中国皇帝統計

中宗・劉晟

南漢(五代十国)|在位 943–958年

諱(本名)
劉晟
在位
943–958年
在位期間
15年159日365名中85位
即位経路
簒奪
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

兄・殤帝を暗殺した張本人(晋王熙=劉晟)が自ら即位した事案であり、単なる兄弟継承ではなく実力による簒奪。即位後も弟の越王昌ら王族を次々に粛清している。

出典: 十国春秋 巻58-59(南漢中宗本紀)

死因の経緯

「帝殂」とのみ記され暴力性を示す記述はない。晩年の連夜の暴飲が示唆されるが明確な死因記載はなく病死と判定。

出典: 十国春秋 巻59(南漢中宗本紀)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

十国春秋・中宗本紀(巻五十九)および新五代史・南漢世家第五(巻六十五)の双方で、即位時の光天二年→応乾元年、および同年内の応乾→乾和への改元が確認できる(新五代史「晟…既弑玢遂自立改元曰応乾…冬晟祀天南郊改元曰乾和」)。以後崩御(乾和十六年)まで改元の記述はなく、乾和年号が継続使用された。中宗は殤帝弑殺による簒奪的な皇帝直接即位であり、王として先行統治してから皇帝を称する二段階即位パターンには該当しないため【皇帝即位前】等の注記は付していない。

大赦回数

十国春秋・中宗本紀(巻五十九)を通読し「大赦」と明記された記事を全て確認した。上記2件のみで、地域限定・部分的な恩赦の記述はない。新五代史・南漢世家(巻六十五)にも矛盾する記述はない(新五代史は改元の記事のみで「大赦」の語は明記していないが、十国春秋の記述と抵触しない)。次代・後主(劉鋹)による大宝二年の「祀圓丘大赦」は中宗の治世外のため本カウントに含めていない。

立后回数

十国春秋・南漢四列伝(巻六十一)の目次構成では「高祖皇后馬氏」に対し「中宗」の項は「丽姫李氏」「李蟾妃」といずれも妃嬪の身分で立伝されており、「皇后」の語は付されていない。本文(丽姫李氏伝)でも「中宗之幸姫也」とあるのみで冊立の記述はない。中宗本紀(巻五十九)本文中にも立后・廃后に関する記事は一切見当たらず、新五代史・南漢世家(巻六十五)にも中宗の皇后に関する記述はない(同世家で「皇后」の語が明記されるのは高祖の馬氏のみ)。以上より皇后不在と判断し0回とした。

皇太子廃立回数

中宗(劉晟)は乾和十一年(953年)に病が篤くなった際、長子・継興を衛王、以下璇興を桂王、慶興を荊王、保興を祯王(新五代史では祥王)、崇興を梅王に封じたのみで、いずれも「王」号であり「皇太子」を立てた記述は十国春秋・新五代史のいずれの中宗本紀にも見られない。南漢では高祖以来、皇太子を正式に冊立する慣行自体が確認できず(十国春秋・南漢四列伝の目次でも「中宗子桂王璇興」等すべて王号で立伝)、廃立の対象となる皇太子が存在しないため0回と判定した。

親征回数

新五代史・南漢世家(劉晟条)を通読。楚(湖南)・南唐との交戦(貴州・桂州・郴州方面)はいずれも呉珣・呉怀恩・潘崇彻ら将軍への「遣」による派遣戦であり、皇帝自身が軍を率いて出陣した記述は皆無。「亲征」「自将」「帅兵」等の直接記述も見当たらない。よって0件と判定。

反乱鎮圧回数

在位中(乾和元年~十六年)の軍事行動はすべて楚・南唐という対等な独立勢力(十国)との統一戦争であり、服属民・臣下による武装蜂起は本紀中に確認できない。三年条の陳道庠・鄧伸の一件は謀反を疑われ処刑されたのみで実際の挙兵には至っておらず(密告・摘発のみで終わった謀反計画は除外基準に該当)計上しない。よって0件。

被反乱回数

劉晟は在位中に廃位・弑逆されておらず(「帝殂」で自然死)、臣下・将軍による兵力を伴うクーデターの記述も本紀中に確認できない。三年条の陳道庠・鄧伸の疑獄も実際の挙兵に至っていないため対象外。楚・南唐との交戦は対等勢力間の統一戦争であり被反乱に含めない。よって0件。

遷都回数

十国春秋を通読。一貫して広州(興王府)が都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

十国春秋 巻五十九(南漢中宗本紀)乾和十六年条「秋八月辛巳帝殂年三十九」により没年齢39歳が明記されている。没月日は干支まで記載があるが西暦日換算は行わず月精度(958年8月)とした。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中に見当たらず不明。既存データを再検証のうえ踏襲。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元943年3月光天二年(943年)三月、兄・殤帝(劉玢)が弑殺された翌朝、晋王熙(=劉晟)が皇帝に即位すると同時に、その年(光天二年)の元号を「応乾元年」と改めた。

光天二年(943年)三月、兄・殤帝(劉玢)が弑殺された翌朝、晋王熙(=劉晟)が皇帝に即位すると同時に、その年(光天二年)の元号を「応乾元年」と改めた。「即皇帝位更今名改光天二年為応乾元年」(十国春秋・中宗本紀)。即位に伴う最初の建元。

出典: 十国春秋 巻五十九(南漢中宗本紀)

改元943年11月応乾元年(=干和元年)十一月丁亥、南郊にて天を祀り大赦を行うとともに「改元干和」と改元。

応乾元年(=干和元年)十一月丁亥、南郊にて天を祀り大赦を行うとともに「改元干和」と改元。即位から同年内の再改元。「十一月丁亥祀天南郊大赦改元干和群臣上尊号」(十国春秋・中宗本紀)。以後「乾和十六年」(958年)崩御まで乾和年号を継続使用。

出典: 十国春秋 巻五十九(南漢中宗本紀)

大赦943年11月応乾元年(=乾和元年)十一月丁亥、南郊にて天を祀り「大赦」、あわせて改元して乾和とした一連の記事。

応乾元年(=乾和元年)十一月丁亥、南郊にて天を祀り「大赦」、あわせて改元して乾和とした一連の記事。「十一月丁亥祀天南郊大赦改元干和」(十国春秋・中宗本紀)。

出典: 十国春秋 巻五十九(南漢中宗本紀)

大赦953年9月乾和十一年九月、病篤くなり諸子(継興・璇興・慶興・保興・崇興)をそれぞれ王に立てた直後、癸亥の日に「大赦」。

乾和十一年九月、病篤くなり諸子(継興・璇興・慶興・保興・崇興)をそれぞれ王に立てた直後、癸亥の日に「大赦」。「秋九月帝寝疾立子継興為衛王…癸亥大赦」(十国春秋・中宗本紀)。

出典: 十国春秋 巻五十九(南漢中宗本紀)

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