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前蜀(五代十国)第2代

後主王衍

在位 918–925年(7年156日)918年7月12日 〜 925年12月15日

日本は平安時代

王建の最年少の子で前蜀を継いだが、遊興に耽って後唐に降り、移送中に一族ごと殺された皇帝である。

後主の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 918年7月12日〜925年12月15日
7年156日長い順149位/365人18歳で即位(数え年)925年に在位を終え、1年後の926年に没
没年
926年28歳(数え年)長生き順同率197位/266人
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
  • 高祖前蜀後主は高祖の子
次代
—
呼び名
姓王諱衍字化源呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇后を立てた 3回多い順同率5位

出典

在位
資治通鑑 巻二百七十(即位)/資治通鑑 巻二百七十四(降伏)※新五代史 前蜀世家第三には日次記載なしのため資治通鑑で補完
死因
旧五代史(荘宗紀)/十国春秋 巻36(後主本紀)
即位経路
十国春秋 巻35-36(前蜀高祖本紀下・後主本紀)

生涯

どんな皇帝か

十国春秋の論は、政事に励み隣国と睦んでいれば国を延ばせたはずだとしつつ、蜀の滅亡で王氏の禍ほど烈しいものは無かったと結ぶ。

即位まで

王建の最年少の子で、顔が角張って口が大きく、垂らした手が膝を過ぎ、艶やかな文辞を作った。寵愛された母の徐氏がの唐文扆とともにに衍の相が最も貴いと言わせ、宰相の張格にも賛成させたので、兄たちを差し置いて太子に立てられた。918年に父が没すると即位した。

治世と最期

若くして荒淫で、政治を宦官の宋光嗣らに委ね、宣華苑を造り、さらに怡神亭を建てて狎客や婦人と日夜酒宴に耽った。微服で民間を出歩き、大きな帽子でそれと知られると国中に大帽をかぶらせた。後宮は酒がまわると冠を取って化粧を施し、酔妝と呼ばれて国中が真似た。錦の幕を連ねてをし、夜に船で帰るときは宮女に千余の蝋燭を持たせて前の船から水面を照らさせた。

後唐の荘宗が梁を滅ぼすと、成都の富と王衍の驕りを見た使者の李厳が蜀を伐つ策を献じた。王衍は宦官の王承休の妻の厳氏と通じていたので、群臣の切諫を聴かずに秦州へ行幸し、綿谷に至ったところで後唐軍が国境に入り、懼れて引き返した。将の王宗弼は唐軍に款を送り、成都で宦官らを殺して首を送った。925年、王衍は降伏した。

東へ移される途中、ただ一人いつも諫めていた宗寿に会うと、早く王の言に従っていれば今日はなかったと泣いた。926年、荘宗はの景進の進言を容れ、向延嗣を遣わして秦川駅で一族を殺させた。母の徐氏は、一国を挙げて降ったのに殺される、信義をともに捨てたと叫んだ。

史料について

降り方を、新五代史の前蜀世家は七里亭で面縛し棺を担いで降ったとし、同じ書の継岌伝と資治通鑑はで羊を牽き璧を銜えて昇仙橋(資治通鑑は昇遷橋)で降ったとする。資治通鑑は、王衍の一行を殺せという敕の字を張居翰が一家と改めたので、蜀のと従者千余人が免れたとする。

後主とつながる皇帝

五代十国の勢力図(918年)

勢力図

五代十国の勢力図で見る

918–924年の地図に、後主が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・皇后3・改元2・大赦2
  1. 皇后918年皇后を立てる
  2. 改元919年元号を「乾徳」とする
  3. 919年
  4. 皇后921年皇后髙氏が廃された直後、かつて乾徳初年に掖庭(後宮)に選ばれていた金氏(名飛山、成都の人)が皇后に冊立された(『及髙后废册立为皇后』)。
  5. 反乱925年王宗弼のクーデター(後唐降伏工作・衍幽閉)
  6. 改元925年1月24日( 924年12月27日)元号を「咸康」とする
  7. 925年1月27日
  8. 皇后日付不詳皇后に冊立された金氏はほどなく廃されたが(『寻亦坐废』)、貴妃銭氏の取り成し(『为力辨』)により中宮(皇后位)に復位した(『复正位中宫』)。

前蜀の歴代皇帝

歴代2人の一覧

年表

五代十国の時代を年表で見る

前蜀が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

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