中国皇帝統計

殤帝・劉玢

南漢(五代十国)|在位 942–943年

諱(本名)
劉玢
在位
942–943年
在位期間
309日365名中304位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
23歳(数え年)172名中・若い順89位タイ
没年齢
24歳(数え年)269名中・長寿順216位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

父帝は一時、序列を無視して弟の越王昌を立てようとしたが萧益の諫言により阻止され、結局兄達の死没により順当な継承順位にあった劉玢が即位。

出典: 十国春秋 巻58(南漢殤帝本紀)

死因の経緯

実行犯(力士・陳道庠ら)を差し向けたのは弟の晋王熙(後の中宗劉晟)であり、同じ劉氏南漢政権内部の身内による謀殺。宴席で泥酔させ絞め殺した。

出典: 十国春秋 巻58(南漢殤帝本紀・中宗本紀)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

殤帝は父高祖の崩御と同日に即位し即座に改元しており、王等の身分を経てからの即位という2段階即位パターンには該当しない(一貫して皇帝としての即位)。在位期間全体を通じて改元は即位時の光天建元1回のみ。

大赦回数

殤帝の在位期間(光天元年三月〜光天二年三月)の記事を『十国春秋』巻五十九(殤帝本紀)・『新五代史』南漢世家の双方で通読したが、「大赦」「大赦天下」等の語は殤帝自身の治世の記事中に見当たらない。父高祖代(大有改元時)や弟中宗代(乾和改元・南郊祀天時の大赦)の記事は別の治世の出来事のため対象外。

立后回数

殤帝の在位期間の記事(十国春秋巻五十九・新五代史南漢世家)に立后に関する記述はなく、皇后名も伝わらない。在位わずか1年弱(大有十五年四月即位〜光天二年三月殺害)で暗殺されたため、立后の記録自体が存在しない。

皇太子廃立回数

殤帝在位期間中に皇太子を立てた記述自体が原典(十国春秋巻五十九・新五代史南漢世家)に見当たらず、当然ながら廃立の記録もない。なお高祖晩年に右僕射王翻が越王昌(後の中宗の弟)を皇太子に立てる案を進言したが崇文使萧益の諫言により沙汰止みとなった経緯があるが、これは高祖代末期の出来事であり殤帝自身が皇太子を立てて廃した事例ではないため対象外。

親征回数

殤帝在位中(光天元年四月〜光天二年三月)に皇帝自身が親征した記録は原典(新五代史南漢世家・十国春秋巻五十九)に見当たらない。妖人張遇賢の乱に対しては越王洪昌・循王洪杲を派遣したのみで、殤帝自身が軍を率いて出陣した記述はない。

反乱鎮圧回数

在位中に確認できる反乱鎮圧事案は張遇賢の乱1件のみ。派遣した王族らは軍事行動(攻撃・包囲戦)に着手しているため、結果的に鎮圧未完了・乱の拡大に終わったが「鎮圧の主体は皇帝側」であり成否を問わず計上する。

被反乱回数

被反乱事案は張遇賢の乱(服属民の反乱、鎮圧側とも計上)と弟らによる弑逆クーデター(鎮圧主体が皇帝側でないためsufferedのみ計上)の2件。両者は性質の異なる別事件であり合算しない。

遷都回数

十国春秋を通読。一貫して広州(興王府)が都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

『十国春秋』巻五十九(殤帝本紀)「帝立二年年二十四謚曰殇」、『新五代史』南漢世家「玢立二年,年二十四,谥曰殇」のいずれも崩御時の享年(数え年)を「年二十四」と明記(高信頼)。崩御日は光天二年三月丙戌で、既存reigns.endDateの西暦換算「0943-04-15」を採用。即位(大有十五年四月二十四日=0942-06-10)から崩御(光天二年三月丙戌=0943-04-15)までの間に光天二年の正月(旧暦新年)を1回跨いでいるため、数え年は即位時点より1つ若いと推定し、accessionAge=23と逆算した(直接記載なし、推定のため確信度medium)。生年月日の直接記載は原典に見当たらないためbirthDateはnull。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元日付不詳即位に伴う建元。

即位に伴う建元。先代高祖の大有十五年を光天元年に改元。原文「由是髙祖晏驾度即皇帝位更今名改大有十五年为光天元年」(十国春秋巻五十九・殤帝本紀)。新五代史南漢世家も「更名玢,改元曰光天」と一致して記す。光天二年三月に暗殺されるまでの在位中、他の改元記事は確認できない。

出典: 十国春秋 巻五十九(南漢二・殤帝本紀)

反乱鎮圧日付不詳張遇賢の乱(自称中天八国王)

首謀者: 張遇賢

結果: 鎮圧失敗・在位終了時点で未解決。越王洪昌・循王洪杲を派遣して攻撃させたが、張遇賢に銭帛館で包囲され、裨将万景忻・陳道庠の力戦でようやく囲みを破って脱出した。殤帝はこれに対処できず、嶺東一帯(広東東部)が乱れたまま在位を終えた。

原文「妖人張遇賢,自称中天八国王,攻陥循州。玢遣越王洪昌、循王洪杲攻之,遇賢囲洪昌等於銭帛館,裨将万景忻、陳道庠力戦,挟二王溃囲而走。玢莫能省,岭东皆乱」(新五代史 南漢世家、十国春秋巻五十九にほぼ同文)。循州は南漢領内の州であり、張遇賢は南漢の統治下にあった民が僭称した反乱首謀者(服属民の反乱)にあたるため計上。殤帝自身は出陣せず将(王族)を派遣したのみのため、personalCampaignCountには含めない。

被反乱日付不詳張遇賢の乱(自称中天八国王)

首謀者: 張遇賢

結果: 未鎮圧のまま殤帝の在位終了(殤帝は光天二年三月に別の政変で死去、乱への対処は完了せず嶺東一帯が乱れたまま)。

rebellionSuppressionCountの張遇賢の乱と同一事件。循州の服属民による反乱で、身分・規模を問わず被反乱側にも計上する。

被反乱日付不詳晋王洪熙(弟、後の中宗劉晟)らによる弑逆クーデター

首謀者: 晋王洪熙(越王洪昌・循王洪杲も共謀)

結果: 成功(弑逆)。長春宮の観覧の宴で殤帝が酔って席を立った隙に、陳道庠・劉思潮らが寝所まで追って絞殺し、左右の側近も皆殺しにした。晋王洪熙が即位し中宗となった。

既存deathCauseフィールドと同一事件。原文「洪熙日益進声妓誘玢為荒恣。玢亦頗疑諸弟図己,敕宦官守宮門,入者皆露索。洪熙、洪杲、洪昌陰遣陳道庠養勇士劉思潮、譚令禋、林少強、少良、何昌廷等,習為角牴以獻玢。玢宴長春宮以閲之,玢醉起,道庠與思潮等隨至寝門拉殺之,尽殺其左右」(新五代史 南漢世家)。朝廷内部の権力者(皇弟ら)による兵力(陳道庠が養った力士集団)を伴う弑逆クーデターであり、鎮圧の主体が皇帝側ではないためrebellionSuppressionCountには計上しない(該当パターン4)。次代皇帝(中宗)の即位前の行為はaccessionRoute領域だが、殤帝側から見れば自身の在位中に受けた被弑逆事案としてsufferedCountに計上する。

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