康宗・王継鵬
閩(五代十国)|在位 935–939年
- 諱(本名)
- 王継鵬
- 在位
- 935–939年
- 在位期間
- 3年285日365名中202位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
父・恵宗(王延鈞)殺害の共謀者として即位。
出典: 十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
死因の経緯
連重遇・朱文進の起こしたクーデターで南宮を焼かれ脱出、逃亡先の梧桐嶺で新帝延羲配下の王継業に捕らえられ、陁荘で酒を飲まされ泥酔させられた上で絞殺(縊殺)された。
出典: 十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
十国春秋巻九十一「通文元年春正月帝改元」の記述、および新五代史巻六十八閩世家「継鵬、鏻長子也。既立、更名昶、改元通文」の記述と整合。即位年(935年)中は改元記事がなく前代の永和を踏襲したため、この935年即位はカウントに含めない。
大赦回数
康宗本紀(十国春秋巻九十一)全体を通読し「大赦」の語が確認できたのは即位当日のこの1件のみ。旧五代史・新五代史の関連記事にも他の大赦記事は見当たらない。
立后回数
十国春秋巻九十一「通文元年春正月……立賢妃李氏為皇后」の記述、および同書巻九十一「唐宗后李氏」伝の「康宗嗣位立為賢妃……及通文改元復立為皇后」の記述と整合。なお元妃李氏(恵宗の甥女、李敏の娘、梁国夫人)は寵愛が薄く、皇后には冊立されていない。
皇太子廃立回数
康宗(王継鵬)代に皇太子(皇太弟等を含む)が立てられ、それが廃されたとする記事は康宗本紀・関連列伝(継厳伝・継鎔伝・継恭伝等)のいずれにも見当たらない。在位期間が短く(935-939、約3年10ヶ月)、内紛(李仿の乱、朱文進・連重遇の乱)により弑殺されたため、立太子の記録自体が存在しない。
親征回数
旧五代史・新五代史「閩世家」(本キャッシュ)を通読。在位期間中(935-939)、康宗(王継鵬、即位後は王昶と改名)自身が軍を率いて出征した記事は見当たらない。対後晋(宗主国、朝貢関係)・対他の十国政権との外征記録はなく、国内の粛清・宮廷内紛(李仿誅殺、審知の子延武・延望らの誅殺、連重遇・硃文進の政変)に終始している。
反乱鎮圧回数
在位中に皇帝側(政権側)が主体となって反乱を鎮圧した記事は見当たらない。李仿の誅殺(「昶患之、因大享軍、伏甲擒仿殺之」)は、李仿が死士を養って自衛していた段階(未挙兵)で昶が先制的に武力攻撃を仕掛けたものであり、判定基準3(皇帝自身が攻撃の主体で相手はまだ反乱を起こしていない先制攻撃)に該当するため除外。同様に、審知の子延武・延望らの誅殺も「此宗室将為乱之兆也」という予言のみを根拠とした先制的粛清であり、実際の挙兵前の攻撃のため除外。李仿誅殺後にその部曲千人が実際に叛乱を起こした件(下記rebellionSufferedCount参照)についても、部曲は鎮圧されずそのまま呉越(銭塘)へ逃走しており、政権側が鎮圧に成功した記事はないため本カウントには含めない。
被反乱回数
十国春秋等の先行調査で確定済みのdeathCause(クーデターによる縊殺)と重複計上を許容する運用ルールに従い、康宗弑逆事件をrebellionSufferedCountにも計上した。
遷都回数
十国春秋を通読。福州が一貫した都(王延政の建州「大殷」は分立政権の拠点で、復国後の福州は陪都「南都」扱いにとどまり正式な主都遷移は完了せず)。
即位時年齢・没年齢
旧五代史・新五代史「閩世家」(本キャッシュ)には生年月日・即位時年齢・没年齢の直接記載(「時年◯◯」等)が見当たらない。崩御日(通文4年閏7月12日=0939-08-29)は既存reigns/deathCauseフィールド(十国春秋巻九十一)に基づき確度高く判明しているが、年齢の直接記載自体が原典に存在しないため、accessionAge・deathAgeはnullのまま「調査済みだが不明」として確定する。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦935年11月18日恵宗(王延鈞)が李仿らに弑殺された翌日、継鵬(後の王昶)が皇帝に即位。
恵宗(王延鈞)が李仿らに弑殺された翌日、継鵬(後の王昶)が皇帝に即位。即位当日に「遣使奉表于唐、大赦境内」と、皇帝即位に伴う全国規模の大赦を実施。
出典: 十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
改元936年1月【皇帝即位(改元同時ではない)】935年(永和元年)10月の即位時は先帝恵宗の元号「永和」をそのまま継続使用し改元しなかった。
【皇帝即位(改元同時ではない)】935年(永和元年)10月の即位時は先帝恵宗の元号「永和」をそのまま継続使用し改元しなかった。翌通文元年(936年)正月に至り「通文」へ改元。これが康宗代唯一の改元。なお即位後に自ら「王昶」へ改名した事実(新五代史「既立、更名昶、改元通文」)は改元とは別事象であり本カウントに含めていない。
出典: 十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
立后936年1月即位当初(935年)は李春鷰を賢妃に冊立するにとどまっていたが、通文元年(936年)正月、改元と同時期に正式に皇后として立后した。
出典: 十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
被反乱939年8月29日連重遇・硃文進の政変(南宮焼き討ち・康宗弑逆)
首謀者: 連重遇・硃文進
結果: 康宗弑逆・王延義(延羲)擁立に成功
康宗が末弟継鏞を重用し宸卫都のみ厚遇したことに、控鶴都将・連重遇と拱宸都将・硃文進が激怒。宮中火災の疑いを機に連重遇が夜、衛士を率いて南宮に放火、康宗は脱出したが野営中に、連重遇の擁立した王延義(延羲)の命を受けた継業の追討軍に捕らえられ殺害され、妻子も皆殺しにされた。朝廷内部の近衛軍将による兵力を伴う弑逆クーデターであり、判定基準4に該当。鎮圧の主体が皇帝側ではなく反乱者側(延義が新帝として擁立)であるため、rebellionSuppressionCountには計上しない。
被反乱日付不詳李仿部曲の乱
首謀者: 李仿の部曲(首謀者名不詳)
結果: 启圣門を焼き李仿の首級を奪って呉越(銭塘)へ逃走、未鎮圧のまま
六軍諸衛事を掌る李仿が弑君の罪の発覚を恐れ死士を養っていたところ、康宗(昶)が先制的に捕らえて誅殺(この先制攻撃自体は判定基準3により両カウントから除外)。これに対し李仿配下の部曲千人が「叛」(新五代史原文で明記)き、启圣門を焼いて李仿の首を奪い呉越の銭塘へ逃走した。政権配下の武装集団による実際の挙兵であり、身分・規模を問わず計上する基準に従いrebellionSufferedCountに算入。鎮圧されず逃走成功のため、rebellionSuppressionCountには計上しない(未鎮圧のまま事案が終結)。正確な発生時期は本キャッシュ原文に日付明記がなく、即位(935年11月)後、後晋への遣使朝貢記事(天福二年=937年)より前と推定されるが確定できない。