中国皇帝統計

高祖・劉龑

南漢(五代十国)|在位 917–942年

諱(本名)
劉龑
在位
917–942年
在位期間
24年284日365名中38位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
54歳(数え年)269名中・長寿順63位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

乾亨元年8月16日、皇帝に即位、国号「大越」(翌年「漢」に改称)。既存政権からの禅譲・継承ではなく新規建国。

出典: 新五代史 巻65(南漢世家第五)

死因の経緯

大有15年4月24日崩御。既存の在位ノート・史料に暴力的な死を示す記述はなく、南漢建国者として比較的長期の治世(917-942年)を終えての崩御。

出典: 新五代史 巻65(南漢世家第五)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

高祖劉龑(初名巌→陟→龑、龑への改名は白龍改元と同時)は皇帝即位に伴う建元(乾亨)を含め、在位中に計3回改元した(乾亨→白龍→大有)。乾亨二年の国号「大越」→「漢」への変更は国号変更であり改元ではないため計上していない。なお即位前は清海軍節度使・南平王として後梁の元号(開平・乾化・貞明)を奉じており、独自の元号は持っていなかったため2段階即位パターンには該当しない。

大赦回数

十国春秋高祖本紀は新五代史南漢世家より詳細で、大赦の回数がより多く明記されている。両史料に共通する乾亨二年・大有元年(白龍四年)分に加え、即位時(乾亨元年)と病気快復時(大有十年)の大赦が十国春秋にのみ記録されているため、これを採用し計4回とした。

立后回数

確認できる立后は乾亨三年の馬氏冊立の1回のみ。馬后死去(大有七年)後の再冊立の記録は本紀中に見当たらない。

皇太子廃立回数

高祖在位中に正式な皇太子冊立の記録はない。崩御直前の大有十五年(942年)三月、王翷の進言により、当時既定の後継者だった秦王度(後の殤帝玢)を邕州に、晋王熙(後の中宗晟)を容州に出し、越王昌を新たに太子に立てる計画が一度は定まった(「議已定」)が、崇文使蕭益が「立嫡以長」の原則を強く主張して諫めたため、この計画は実行前に中止された(「遂止」)。結果として度がそのまま後継者の地位を保ったため、正式な皇太子の廃立には該当しない。

親征回数

在位中の軍事行動(楚との封州攻防戦、交趾(曲承美)征服、蒙州攻撃、交州(楊廷藝・皎公羨・呉権)への介入等)はいずれも将軍または皇子(洪操)を派遣して行われ、高祖自身が親征した記録は原文中に見当たらない。

反乱鎮圧回数

原文(新五代史巻65・南漢世家)を通読した限り、在位中に皇帝側が鎮圧主体となった服属民の反乱は楊廷藝の一件のみ。937年の皎公羨・呉権をめぐる交州出兵は、楊廷藝の反乱鎮圧失敗(931年)後に交州が事実上独立状態にあったと解されるため、対等勢力への外征として除外した(判断はやや解釈を要するため confidence は medium とした)。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一の反乱1件のみを計上。粒度・除外理由もsuppression側と共通。

遷都回数

十国春秋を通読。一貫して広州(興王府)が都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

十国春秋巻五十八(高祖本紀)・新五代史巻65(南漢世家)とも崩御時に「年五十四」と明記(大有十五年三月丁丑殂、942年)。生年月日・即位時年齢は原文に直接記載なく不明(逆算で889年頃生・即位時28歳前後と推定できるが原文明記ではないため未計上、既存データを踏襲)。

在位中の出来事(10件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元917年8月【皇帝即位(改元同時)】乾亨元年秋八月癸巳、皇帝に即位し国号を「大越」と定めると同時に建元し「乾亨」とする。

【皇帝即位(改元同時)】乾亨元年秋八月癸巳、皇帝に即位し国号を「大越」と定めると同時に建元し「乾亨」とする。「王即皇帝位於番禺、國號大越、大赦、改元乾亨」。翌年(乾亨二年)に国号を「漢」に改めるが、これは国号変更であり改元ではないため本項には計上しない。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)/新五代史 巻65(南漢世家第五)

大赦917年8月乾亨元年秋八月癸巳、番禺にて皇帝即位(国号大越)と同時に大赦。

乾亨元年秋八月癸巳、番禺にて皇帝即位(国号大越)と同時に大赦。「大赦改元乾亨」。新五代史(南漢世家)には即位時の大赦記載はなく、より詳細な十国春秋のみに明記。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)

大赦918年11月乾亨二年冬十一月、南郊にて天を祀り大赦、国号を「漢」に改める(国号変更で改元ではない)。

乾亨二年冬十一月、南郊にて天を祀り大赦、国号を「漢」に改める(国号変更で改元ではない)。「帝祀南郊大赦改国号曰漢」。新五代史巻65にも「祀天南郊、大赦境内、改国号漢」と対応する記事あり。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)/新五代史 巻65(南漢世家第五)

立后919年1月乾亨三年春正月、越国夫人馬氏(楚王馬殷の娘)を皇后に冊立。

乾亨三年春正月、越国夫人馬氏(楚王馬殷の娘)を皇后に冊立。「冊立越国夫人馬氏為皇后」。新五代史巻65にも「三年、冊越国夫人馬氏為皇后」と対応記事あり。馬皇后は大有七年(934年)冬十二月に死去したが、高祖在位中に新たな立后の記録はない。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)/新五代史 巻65(南漢世家第五)

改元925年12月【皇帝在位中】乾亨九年冬十二月、南宮三清殿に白虹が白龍と化して現れた瑞祥により、乾亨九年を改めて白龍元年とする。

【皇帝在位中】乾亨九年冬十二月、南宮三清殿に白虹が白龍と化して現れた瑞祥により、乾亨九年を改めて白龍元年とする。「帝改乾亨九年為白龍元年」。同時に自らの名を「龑」(音「儼」)に改名。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)/新五代史 巻65(南漢世家第五)

改元928年3月【皇帝在位中】白龍四年(=大有元年)三月、楚の水軍侵攻に際し周易で「大有」の卦を得たことにより大赦・改元、大有と改める。

【皇帝在位中】白龍四年(=大有元年)三月、楚の水軍侵攻に際し周易で「大有」の卦を得たことにより大赦・改元、大有と改める。「以周易筮之、遇大有、於是大赦改元」。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)/新五代史 巻65(南漢世家第五)

大赦928年3月白龍四年(=大有元年)三月、楚の水軍が封州を攻めた際、周易で「大有」の卦を得て大赦、大有と改元。

白龍四年(=大有元年)三月、楚の水軍が封州を攻めた際、周易で「大有」の卦を得て大赦、大有と改元。「於是大赦改元」。新五代史では「遂赦境内、改元曰大有」と「大」の字を欠くが、より詳細な十国春秋の記述を採用。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)

反乱鎮圧931年楊廷藝の反乱(愛州・交州の離反)

首謀者: 楊廷藝

結果: 鎮圧失敗。大有四年、愛州の楊廷藝が叛き交州刺史李進を攻めて進を敗走させた。高祖は承旨程宝を派遣して討伐させたが、程宝は敗死し、廷藝は独立を保った(「愛州楊廷藝叛、攻交州刺史李進、進遁歸、遣承旨程寶攻廷藝、寶戰死」)。

楚との封州攻防戦・交趾(曲承美政権)征服・蒙州攻撃・937年の交州介入(皎公羨・呉権関連)は、対象がいずれも南漢に服属していない独立勢力(楚・曲承美旧政権・呉権配下)であり、反乱鎮圧の対象外として除外した。楊廷藝は930年の交趾征服で南漢配下の交州刺史体制下にあったと解される時点で叛いたため、唯一の服属民反乱として計上。

被反乱931年楊廷藝の反乱(愛州・交州の離反)

首謀者: 楊廷藝

結果: 南漢配下の交州刺史李進を攻めて敗走させ、鎮圧に派遣された程宝も敗死させて独立を保った。

rebellionSuppressionCountと同一事案。皇帝自身が攻撃主体だった先制攻撃(曲承美征服・蒙州攻撃等)や対等勢力(楚等)との戦争は除外。

大赦937年3月大有十年春三月、帝が病気快復したことにより大赦。

大有十年春三月、帝が病気快復したことにより大赦。「帝以疾愈大赦」。新五代史には対応記事なし(十国春秋のみに記載)。

出典: 十国春秋 巻五十八(南漢一・高祖本紀)

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