景宗・王延羲
閩(五代十国)|在位 941–944年
- 諱(本名)
- 王延羲
- 在位
- 941–944年
- 在位期間
- 2年185日365名中245位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
康宗弑殺後、連重遇らクーデター勢力に擁立されて即位。
出典: 新五代史 巻六十八(閩世家第八)
死因の経緯
連重遇・朱文進が皇后の陰謀に呼応し、外出から泥酔して帰る途中の延羲を拱宸馬歩使・銭達に命じて馬上から引きずり下ろして弑殺させた。
出典: 十国春秋 巻九十二(景宗本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
景宗(王延羲/曦)自身の在位期間(939-944)中の改元はこの1回のみ。永隆三年(941)秋七月に「大閩皇」を自称し、同年冬十月に正式に「即皇帝位」(皇帝即位)を果たしたが、いずれの段階でも元号は「永隆」のまま据え置かれ、改元は行われていない(新元号制定なし)ため、この皇帝即位自体はeraChangeとしてはカウントしない。したがって「皇帝即位(改元同時)」に該当する事象はなく、「皇帝在位中」の改元も確認されなかった。永隆六年(944)三月に殺害されるまで永隆の元号が継続使用された。なお弟・延政(天徳帝)が別に建州で「大殷」を建国し改元「天徳」を行っているが、これは延羲/曦自身の改元ではないため対象外。
大赦回数
即位時(通文四年閏七月壬午/939年)に「赦系囚頒賚中外」との記載があるが、これは「大赦」「大赦天下」ではなく「系囚(在監の囚人)」を赦す限定的恩赦の表現であり、本項目が定める『「大赦」「大赦天下」等と明記された全国規模の恩赦』の基準を満たさないためカウントしない。本紀を通読した限り、他に大赦を示す記載は見当たらなかった。
立后回数
在位中の皇后冊立は李氏の1回のみ。永隆五年三月に尚氏を貴妃に立てた記載はあるが、皇后への冊立ではないため対象外。
皇太子廃立回数
十国春秋 景宗本紀・列伝を通読したが、在位中(939-944)に皇太子(皇太弟・皇太孫等含む)が立てられた記録は確認できず、廃立の事実もない。子の王亚澄は琅琊王→威武軍節度使・長楽王→閩王と累進したが、皇太子への冊立は記載されていない。
親征回数
『十国春秋』巻九十二(景宗本紀)・『資治通鑑』(天福五〜八年)・『新五代史』閩世家を通読。在位中、弟・王延政(建州刺史・富沙王)との間で永隆二年(940)正月から永隆五年(943)正月にかけて断続的な軍事衝突(潘師逵・呉行真・王継業・許仁欽・林守亮・黄敬忠・黄紹頗ら諸将による建州攻撃・汀州救援等)が繰り返し発生したが、いずれも「遣統軍使…将兵…撃延政」「以…為行営都統将兵…救之」等、皇帝が将軍を派遣した記述のみで、曦自身が軍を率いて戦場に赴いたことを示す記載(「帝自将」「王自帥」等)は一切確認できなかった(新五代史の要約的記述「曦乃挙兵攻延政」は資治通鑑・十国春秋の詳細な記述〔統軍使潘師逵らを派遣〕と整合せず、より具体的な資治通鑑・十国春秋を優先した)。契丹・南唐等の外国勢力との親征も確認されなかったため、count=0とした。
反乱鎮圧回数
同一首謀者(王延政)による永隆二年(940)〜永隆五年(943)の一連の離反・武装蜂起を1件として集計した(数年にわたる鎮圧でも同一首謀者なら1件とする基準に従う)。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountとの差分は、朱文進・連重遇のクーデター(皇帝弑殺、鎮圧主体が反乱者側のため鎮圧回数には非計上)の1件のみであり、基準4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当する正当な差分である。
遷都回数
十国春秋を通読。福州が一貫した都(王延政の建州「大殷」は分立政権の拠点で、復国後の福州は陪都「南都」扱いにとどまり正式な主都遷移は完了せず)。
即位時年齢・没年齢
十国春秋 巻九十二(景宗本紀)を通読したが、王延羲(曦)自身の生年・即位時年齢・崩御時年齢について「時年」「年◯◯」「享年」等の直接記載は見当たらなかった。父・太祖王審知の第二十八子であることのみ判明(「景宗名曦初名延羲太祖第二十八子也」)。崩御日(永隆六年三月乙酉=0944-04-08)は既存reignsデータで日精度まで確定済みのためdeathDateに転記したが、享年(deathAge)は不明のまま。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元939年康宗(王継鵬)が連重遇らのクーデターで殺害された直後、王延羲(後の曦)が自ら威武節度使・閩国王を称し即位。
康宗(王継鵬)が連重遇らのクーデターで殺害された直後、王延羲(後の曦)が自ら威武節度使・閩国王を称し即位。同月(通文四年閏七月壬午)、通文四年を永隆元年に改める建元を実施。この時点では「閩国王」を称しているのみで正式に皇帝を称してはいない(皇帝への正式即位は永隆三年〔941年〕十月の「即皇帝位」)。【皇帝即位前】
出典: 十国春秋 巻九十二(景宗本紀)
反乱鎮圧940年1月〜943年1月王延政の自立・反乱(建州挙兵〜大殷建国)
首謀者: 王延政(建州刺史・富沙王)
結果: 鎮圧失敗。永隆二年(940)正月、監軍として派遣した鄴翘を延政が武力で追放し西鄙戍兵が潰走したのを機に、同二月曦は統軍使潘師逵・呉行真に兵4万を与え建州の延政を討たせたが、延政の夜襲で潘師逵は戦死し呉行真軍も壊滅(丁丑・戊寅の戦い)、逆に延政が永平・順昌二城を奪取。以後、永隆五年(943)正月に延政が建州で皇帝を称し国号「殷」・年号「天徳」を建てて完全に独立するまで、汀州攻防戦(永隆四年)等断続的な軍事衝突が続き、朝廷側の鎮圧は最終的に失敗に終わった。
皇帝側(曦)は一貫して将軍を派遣する形で鎮圧を試み(潘師逵・呉行真・王継業・許仁欽・林守亮・黄敬忠ら)、曦自身は親征していない。延政は在位中の建州刺史・富沙王として曦の統治機構下にあった服属節度使であり、その離反・武装蜂起は身分を問わず鎮圧回数に計上する基準に該当する。永隆五年正月の建国後は対等勢力間の統一戦争に移行するため、それ以降(南唐による建州攻略等)は対象外とした。
被反乱940年1月〜943年1月王延政の自立・反乱(建州挙兵〜大殷建国)
首謀者: 王延政(建州刺史・富沙王)
結果: 永隆二年(940)正月の監軍追放・西鄙戍兵潰走に始まり、曦が派遣した鎮圧軍(潘師逵・呉行真、兵4万)を延政が撃破(潘師逵戦死)、以後断続的な軍事衝突を経て、永隆五年(943)正月に延政が建州で皇帝を称し国号「殷」を建てて完全に独立した。鎮圧は失敗に終わり、曦は在位終了(永隆六年3月の弑殺)まで延政の自立状態を覆せなかった。
rebellionSuppressionCountと同一の反乱を両面から計上。曦の統治機構下にあった建州刺史・富沙王延政による離反・武装蜂起のため計上対象とした。
立后942年1月永隆四年正月、司空李真の娘・李氏を皇后に立てる。
永隆四年正月、司空李真の娘・李氏を皇后に立てる。列伝「景宗后李氏」にも「永隆四年冊立為皇后」と対応する記載あり。
出典: 十国春秋 巻九十二(景宗本紀)
被反乱944年3月〜944年4月8日朱文進・連重遇のクーデター(景宗弑殺)
首謀者: 朱文進(拱宸都指揮使)・連重遇(閤門使)
結果: 永隆六年(944)三月乙酉、曦が皇后の父・李真の病気見舞いに出かけた隙に、朱文進・連重遇が配下の拱宸馬歩使・銭達に命じ、曦を馬上から引きずり下ろして弑殺させた。王氏宗族50余人も殺害され、朱文進が閩王を自称して即位した。
朝廷内部の軍事指揮官(拱宸都指揮使・閤門使)による兵力(拱宸馬歩使配下の兵)を伴う弑逆クーデターのため、rebellionSufferedCountのみに計上し、鎮圧の主体が皇帝側ではないためrebellionSuppressionCountには計上しない(基準4に該当)。deathCauseの暗殺記述と内容が重複するが、別軸の集計のため重複計上を許容する基準に従った。