中国皇帝統計

元宗・李璟

南唐(五代十国)|在位 943–958年

元宗・李璟の肖像
諱(本名)
李璟
在位
943–958年
在位期間
14年305日365名中88位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
28歳(数え年)172名中・若い順106位タイ
没年齢
46歳(数え年)269名中・長寿順99位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

烈祖の長子として正式に太子となり、父の崩御を受け正式に践祚。

出典: 陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

死因の経緯

958年の国主降格後、南唐国都を洪州(南昌)に遷したが、群臣の不満と本人の後悔(「北望金陵鬱鬱不樂」)から鬱状態となり食を絶って病臥、961年6月に南都・長春殿で崩御。暗殺・毒殺を示す記述はなく、遷都の失意による衰弱死とされる。

出典: 陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位期間(943〜958年、皇帝在位期間のみ対象。958年5月以降の「唐国主」期間は本データセットの方針により皇帝在位に含めないため除外)中に3回の改元を確認:①即位時建元「保大」(943年3月)、②「中興」(958年正月)、③「交泰」(958年3月)。958年5月、自ら帝号を廃して「国主」を称し、独自年号「交泰」も放棄して後周の「顕德」年号を奉じた(「下令去帝號,稱國主,去交泰年號,稱顯德五年」)が、これは自身の新元号への切替ではなく宗主国(後周)の年号を受用する臣従行為であり、かつ本データセットで皇帝在位とみなす期間(943-958)の外側の出来事であるため、改元回数にはカウントしない。なお元宗は烈祖存命中に「王」(呉王→斉王)であった期間があるが、即位当日に王のまま改元することなく直接「即皇帝位,改元保大」となっており、他の南唐建国者(烈祖)のような2段階即位(王として建元→皇帝として改元)のパターンには該当しない。

大赦回数

在位期間(943〜958年、皇帝在位期間のみ対象。958年5月以降の「唐国主」期間は除外)中の全国規模「大赦」を3回計上。除外事項:①昇元七年二月、烈祖崩御直後に元宗(当時まだ王・監国の身分で未即位)が発した「命帝監國,大赦,頒賚有差」は、正式な皇帝即位前の摂政段階の行為のため不算入。②保大五年四月「詔卽軍中斬陳覺、馮延魯,餘將帥皆赦不問」は特定の敗軍将帥のみを対象とした限定的赦免であり全国規模の大赦ではないため不算入。③保大六年、李守貞の罪を赦免するよう request した記事(「請赦李守貞罪,不報」)は要請自体が却下されており不算入。

立后回数

在位期間(943〜958年、皇帝在位期間)を通じて立后は保大元年の鍾氏冊立1回のみ確認。廃后・再冊立の記録なし。

皇太子廃立回数

元宗自身が即位前(烈祖存命中)に皇太子への冊立を複数回固辞した記事があるが、これは本人による辞退であって廃立ではないためカウント対象外。皇太弟景遂の解任(晉王への降格)のみを廃立1回として計上した。

親征回数

在位期間(943-958年)中の全軍事行動を精査したが、元宗(景)自身が軍を率いて戦場に赴いた記録は見当たらない。虔州の張遇賢討伐(厳思・辺鎬に委任)、閩国征服(査文徽らに委任)、楚国征服(辺鎬に委任)、後周世宗の南征への対応(劉彦貞・劉仁贍・陳覚・辺鎬・許文縝・景達[弟]らに委任)はいずれも将軍・皇族への派遣であり、皇帝自身の親征ではない。「世宗親征」の記述はあるが、これは後周世宗を指し元宗ではない。

反乱鎮圧回数

rebellionSufferedCountと同一の2件を計上(両者は同一の反乱群を両面から集計)。張遇賢の乱の首謀者の出自(南漢系)ゆえに確信度medium。

被反乱回数

張遇賢の乱は首謀者が南唐の元来の服属民ではなく嶺南(南漢)出身である点で純粋な「服属民の反乱」とはやや性質が異なるため確信度medium。楚地反乱(劉言)は新規服属地の将による明確な反乱で確信度は高い。両者とも対等勢力(十国間の統一戦争)ではなく南唐自身の統治領域内での武装蜂起である点を重視して計上した。

遷都回数

十国春秋を通読。皇帝号を保持した期間(943-958年)に正式な遷都の記録はない。958年に後周へ称臣し皇帝号を返上した後、961年に洪州(南都)・金陵間を移動した記録があるが、この期間は本データセットの追跡対象(皇帝号保持期間)外のため本カウントには含めない。

即位時年齢・没年齢

『十国春秋』巻十六(南唐二・元宗本紀)「帝殂于長春殿…年四十六」、『陸游南唐書』巻二にも「庚申,殂于長春殿…年四十六」と明記(建隆二年=961年六月庚申)。生年月日の直接記載は原文になし。即位時年齢は、直接記載された崩御時年齢(46歳、961年)と即位年(保大元年=943年)との年号差18年から数え年で算出:46-18=28歳(wei-mingdi等既存レコードと同一の逆算方式)。逆算による生年(916年頃)はbirthDateとしては採用せず未確定のまま。

在位中の出来事(12件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元943年3月保大元年三月己卯朔、烈祖崩御後、即位と同時に建元し年号を「保大」と定めた(即位に伴う最初の建元)。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

大赦943年3月保大元年三月己卯朔、烈祖崩御の後、即位当日に「是日卽皇帝位,大赦境內,改元保大」と即位に伴う全国規模の大赦を実施(改元「保大」と同時)。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

立后943年3月保大元年三月、即位直後に妃・鍾氏(後の光穆皇后)を皇后に冊立(「尊皇后爲皇太后,立妃鍾氏爲皇后」)。

保大元年三月、即位直後に妃・鍾氏(後の光穆皇后)を皇后に冊立(「尊皇后爲皇太后,立妃鍾氏爲皇后」)。元宗本紀中に他の立后・廃后・再冊立の記述は見当たらず、皇后は在位中この1名のみ。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

反乱鎮圧943年10月張遇賢の乱(虔州侵攻)

首謀者: 張遇賢

結果: 鎮圧成功

景は洪州営屯虞候の厳思・通事舎人の辺鎬に命じて出兵させ、張遇賢の軍を攻撃。神託が途絶えたことで反乱軍が動揺し、その配下自身が張遇賢を捕縛して投降した。皇帝側(南唐)が鎮圧の主体。

被反乱943年10月張遇賢の乱(虔州侵攻)

首謀者: 張遇賢

結果: 鎮圧成功(首魁捕縛・投降)

保大元年冬十月、もと嶺南(南漢領循州)の小吏だった張遇賢が神託を受け反乱軍を率い「中天八国王」を自称、南唐領虔州に侵入し南康を陥落させ節度使賈浩を撃退、白雲洞に拠って宮室を築き衆十余万を擁して諸県を陥した。南唐の統治領域内で発生・展開した武装蜂起であり、南唐の官(虔州節度使賈浩)に対する直接的な軍事的脅威となったため被反乱として計上(首謀者自体は元は南唐の服属民ではなく嶺南出身だが、南唐領内に侵入・占拠し南唐の地方統治を脅かした点を重視)。

大赦950年1月保大八年正月、日食・地震・星孛等の災異続発を受けた詔で「咎將誰執,在予一人,其大赦境內,窮民無告者咸賜粟帛」と全国規模の大赦を実施。

保大八年正月、日食・地震・星孛等の災異続発を受けた詔で「咎將誰執,在予一人,其大赦境內,窮民無告者咸賜粟帛」と全国規模の大赦を実施。この詔の全文は『十国春秋』にのみ引かれており、『陸游南唐書』『馬令南唐書』の同年条には該当の大赦の明記が見当たらないため、この1件のみ他書と未照合(他の2件は複数史料で確認済)。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)

反乱鎮圧952年楚地(湖南)反乱

首謀者: 劉言

結果: 鎮圧失敗(辺鎬は支えきれず敗走、南唐は湖南を喪失)

南唐が任命した湖南節度使辺鎬が劉言の攻撃を受け、防衛できず敗走・撤退した。南唐側が鎮圧主体として応戦を試みたが失敗し、以後湖南は南唐の実効支配から外れた。

被反乱952年楚地(湖南)反乱

首謀者: 劉言

結果: 鎮圧失敗(南唐は湖南の支配権を喪失)

保大十年、前年に征服したばかりの楚(湖南)の地で、宰相馮延巳の重税policy により民衆が怨嗟し反乱、楚の旧将劉言が南唐の湖南節度使辺鎬を攻撃、辺鎬は支えきれず敗走した。南唐が新たに獲得した服属地の民・将による武装蜂起であり被反乱として計上。

改元958年1月中興元年正月、「保大」から改元し「中興」と改元。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

改元958年3月同年三月壬午朔、「中興」からわずか2ヶ月で再び改元し「交泰」と改元。

同年三月壬午朔、「中興」からわずか2ヶ月で再び改元し「交泰」と改元。改元時点ではまだ皇帝を称していた(帝号廃止・「唐国主」への降格および後周「顕德」年号の奉戴は同年5月)。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

大赦958年3月交泰元年三月壬午朔、正月の「中興」改元に続き「大赦境內,改元交泰」と全国規模の大赦を実施(改元「交泰」と同時)。

交泰元年三月壬午朔、正月の「中興」改元に続き「大赦境內,改元交泰」と全国規模の大赦を実施(改元「交泰」と同時)。この時点ではまだ「皇帝」を称しており(帝号廃止・後周「顕德」年号奉戴は同年五月)、皇帝在位中の出来事。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

皇太子廃立958年3月交泰元年三月、保大五年二月に「皇太弟」に冊立されていた斉王景遂を「晉王」に降格・改封し、代わって燕王冀(弘冀)を「皇太子」に立てた(「封皇太弟景遂爲晉王…立燕王冀爲皇太子」)。

交泰元年三月、保大五年二月に「皇太弟」に冊立されていた斉王景遂を「晉王」に降格・改封し、代わって燕王冀(弘冀)を「皇太子」に立てた(「封皇太弟景遂爲晉王…立燕王冀爲皇太子」)。法定推定継承者であった皇太弟の地位を剥奪した事例として1回と計上。皇帝在位中(帝号廃止は同年5月)の出来事。

出典: 十国春秋 巻十六(南唐二・元宗本紀)/陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

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