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南漢(五代十国)第4代

中宗劉晟

在位 943–958年(15年155日)943年4月16日 〜 958年9月18日

日本は平安時代

南漢の高祖劉龑の子で、兄の殤帝を殺させて即位し、弟たちを次々に殺した皇帝である。

中宗の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 943年4月16日〜958年9月18日
15年155日長い順84位/365人即位の年齢は不詳
没年
958年9月18日39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 殤帝南漢中宗は殤帝の弟
次代
  • 後主南漢後主は中宗の子
呼び名
姓劉諱晟幼名俊呼び名の見方

出典

在位
新五代史 巻六十五 南漢世家第五/資治通鑑 後晉紀四 天福八年三月(即位)/資治通鑑 後周紀五 顯德五年八月・十一月(崩御・葬)
死因
十国春秋 巻59(南漢中宗本紀)
即位経路
十国春秋 巻58-59(南漢中宗本紀)

生涯

どんな皇帝か

新五代史の欧陽脩は、性質が剛く猜忌深く、臣下に任せられず、の林延遇や宮婢の盧瓊仙らだけに任せたと評する。

即位まで

南漢の高祖劉龑の子で、初名を洪熙といい、晋王に封じられた。病床の父は、洪度と洪熙を年長だが任に堪えないとして洪昌を立てようとしたが、蕭益に諫められて取りやめた。兄の洪度が即位すると政を補佐し、声妓を進めて荒淫に誘った。943年、兄がを観て酔ったところを、陳道庠や劉思潮らに殺させた。翌朝、洪昌が弟たちを率いて迎えると即位し、名を晟と改めた。

史料について

父が洪昌を立てようとしたわけを、新五代史は二人が任に堪えないからとし、資治通鑑は二人の驕りを見たからとする。兄を殺させたのを、新五代史は晟と洪杲・洪昌の三人が陳道庠に力士を養わせたとする。

治世と最期

兄を殺して立ったので、従わない者を恐れて刑法を厳しくした。劉思潮らの誅殺を請うた弟の循王洪杲は殺された。944年には、父が立てようとしたので晟が最も忌んだ越王洪昌を陵へ詣でさせて途中で盗に殺させ、邕州で善政のあった鎮王洪沢も、鳳凰が現れた年に毒殺させた。945年には劉思潮らと、かつて洪昌を立てようと謀った王翻を殺し、内外は皆わが身を危ぶんだ。

947年には弟8人を同じ日に殺し、その男子もことごとく殺して娘は後宮に入れた。煮え湯や鉄の寝台の刑を設けて生地獄と号した。夜に大酔しての首に瓜を置いて剣で斬り、翌朝に醒めて呼ぶと殺したと告げられ、嘆息しただけだった。弟たちを滅ぼした謀はすべて宦官の林延遇から出たもので、955年に通王を殺すと、高祖の子は尽きた。

948年、求婚を楚の馬希広に断られると怒り、希広は懦弱で吝嗇だ、今こそ進取の時だと言って、のちに賀州を攻め取った。周に南唐が敗れたと聞くと恐れて入貢しようとしたが阻まれ、戦艦を整えて備えたが、やがて酒に耽り、わが身が免れれば幸いだ、後の世まで考える暇はないと言った。958年に没し、子の鋹が立った。

史料について

洪杲の死を、資治通鑑は思潮らが宴の席に突入して斬ったとし、新五代史は晟に召されて殺されたとする。鳳凰と善政は新五代史にあり、資治通鑑は毒殺だけを書く。王翻を殺したわけは資治通鑑にある。弟8人を殺したわけを、資治通鑑は自分の子と国を争うのを恐れたためとし、新五代史は書かない。瓜の件を、新五代史は951年の後、資治通鑑は947年に置く。後の世の言葉は資治通鑑にある。

中宗とつながる皇帝

五代十国の勢力図(943年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

943–958年の地図に、中宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元2・大赦2
  1. 改元943年4月元号を「応乾」とする
  2. 改元943年12月元号を「乾和」とする
  3. 943年12月
  4. 953年

南漢の歴代皇帝

歴代5人の一覧
  1. 第1代劉隠皇帝を名乗っていない905頃–911年

年表

五代十国の時代を年表で見る

南漢が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「簒奪」の28名をデータベースで見る

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