がきわめて器用だったと記す。

即位まで

南漢の中宗劉晟の長子で、初名を継興といい、衛王に封じられた。958年に父が没すると位に就き、大宝とした。

治世と最期

政を宦官の龔澄枢・陳延寿と才人の盧瓊仙に委ねた。群臣には家と子孫があって忠を尽くせないが宦官なら任せられると考え、用いようとする臣下はみな去勢してから用いた。陳延寿が引き入れたの樊胡子は、玉皇が降りたと称して鋹を太子皇帝と呼び、国事を決した。陳延寿が、先帝が陛下に位を伝えられたのは弟たちを殺し尽くしたからだと言ってを除くよう勧めると、鋹はそれに従い、弟の桂王璇興を殺した。宮婢の波斯女らと後宮で戯れて政務に出なくなり、刃の山の刑を作り、罪人を虎や象と闘わせ、真珠採りの部隊を置いて海に潜らせた。

宋が建つと、ある将が、真主が出たので兵を整えるか通好せよと勧めたが、鋹は意に介さなかった。のち郴州を取られるとその将に守りを任せたが、謀反と讒言されると死を賜った。970年、宋軍が昭・桂・連・賀を取ると、北の軍はこれで満足してもう南へは来ないと言った。971年、宋軍が迫ると降伏の表を送ったが、再び抗う備えをした。府庫と宮殿は焼かれ、鋹は白田で白い服を着て降った。

都へ送られると、降伏を翻した罪と府庫を焼いた罪を問われて罪を龔澄枢らに帰し、在国のとき自分は臣下で龔澄枢がだったと答えた。龔澄枢らは斬られ、鋹は赦されて恩赦侯とされた。太祖から酒を賜ると、鋹は毒を疑って泣いた。太祖は人を真心で信じていると言ってその酒を自ら飲み、別に注いで賜ったので、鋹は大いに恥じた。真珠で竜の形の鞍を作って献じると、太祖は、細工に励む勤勉さを国を治めることに移せていたら滅びなかっただろうと言った。太宗が北漢を討つ前の宴では、諸国の降王の長になりたいと言って太宗を大笑させた。980年に没し、南越王をされた。

史料について

再び抗う備えをしたのを、新五代史と続資治通鑑長編は鋹とし、宋史の南漢世家は郭崇岳とする。府庫を焼いたのを、新五代史・続資治通鑑長編・十国春秋や宋史の李托伝などは宦官の謀とし、宋史の南漢世家と潘美伝は鋹とする。降り方を、宋史は城が破れて捕らえられたとする。樊胡子が国事を決したのを、新五代史は皆とし、十国春秋は多くとする。

後主とつながる皇帝

五代十国の勢力図(958年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

958–970年の地図に、後主が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1・大赦1
  1. 改元958年9月18日元号を「大宝」とする
  2. 959年

南漢の歴代皇帝

歴代5人の一覧
  1. 第1代劉隠皇帝を名乗っていない905頃–911年

年表

五代十国の時代を年表で見る

南漢が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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