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南漢(五代十国)第3代

殤帝劉玢

在位 942–943年(309日)942年6月10日 〜 943年4月15日

日本は平安時代

南漢の高祖劉龑の子で、父の死後に即位し、弟の晋王洪熙らの差し向けた者に殺された皇帝である。

殤帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 942年6月10日〜943年4月15日
309日長い順299位/365人23歳で即位(数え年)
没年
943年4月15日24歳(数え年)長生き順同率213位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 高祖南漢殤帝は高祖の子
次代
  • 中宗南漢中宗は殤帝の弟
呼び名
姓劉諱玢幼名寿呼び名の見方

出典

在位
資治通鑑 巻283(後晋紀三・天福七年)/巻284(後晋紀四・天福八年)/新五代史 巻六十五 南漢世家第五
死因
十国春秋 巻59(南漢殤帝本紀)
即位経路
十国春秋 巻59(南漢殤帝本紀)

生涯

どんな皇帝か

新五代史は即位すると任に堪えなかったと書く。十国春秋の蕭益らの伝の論は、殤帝と中宗はともに淫暴だったという論者の言を引き、年長の者を立てるのが正しい義だと結ぶ。

即位まで

南漢の高祖劉龑の子で、初名を洪度といい、秦王に封じられた。934年、を預かると市井の無頼の子弟をに募って親しみ、宰相の楊洞潜が諫めても、父は子どもに軍事を教えているだけだと取り合わなかった。病床の父は、洪度と洪熙は年長だが任に堪えないとして洪昌を立てようとしたが、蕭益が年長の者を立てるべきだと諫めた。942年に父が没すると洪度が即位し、名を玢と改めた。

史料について

父が洪昌を立てようとしたわけを、新五代史と十国春秋の越王昌伝は二人が任に堪えないからとし、資治通鑑は二人の驕りを見たからとする。

治世と最期

父の殯のうちからに楽を奏でさせて酒を飲み、喪服のまま娼婦を連れて夜に民家へ出入りした。意に逆らえば殺されたので左右は誰も諫めず、越王洪昌との呉懐恩だけがたびたび諫めたが聞かれなかった。

942年に張遇賢が背き、討伐の弟たちは包囲されてようやく逃れ、張遇賢は循州を落とした。

晋王洪熙は声妓を進めて荒淫に誘い、玢は弟たちが自分を狙うと疑って宦官に宮門を守らせ、入る者を裸にして調べさせた。玢がを好むので、洪熙は陳道庠に命じて力士に稽古させ、玢はそれを聞いて喜んだ。943年、長春宮でと宴して手搏を観て大酔したところを、陳道庠や劉思潮らに殺された。翌朝、洪昌が弟たちを率いて寝殿に臨み、洪熙を迎えて即位させた。

史料について

力士に稽古を命じたのを、新五代史は洪熙・洪杲・洪昌の三人とする。殺し方を、資治通鑑と十国春秋は両脇を抱えて殺したとし、新五代史は寝所の門までついて行って殺したとする。張遇賢の乱を、新五代史は循州が落ちたのを先に書く。洪熙を迎えた洪昌を、十国春秋の越王昌伝は兵を率いたとする。

殤帝とつながる皇帝

五代十国の勢力図(942年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

942–943年の地図に、殤帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・改元1
  1. 改元942年元号を「光天」とする
  2. 反乱日付不詳張遇賢の乱(自称中天八国王)
  3. 反乱日付不詳晋王洪熙(弟、後の中宗劉晟)らによる弑逆クーデター

南漢の歴代皇帝

歴代5人の一覧
  1. 第1代劉隠皇帝を名乗っていない905頃–911年

年表

五代十国の時代を年表で見る

南漢が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

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