後主・王衍
前蜀(五代十国)|在位 918–925年
- 諱(本名)
- 王衍
- 在位
- 918–925年
- 在位期間
- 7年158日365名中151位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 18歳(数え年)172名中・若い順65位タイ
- 没年齢
- 28歳(数え年)269名中・長寿順199位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 3回204名中5位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
正妃腹の兄が既に死去し、父帝崩御に伴う立太子子の正規継承。
出典: 十国春秋 巻35-36(前蜀高祖本紀下・後主本紀)
死因の経緯
後唐荘宗が伶人(景進)の進言を受け正式に勅命(詔)を発し、宦官・向延嗣を使者として派遣し秦川駅で王衍とその一族を処断させた。枢密使・張居翰が勅書の文字を改竄して助命者を出した経緯からも皇帝の勅命に基づく公的な処断であったことが裏付けられ、政権交代後の勝者による処刑と判定。
出典: 旧五代史(荘宗紀)/十国春秋 巻36(後主本紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
新五代史・前蜀世家の抄録記事(『衍立之明年,改元乾德』『是岁,衍改元曰咸康』)とも一致する。即位年(光天元年)は父帝高祖が定めた元号を継続使用したのみで衍自身の建元ではないため、上記固有ルールに従いカウント対象から除外した。
大赦回数
両大赦とも十国春秋に明記されており、新五代史・前蜀世家の抄録記事(『乾徳元年正月、祀天南郊、大赦』)とも整合する。これ以外に本紀中で「大赦」「大赦天下」の語が用いられた箇所は確認できなかった(部分的な減刑・降罪等の記事は含めていない)。
立后回数
髙氏の冊立・廃后は本紀(巻37)にも明記され新五代史の記事とも矛盾しないが、金氏の冊立・一時廃后・復位のエピソードは十国春秋の后妃列伝(巻38)にのみ記載されており、新五代史・旧五代史・蜀梼杌の現存部分には該当記事が見当たらない単独史料である点に留意(史料の性質上、十国春秋は各種史書・野史を博捜して編纂されたものであり、信頼性は高いと考えられるが裏取りが取れないためconfidenceはmediumとした)。
皇太子廃立回数
王衍自身の在位期間中(光天元年6月~咸康元年11月)に皇太子・皇太弟等の法定推定継承者が立てられた記録は本紀・列伝いずれにも見当たらず、廃立の事実も確認できない。王衍自身は同光四年(926年)に一族もろとも処刑されており、後継の皇太子を立てる前に前蜀は滅亡した。なお王衍自身が皇太子であった時期(高祖在位中)の立太子・即位に関する記述はあるが、これは王衍が廃されたものではなく該当しない。
親征回数
在位中(918年6月即位~925年11月後唐へ降伏)、王衍が自ら軍を率いて出陣した記録は本紀・世家中に見当たらない。咸康元年(925年)冬、王承休の妻に会うため秦州へ行幸した際に後唐軍の侵攻(魏王継岌・郭崇韬による伐蜀)に遭遇したが、衍自身は「衍至绵谷而唐师入其境,衍惧,遽还」と恐れて成都へ引き返しただけで、防衛は王宗弼・王宗勋・王宗俨・王宗昱ら将軍に委任しており、自ら戦場で指揮を執った事実は確認できない。北巡(乾徳2年、920年、西県への行幸)や上清宮参詣等も軍事親征ではなく巡幸・宗教儀礼の類。
反乱鎮圧回数
在位期間中、皇帝側(衍側)が鎮圧の主体となった反乱鎮圧の記録は本紀・世家中に見当たらない。咸康元年末の王宗弼によるクーデター(下記rebellionSufferedCount参照)は前蜀滅亡(衍の降伏)に至るまで鎮圧されずに終わっており、これも計上対象外(未鎮圧のまま在位終了に該当)。
被反乱回数
本紀・世家を通読し、王衍在位中に確認できた「服属する権力者による兵力を伴う離反・クーデター」は王宗弼の1件のみ。他に節度使等による離反・武装蜂起の記録は見当たらない。なお後唐(魏王継岌・郭崇韬)による前蜀への侵攻自体は対等な独立政権間の統一戦争にあたるため、rebellionSuppressionCount・rebellionSufferedCountいずれにも含めていない(personalCampaignCountの検討対象だが、衍自身の親征には該当しないため0件)。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して成都が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存データ(十国春秋 後主本紀の直接記載)を踏襲: 「光天元年六月癸卯嗣皇帝位時年十八」(918年即位時18歳)、「延嗣至長安殺帝及宗族於秦川駅…帝時年二十八也」(926年死亡時28歳)。ただし両記載から逆算した生年(918-18+1=901年 vs 926-28+1=899年)が2年食い違う内部矛盾があり、いずれが正確か原典未確認のため確定できずconfidenceをhighからmediumへ修正。また既存noteは死亡年を「同光三年(926年)」としていたが、手元の一次史料(新五代史・前蜀世家)では「同光四年四月,行至秦川驿…遣宦者向延嗣诛其族」と明記されており、同光三年は925年・同光四年が926年に当たるため、正しい紀年は「同光四年(926年)四月」である旨を訂正した(実際の没年926年自体は変更なし)。生年月日そのものの直接記載は見当たらず不明。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳光天元年十二月辛酉、来年正月に南郊祭祀を行うことを詔し、あわせて明年の元号を「干徳」と改めることを定めた(『诏来年正月有事于南郊,改明年元曰干徳』)。
光天元年十二月辛酉、来年正月に南郊祭祀を行うことを詔し、あわせて明年の元号を「干徳」と改めることを定めた(『诏来年正月有事于南郊,改明年元曰干徳』)。干徳元年正月より施行。なお衍の即位(光天元年六月)自体は、高祖が崩御直前(前年の天汉元年十二月)に定めていた「光天」の元号をそのまま継続使用したものであり、衍自身による建元・改元には当たらないためカウントに含めていない。
出典: 十国春秋 巻37(前蜀三・後主本紀)
改元日付不詳干徳六年十二月辛卯、明年の元号を「咸康」と改める詔を発した(『改明年元曰咸康』)。
干徳六年十二月辛卯、明年の元号を「咸康」と改める詔を発した(『改明年元曰咸康』)。咸康元年正月甲午朔より施行。前蜀は同年(咸康元年)冬に後唐により滅ぼされたため、咸康が衍在位中最後の元号となった。
出典: 十国春秋 巻37(前蜀三・後主本紀)
大赦日付不詳干徳元年正月辛巳、南郊にて天を祀り「大赦国内」。
干徳元年正月辛巳、南郊にて天を祀り「大赦国内」。群臣より尊号「聖徳明孝皇帝」を奉られた。
出典: 十国春秋 巻37(前蜀三・後主本紀)
大赦日付不詳咸康元年正月甲午朔、朝賀を受け「大赦」。
咸康元年正月甲午朔、朝賀を受け「大赦」。同日、咸康元宝銭を鋳造。前蜀滅亡(同年冬)直前、在位中最後の大赦。
出典: 十国春秋 巻37(前蜀三・後主本紀)
立后日付不詳衍は皇太子であった時期に高祖により高知言の娘・髙氏が皇太子妃に冊立されており、衍の即位(光天元年六月)に伴い「册立髙氏为皇后」として皇后に立てられた。
衍は皇太子であった時期に高祖により高知言の娘・髙氏が皇太子妃に冊立されており、衍の即位(光天元年六月)に伴い「册立髙氏为皇后」として皇后に立てられた。十国春秋の校注は、異本『蜀梼杌』が『立妃周氏为皇后』とする記述について、通鑑綱目の記事(乾徳三年正月「蜀廢其后髙氏」)と照合し『高氏』が正しいと考証しており、本件は高氏の冊立とみなす。
出典: 十国春秋 巻37(後主本紀)・巻38(前蜀四・列伝・后妃「廢后髙氏」)
立后日付不詳干徳三年正月甲寅、皇后髙氏が廃された直後、かつて干徳初年に掖庭(後宮)に選ばれていた金氏(名飞山、成都の人)が皇后に冊立された(『及髙后废册立为皇后』)。
出典: 十国春秋 巻38(前蜀四・列伝・后妃「皇后金氏」)
立后日付不詳皇后に冊立された金氏はほどなく廃されたが(『寻亦坐废』)、貴妃銭氏の取り成し(『为力辨』)により中宮(皇后位)に復位した(『复正位中宫』)。
皇后に冊立された金氏はほどなく廃されたが(『寻亦坐废』)、貴妃銭氏の取り成し(『为力辨』)により中宮(皇后位)に復位した(『复正位中宫』)。廃后後の復位にあたるため別カウントとした。金氏はその後、咸康元年(925年)の前蜀降伏に従い後唐へ赴き、そこで死去した。
出典: 十国春秋 巻38(前蜀四・列伝・后妃「皇后金氏」)
被反乱日付不詳王宗弼のクーデター(後唐降伏工作・衍幽閉)
首謀者: 王宗弼(本姓魏、名弘夫。前蜀の判六軍=最高軍事長官)
結果: 後唐軍侵攻時、衍から绵谷防衛を命じられていた判六軍・王宗弼は、衍の討伐命令(望風退却した王宗勋らを誅殺せよとの詔)に反して王宗勋らと共謀し後唐軍へ投降(送款于唐师)。その後成都へ戻り、太玄門にて衍の側近(成都尹・韓昭、宦官の宋光嗣・景潤澄・欧陽晃ら)を武力で捕らえ殺害し、その首級を魏王継岌に送った。衍はやむなく上表して降伏し、宗弼は衍を天啓宮へ移し事実上幽閉した。前蜀はまもなく滅亡し、この反乱(クーデター)は皇帝側により鎮圧されないまま衍の在位が終了した。
軍中の最高権力者(判六軍)による兵力を伴うクーデターであり、対等勢力(後唐)との統一戦争そのものとは別に、服属する軍事指揮官の離反・武力行使として被反乱側にのみ計上する運用基準(パターン4)に該当。後唐継岌に投降した宗弼自身は新王朝樹立側ではなく前蜀の重臣であるため、accessionRoute領域(次代皇帝の即位前行為)には該当しない。