本文へスキップ

閩(五代十国)第5代

康宗王継鵬

在位 935–939年(3年284日)935年11月18日 〜 939年8月29日

日本は平安時代

閩の王延鈞の長子で、父の殺害に加わって帝位に即き、のちに叔父の王延羲が擁立されて位を失い、殺された皇帝である。

康宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 935年11月18日〜939年8月29日
3年284日長い順202位/365人即位の年齢は不詳
没年
939年8月29日年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 恵宗閩康宗は恵宗の子
次代
  • 景宗閩景宗は康宗の叔父
呼び名
姓王諱継鵬呼び名の見方

出典

在位
新五代史 閩世家第八/資治通鑑 巻二七九(後唐紀八・清泰二年)・巻二八二(後晋紀三・天福四年)
死因
十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
即位経路
十国春秋 巻九十一(康宗本紀)

生涯

どんな皇帝か

十国春秋は性格を狂躁とし、資治通鑑は、わが主は君に仕えず親を愛さず民をいたわらないという士人の言葉を記す。

即位まで

閩の王延鈞の長子である。父の婢の春燕と通じたことから弟の継韜に殺害を謀られ、恐れての李仿と事を図った。陳后の一族に無礼をされたのも恨み、父の病が重くなると喜色を見せた。935年、李仿のが宮に入り、父は九龍帳で殺された。陳后と弟の継韜らも殺され、継鵬は皇太后の令と称してし、その日に即位して名を昶と改めた。

史料について

宮に入ったのを、資治通鑑は李仿の兵とし、陳后や継韜を殺したのを李仿と継鵬とする。新五代史と十国春秋は、みな李仿が殺したとする。

治世と最期

即位後、主君を弑した罪を負う李仿を誘い出して捕らえ、殺した。巫を好み、陳守元を天師として、黄金数千斤で宝皇らの像を鋳た。官を賄賂の多寡で与えさせ、ひたすら取り立てた。呉を襲おうとして、一発で当てれば江南を平定できると言って近い的を射させ、当たると大いに喜んで兵を国境に出した。呉の人は、その大志を憐れむと言っただけだった。

939年、巫の林興が伝えた神の言葉を受けて、叔父の延武・延望とその子を殺させた。それまでにも夜通し酒宴をして群臣に酒を強い、酔って礼を失った従弟の継隆を斬り、狂愚を装った叔父の延羲を幽閉していた。同じ年、宸衛都の厚遇に他軍が怒っていたところ、放火を疑われたと陳郯から聞いた連重遇が宮を焼いて攻め、延羲を迎えて立てた。王昶は逃れたが、延羲に遣わされた継業に追いつかれ、弓で数人を射殺し、逃れられないと知って弓を投げた。卿の臣節はどこにあるかと言うと、継業は、君に君徳が無いのに臣に臣節があろうかと答えた。継業は王昶を捕らえて殺した。

史料について

李仿を、新五代史は軍への大宴で伏兵に捕らえさせたとし、資治通鑑は林延皓らが入朝した李仿を内殿で斬ったとする。叔父を殺した年を、新五代史は938年に置く。資治通鑑は、王昶が二人の才名を忌んでいたとも書く。臣節の問答は資治通鑑にある。資治通鑑と十国春秋は、継業が王昶を連れ帰る途中で酔わせて縊り殺したとする。

康宗とつながる皇帝

五代十国の勢力図(935年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

935–939年の地図に、康宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・皇后1・改元1・大赦1
  1. 935年11月18日恵宗(王延鈞)が李仿らに弑殺された翌日、継鵬(後の王昶)が皇帝に即位。
  2. 反乱935年12月19日李仿部曲の乱
  3. 改元936年元号を「通文」とする
  4. 皇后936年即位当初(935年)は李春鷰を賢妃に冊立するにとどまっていたが、通文元年(936年)正月、改元と同時期に正式に皇后として立后した。
  5. 反乱939年8月29日連重遇・硃文進の政変(南宮焼き討ち・康宗弑逆)

閩の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第1代王潮皇帝を名乗っていない893頃–898年
  2. 第2代王審知皇帝を名乗っていない898–925年
  3. 第3代王延翰皇帝を名乗っていない925–927年

年表

五代十国の時代を年表で見る

閩が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「簒奪」の28名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。