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南漢(五代十国)第2代

高祖劉龑

在位 917–942年(24年278日)917年9月5日 〜 942年6月10日

日本は平安時代

兄の劉隠を継いで南海を治め、917年に帝を称して南漢を開いた皇帝である。

高祖の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 南海王913年〜917年
  • 皇帝917年9月5日〜942年6月10日
24年278日長い順38位/365人皇帝になった年齢は不詳
没年
942年6月10日54歳(数え年)長生き順同率62位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 劉隠高祖は劉隠の弟
次代
  • 殤帝南漢殤帝は高祖の子
呼び名
姓劉諱龑呼び名の見方

出典

在位
新五代史 巻六十五 南漢世家第五/資治通鑑 巻二百七十(後梁紀五・貞明三年八月)・巻二百八十三(後晋紀四・天福七年四月)
死因
新五代史 巻65(南漢世家第五)
即位経路
新五代史 巻65(南漢世家第五)

生涯

どんな皇帝か

資治通鑑は物事をよく見分け権謀に富むが自らを誇るのを好んだとまとめ、旧五代史の劉陟伝は聡明で弁が立つが苛虐を好み、奢侈を極めたと書く。

即位まで

劉謙のとして家の外で生まれた。嫉妬した父の妻の韋氏は剣を抜いて殺そうとしたが、赤子を見ると怯えて剣を落とした。生母の段氏は殺され、劉龑は韋氏の子として育った。兄の劉隠のもとでとなり、911年に隠が没すると位を継いだ。銭鏐が呉越王に封じられたと聞くと、中原は多事で誰が真の主かもわからない、万里を越えて偽の朝廷に仕えられようかと嘆いた。917年に帝位に即いて国号を大越とし、翌年に漢と改めた。建国を告げられた王定保が、南門にまだ清海軍の額が掛かっていると言うと、劉龑は笑って、そしられるのも当然だと言った。

史料について

隠の死を、旧五代史は910年とする。旧五代史は、国号を初めから大漢とする。

治世と最期

唐の名門の出で帰りたがった宰相の趙光裔に、筆跡をまねた手紙で洛陽から家族を呼び寄せてやり、光裔は以後心を尽くした。家はもと咸秦の出だと称して蛮夷の王であることを恥じ、中原の唐の天子を洛州と呼んだ。930年、交趾で捕らえた曲承美が南海に着くと、いつも偽の朝廷と言っていたのに後ろ手に縛られているのはどうしたことかと言い、罪に服した承美を赦した。

聡明だが苛酷で、支解などの刑を設け、毒蛇を放った水に罪人を投じるもあり、人を殺すのを見ると喜びを抑えられなかった。南海の珠玉を集めて奢侈を極め、晩年には玉堂珠殿を建てた。晩年はとりわけ猜疑が強く、士人は子孫のことを考えるとしてをもっぱら任じ、国中で宦官が大いに盛んになった。

病床で、洪度と洪熙は年長だが事業を任せるに足りないとして、洪昌を立てようとした。しかし蕭益に、年少の者が立てば年長の者が争うと諫められ、洪度が後を継いだ。942年に没した。

史料について

趙光裔の名を、新五代史はこの箇所で光胤と書く。後継の件を、資治通鑑は二子の驕りを理由とし、蕭益が嫡は長を立てるものだと答えて取りやめたとする。死を、旧五代史は病によるとし、新五代史は卒とだけ書く。

高祖とつながる皇帝

五代十国の勢力図(917年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

917–942年の地図に、高祖が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元3・大赦4
  1. 改元917年9月元号を「乾亨」とする
  2. 917年9月番禺にて皇帝即位(国号大越)と同時に大赦。
  3. 918年
  4. 皇后919年越国夫人馬氏(楚王馬殷の娘)を皇后に冊立。
  5. 改元926年元号を「白龍」とする
  6. 改元928年元号を「大有」とする
  7. 928年
  8. 反乱931年楊廷藝の反乱(愛州・交州の離反)
  9. 937年帝が病気快復したことにより大赦。

南漢の歴代皇帝

歴代5人の一覧
  1. 第1代劉隠皇帝を名乗っていない905頃–911年

年表

五代十国の時代を年表で見る

南漢が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

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