中国皇帝統計

恵宗・王延鈞

閩(五代十国)|在位 933–935年

諱(本名)
王延鈞
在位
933–935年
在位期間
2年300日365名中230位タイ
即位経路
簒奪
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
2332名中78位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

兄・王延翰を養子延禀と共に武力で殺害して即位。

出典: 新五代史 巻六十八(閩世家第八)

死因の経緯

既存の「崩御」は誤り。実子・王継鵬と皇城使李仿が共謀した宮廷クーデターにより弑殺された。九龍帳に隠れていたところを刺され、絶命しきらなかったため宮人が止めを刺したと新五代史にあり、十国春秋は「遂弑惠宗」と明記する。

出典: 新五代史 巻六十八(閩世家第八)/十国春秋 巻九十四(李仿伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

恵宗(王延鈞)は天成二年(927年)以降、後唐から節度使・中書令・閩王に冊封され、天成・長興という後唐の年号をそのまま奉じ続けた(独自の建元はしていない)。したがって皇帝即位前の「王」段階での改元は0件であり、2段階即位パターンにおける【皇帝即位前】区分の該当事跡は存在しない。龍啓元年(933年)に皇帝を称した時点で初めて建元(1回目、即位と同時)、永和元年(935年)に再改元(2回目、在位中)。この人物固有の在位期間(933〜935年)中の改元のみを対象とし、それ以前の後唐年号の使用および後代(康宗継鵬以降)の改元は含めていない。

大赦回数

十国春秋巻九十一(惠宗本紀)全文を通読し「大赦」の語を含む記述を全て確認した結果、即位に伴う龍啓元年(933年)の大赦と、永和改元に伴う935年の大赦の計2件のみが確認できた。天成・長興年間(927〜932年、後唐の冊封下で王・節度使であった時期)には大赦の記述は見当たらない。新五代史・閩世家には大赦の明記自体がなく、より詳細な十国春秋を主典拠とした。

立后回数

十国春秋巻九十四(后妃列伝)は恵宗の配偶者として「恵宗后刘氏」(南漢より嫁いだ清遠公主、貞明三年=917年、恵宗がまだ即位前に父審知の代で娶った妻。原文「帝兩娶劉氏皆美而無寵」)と「継后金氏」(「賢而不見答」とのみ記され正式な立后の記述なし)も列記するが、本紀(巻九十一)に両名を「立為皇后」とする明記はなく、正式な立后(冊立)が確認できるのは陳氏(金鳳)の永和元年の1件のみ。廃后の記述もない。

皇太子廃立回数

十国春秋巻九十一(惠宗本紀)・新五代史巻六十八(閩世家第八)を通読したが、恵宗が皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)を正式に立てた記述は見当たらない。長子継鵬は龍啓元年(933年)夏四月に「福王」に封じられ寶皇宮使を兼ねたのみで、太子号を与えられた記録はない(原文:「封繼鵬為福王,充寶皇宮使」)。なお長興二年(932年、皇帝即位前)に道士陳守元の勧めで恵宗が一時「避位受道」し、継鵬に「權軍府事」を委ねた事跡があるが(原文:「王命長子威武節度副使繼鵬權軍府事,遜位受籙」)、これは道教修行を理由とする一時的な譲位・政務代行であって皇太子冊立ではなく、かつ皇帝即位前(933年より前)の出来事であるため対象外。立太子の事実自体が確認できないため、廃立回数は0回とする。

親征回数

新五代史巻六十八(閩世家第八)を通読。皇帝在位期間(933〜935年)中、恵宗(鏻)自身が軍を率いて出征した記述は見当たらない。同時期に呉が建州を攻めた際も『鏻遣其将王延宗救之』と将軍を派遣したのみで親征していない。長興二年(932年、皇帝即位前)の延禀来襲時も王仁達を派遣して迎撃させており親征ではなく、かつ皇帝即位前のため対象外。

反乱鎮圧回数

皇帝在位期間(933〜935年)中に恵宗側が鎮圧主体となった反乱は確認できなかった。在位末期(935年10月)の李仿・王継鵬によるクーデターは恵宗が弑殺される形で終わり(未鎮圧のまま在位終了)、鎮圧側とはならなかったためrebellionSufferedCountのみに計上しrebellionSuppressionCountには含めない。なお長興二年(932年)の延禀の来襲は王仁達により撃退・延禀誅殺という形で鎮圧に成功しているが、皇帝即位前(933年より前、王段階)の出来事のためこのグループの対象外(accessionRoute領域に準ずる時期として扱う既存判断=crownPrinceDepositionCountノートの前例を踏襲)。

被反乱回数

皇帝在位期間(933〜935年)中に恵宗が被った反乱は、935年10月の李仿・王継鵬によるクーデター1件のみ。他に龍啓元年(933年)前後の呉による建州侵攻は対等な独立政権間の統一戦争であり対象外。薛文杰が軍士の怒りにより処刑された一件は皇帝個人への反乱ではなく官吏への私刑であるため対象外。王仁達の誅殺は恵宗自身が疑心から先制的に誅殺したもので、王仁達側に実際の挙兵はなかったため対象外(先制攻撃パターン)。長興二年(932年)の延禀来襲は皇帝即位前のためこのグループの対象外。

遷都回数

十国春秋を通読。福州が一貫した都(王延政の建州「大殷」は分立政権の拠点で、復国後の福州は陪都「南都」扱いにとどまり正式な主都遷移は完了せず)。

即位時年齢・没年齢

十国春秋巻九十一(惠宗本紀)・新五代史巻六十八(閩世家第八)を通読したが、生年・即位時年齢・没年齢について「時年◯◯」等の直接記載は見当たらなかった。崩御日(935年11月17日、永和元年十月の李仿・王継鵬のクーデターによる弑殺)はreignsフィールドのendDateと一致するため転記したが、年齢自体は調査済みだが不明として確定する。

在位中の出来事(6件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元933年1月龍啓元年正月、寶皇宮にて冊を受けて皇帝に即位し、国号を「大閩」と称した(十国春秋は「國號大閩」と明記するが、新五代史は「國號閩」とし「大」の字を欠く。

龍啓元年正月、寶皇宮にて冊を受けて皇帝に即位し、国号を「大閩」と称した(十国春秋は「國號大閩」と明記するが、新五代史は「國號閩」とし「大」の字を欠く。原文:十国春秋「遂詣寶皇宮受冊備儀入府即皇帝位,國號大閩,大赦…改元龍啓」/新五代史「鏻乃即皇帝位,受冊於寶皇…改元為龍啓,國號閩」)。これと同時に建元し年号を「龍啓」とした。皇帝即位に伴う最初の建元。【皇帝即位(改元同時)】

出典: 十国春秋 巻九十一(惠宗本紀)

大赦933年1月龍啓元年正月、寶皇宮で冊を受け皇帝に即位、国号を「大閩」と称し、これと同時に大赦天下・改元「龍啓」を行った。

龍啓元年正月、寶皇宮で冊を受け皇帝に即位、国号を「大閩」と称し、これと同時に大赦天下・改元「龍啓」を行った。原文:「遂詣寶皇宮受冊備儀入府即皇帝位,國號大閩,大赦…改元龍啓」。

出典: 十国春秋 巻九十一(惠宗本紀)

改元935年2月6日永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日、干支換算により確認)、大赦・淑妃陳氏の立后と同時に改元し年号を「永和」とした。

永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日、干支換算により確認)、大赦・淑妃陳氏の立后と同時に改元し年号を「永和」とした。原文:「永和元年春正月丙申朔,大赦改元,立淑妃陳氏為皇后」。新五代史は「龍啓三年,改元永和」と記すが、これは十国春秋の紀年法(改元と同時に元年へリセット)との表記差であり、同一年(935年=後唐清泰二年)の改元を指す。皇帝在位中の2度目の改元。【皇帝在位中】

出典: 十国春秋 巻九十一(惠宗本紀)

大赦935年2月6日永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日、干支換算により確認)、改元・淑妃陳氏の立后と同時に大赦を行った。

永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日、干支換算により確認)、改元・淑妃陳氏の立后と同時に大赦を行った。原文:「永和元年春正月丙申朔,大赦改元,立淑妃陳氏為皇后」。

出典: 十国春秋 巻九十一(惠宗本紀)

立后935年2月6日永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日)、淑妃陳氏(幼名金鳳、父・侯倫の死後族人陳匡勝に養われ、太祖王審知の代に良家子として後宮に入り才人となった人物)を皇后に立てた。

永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日)、淑妃陳氏(幼名金鳳、父・侯倫の死後族人陳匡勝に養われ、太祖王審知の代に良家子として後宮に入り才人となった人物)を皇后に立てた。原文:「永和元年春正月丙申朔,大赦改元,立淑妃陳氏為皇后」(十国春秋巻九十一・惠宗本紀)。新五代史も「繼室金氏賢而不見答。審知婢金鳳,姓陳氏,鏻嬖之,遂立以為后」と陳氏立后の事実を確認するが、具体的な月日の記載はない。

出典: 十国春秋 巻九十一(惠宗本紀)/新五代史 巻六十八(閩世家第八)

被反乱935年11月李仿・王継鵬のクーデター

首謀者: 李仿(皇城使)・王継鵬(恵宗の子、次代康宗)

結果: 弑逆成功。恵宗は九龍帳に隠れたところを衛士に刺され、宮人がとどめを刺して崩御。継韬(恵宗の次子)・陳皇后・帰郎も李仿により殺害された。皇城衛士(近衛軍)を動員した宮廷内クーデターであり、鎮圧の主体が皇帝側ではないためrebellionSuppressionCountには計上しない。

新五代史巻六十八(閩世家第八)原文:『鏻婢春燕有色…継鵬因陳氏以求春燕…継鵬懼,與皇城使李仿圖之。是歳十月,鏻饗軍於大酺殿…令壯士先殺李可殷於家…仿懼而出,與継鵬率皇城衛士而入。鏻聞鼓噪聲,走匿九龍帳中,衛士刺之不殂,宮人不忍其苦,為絶之…鏻立十年見殺,謚曰惠皇帝,廟號太宗。』皇城使(近衛軍を統括する官)李仿と、恵宗の子で次代皇帝となる継鵬(康宗)が共謀した弑逆クーデターであり、被反乱回数計上基準の4番目のパターン(朝廷内部・軍中の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当する。継鵬は次代皇帝となるが、この行為自体は継鵬の即位前(accessionRoute領域)の出来事であり、恵宗側から見た被反乱事象として本項目に計上する。

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