景宗の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 941年11月〜944年4月8日
- 没年
- 944年4月8日年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- 康宗閩景宗は康宗の叔父
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓王諱延羲呼び名の見方
出典
- 在位
- 新五代史 巻六十八 閩世家第八/資治通鑑 巻二百八十三(後晋紀四 天福六年)・
巻二百八十四(後晋紀五 開運元年) - 死因
- 十国春秋 巻九十二(景宗本紀)
- 即位経路
- 新五代史 巻六十八(閩世家第八)
生涯
どんな皇帝か
新五代史は、弟の延政と攻め合ったことから宗室君主と同じ一族の人々を憎んで多くを誅したとする。
即位まで
閩の王審知の末子で、甥の康宗が宗室を疑って誅するなか、狂愚を装って禍を避け、私邸に幽閉された。康宗の世には強情で、宰相の王倓に抑えつけられていた。新羅が贈った宝剣を康宗が倓に見せて使い道を問うと、倓は不忠不孝の者を斬ると答え、傍らの延羲は顔色を変えた。939年、連重遇が康宗を攻め、瓦礫の中から延羲を迎えて立てた。延羲が遣わした継業が康宗を殺した。延羲は名を曦と改めて閩国王を称し、941年に皇帝の位に即いた。
史料について
継業を、新五代史は延羲の子とし、資治通鑑は兄の子とする。
治世と最期
弟の延政が書で諫めると怒って罵る返書を送り、送り込んだ監軍軍を見張り監督する役が延政の隠し事を告げて、兄弟の疑いが積もった。941年には、延政が書で継業を招いたと聞くと、死を賜って子も殺し、通謀を告げられた宰相の楊沂豊の一族も滅ぼした。この年、大閩皇を称して延政と攻め合い、福州と建州の間に屍が積み上がった。新羅がまた剣を献じると王倓の言葉を思い出し、すでに死んでいた倓の墓を発いて屍を辱めた。
酒を牛飲し、侍酒の群臣のうち酔って飲みきれずに辞退を訴えた者やひそかに酒を捨てた者を殺した。周維岳がよく飲むのを見て、酒には別の腸があると聞くと腹を割いて見ようとしたが、殺せば飲み相手がいなくなると言われてやめた。娘の婚礼を祝わなかった朝士朝廷に仕える役人たちを打ち据え、糾弾しなかった御史中丞官吏の不正を取り締まる役所の高官の劉賛も罰しようとした。鄭元弼が諫めると、魏徴を真似るのかと言い、陛下を唐太宗と思うからだと答えられて、劉賛を許した。
曦は連重遇と朱文進を疑い、酒席で人の心は測れないという白居易の詩を誦して二人に酒を勧めた。皇后李氏は尚賢妃皇帝の妃の位の一つへの寵を妬み、曦を除いて子を立てようと、上は二公に不満だと二人に告げさせ、二人は恐れた。944年、曦は二人の放った者に馬上で殺された。
史料について
鄭元弼の答えを、新五代史は陛下が唐太宗に似ておられるなら臣は魏徴になれるとし、曦は喜んだとする。資治通鑑は怒りがやや解けただけとし、劉賛は釈されたが憂死したとする。白居易の詩は資治通鑑にある。殺された場面を、資治通鑑は后の父を見舞ったところとし、新五代史は遊びから酔って帰る途中とする。新五代史の南唐世家は、死を閩世家と別の月に置く。
景宗とつながる皇帝

勢力図
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941–943年の地図に、景宗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・皇后1
- 反乱940–943年王延政の自立・
反乱(建州挙兵〜大殷建国) - 皇后942年司空李真の娘・
李氏を皇后に立てる。 - 反乱944年4月〜944年4月8日朱文進・
連重遇のクーデター(景宗弑殺)
閩の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代王潮皇帝を名乗っていない893頃–898年
- 第2代王審知皇帝を名乗っていない898–925年
- 第3代王延翰皇帝を名乗っていない925–927年
- 第4代恵宗933–935年暗殺
- 第5代康宗935–939年暗殺
- 第6代景宗941–944年暗殺
- 第7代殷帝943–945年病死
年表
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