高祖・王建
前蜀(五代十国)|在位 907–918年
- 諱(本名)
- 王建
- 在位
- 907–918年
- 在位期間
- 10年253日365名中127位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 61歳(数え年)172名中・若い順168位タイ
- 没年齢
- 72歳(数え年)269名中・長寿順8位
- 改元
- 5回332名中18位タイ
- 大赦
- 11回267名中27位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
唐滅亡後、後梁に服さず自立して皇帝を称した。
出典: 新五代史 巻63(前蜀世家第三)
死因の経緯
長期の病臥ののち死去したとする記述が主流。孫光憲『北夢瑣言』に基づく毒殺説(徐妃・張格による鴆殺)も併記されるが、劉恕は旧史の記録と照合し「似誤」と否定的評価を下している。
出典: 十国春秋 巻35(前蜀高祖本紀下)/新五代史 巻63(前蜀世家第三)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
王建は天復七年(907年)九月己亥に皇帝に即位したが、この時点では唐から隔絶していたため唐の旧年号「天復」をそのまま使用し続けた(改元せず)。翌年(天復八年に相当)正月にはじめて自らの年号「武成」を建元しており、これが即位に伴う実質的な最初の建元にあたる。以降、在位中に永平・通正・天漢・光天と改元し、あわせて5回。なお通正元年末の改元では国号を「大漢」に、天漢元年末の改元では国号を「蜀」に変更しているが、これらは国号変更であり改元回数には含めていない(年号自体はそれぞれ天漢・光天に改まっている)。王建は皇帝即位前(西川節度使・蜀王時代)は一貫して唐の年号を使用しており、自ら建元したことはないため、二段階即位パターンの注記(【皇帝即位前】等)は不要と判断した。
大赦回数
十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)を主典拠として、皇帝在位期間(天復七年九月~光天元年六月、907~918年)中に「大赦」「大赦境内」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦を全て収録。うち5回は改元の詔と同時に発せられたもの(武成・永平・通正・天汉・光天の各建元時)で、他6回は改元と無関係の独立した大赦(永平二年五月・永平三年二月・永平五年正月受蛮俘時・永平五年十一月宮中火災後・通正元年十二月己亥・光天元年正月朔の国号「蜀」復帰時)。新五代史 巻六十三(前蜀世家第三)は簡略で武成建元時・永平建元時・通正/天汉/光天建元時の4回の大赦のみを記すが、より詳細な十国春秋の記載を優先し11回とした。武成元年正月の赦文には「可大赦天下」の語もあり、この1件は同一の大赦を指す(重複計上せず)。
立后回数
王建の在位中、正式に皇后として冊立された記録は周氏の一例のみ。武成元年八月丙子、「册立皇后周氏」と原文に明記。同年十月には張氏を貴妃、徐氏を賢妃、その妹を徳妃としたが、いずれも妃嬪であり皇后ではないため計上しない。永平元年十二月丁巳には皇后周氏に「昭圣皇后」の尊号を加えた記事があるが、これは新たな冊立ではなく既立の皇后への尊号加上であるため別カウントしない。周氏の廃后・再冊立の記録はない(新五代史も「建正室周氏号昭圣皇后」とのみ記し、王建の死後数日で周氏も薨去したとする)。
皇太子廃立回数
王建は在位中に複数回皇太子を立てたが(武成元年六月に遂王宗懿=後の元膺を立太子、永平三年十月に郑王宗衍=後の王衍を立太子)、正式な皇太子の地位を「廃した」と原文に明記される事例は元膺の一件のみ。元膺は永平三年七月、内枢密使唐道袭との対立から兵を挙げたが敗れて逃亡・誅殺され、その直後に「詔追廃太子元膺為庶人」(詔して太子元膺を追廃し庶人と為す)と原文に明記されている。死亡後の追廃ではあるが、皇太子の地位を正式に剥奪する詔勅である点で「廃立」の定義に該当すると判断した。
親征回数
新五代史 巻六十三(前蜀世家第三)を通読。皇帝在位期間(907年9月~918年6月)中に「建自将」と明記され皇帝自身が軍を率いた事例は、武成三年(910年)の対岐(李茂貞)戦一回のみ。他の対外・対岐戦(永平五年の対岐遠征、通正元年の対岐遠征、荆南・南蛮への対応)はいずれも王宗俦・王宗綰・嘉王宗寿・夔王宗範ら将軍の派遣のみで皇帝自身の出陣ではないため計上しない。即位前(天復七年、梁討伐を呼びかける檄文を発した件)は実際の挙兵に至らず不応であった上、皇帝即位前の行為でありaccessionRoute領域のため対象外。
反乱鎮圧回数
新五代史 巻六十三(前蜀世家第三)を通読。在位期間中、皇帝側(政権側)が主体となって鎮圧した反乱は永平三年(913年)の皇太子元膺の乱一回のみ。武成元年(908年)の王宗佶粛清は宗佶が実際に挙兵する前に建が衛士に命じて撲殺した先制的処断であり、相手が反乱を起こしていない事例のため計上しない。光天元年(918年)崩御直前の宦官唐文扆の陰謀(「谋尽去建故将」)も密告・摘発のみで実際の挙兵に至らず殺害されており計上しない。荆南・南蛮の侵攻は服属していない対等勢力・外国勢力による攻撃であり反乱ではない。
被反乱回数
皇帝に対して起こされた挙兵は永平三年(913年)の皇太子元膺の乱一回のみ確認。rebellionSuppressionCountと同一の事案であり、鎮圧側(建)・被反乱側(皇帝建自身)のいずれの視点でも同じ1件として計上される。王宗佶粛清(建による先制的処断)・崩御直前の唐文扆陰謀(挙兵前に摘発・殺害)はいずれも実際の兵力行使に至っていないため計上しない。
遷都回数
十国春秋を通読。一貫して成都が都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
既存データを再検証し維持。十国春秋 前蜀一(高祖本纪上)天復七年即位条に「帝以夘年生、至是丁夘即位」とあり卯年生まれと明記。十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)光天元年六月崩御条に「在位十二年、年七十二」と明記(本corpusの新五代史でも「建卒、年七十二」と一致)。年七十二から逆算した生年847年(丁卯年)は「夘年生」の記載と正確に一致し高確度。ただし生年そのものの直接記載はないためbirthDatePrecisionは推定扱い。deathAge=72・deathDate(918年6月)は原文に直接記載。
在位中の出来事(21件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元908年1月武成元年正月壬午(正月十日)、天復八年を大蜀武成元年と改める。
武成元年正月壬午(正月十日)、天復八年を大蜀武成元年と改める。即位(天復七年九月)翌年の正月に行われた、皇帝即位に伴う最初の建元(逾年改元)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦908年1月武成元年正月壬午(正月十日)、南郊にて天地を祀り、大赦境内・改元して武成元年とする。
武成元年正月壬午(正月十日)、南郊にて天地を祀り、大赦境内・改元して武成元年とする。皇帝即位(天復七年九月)に伴う最初の建元と同時の大赦。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
立后908年8月武成元年八月丙子、皇后周氏を冊立。
武成元年八月丙子、皇后周氏を冊立。永平元年十二月に「昭圣皇后」の尊号を加上(別冊立ではない)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
親征910年岐(李茂貞)
対象: 岐(李茂貞)
結果: 勝利(岐兵敗走、建は興元より成都へ帰還)
武成三年、岐王李茂貞との山南故地をめぐる交渉が決裂した後、王宗侃を北路都統として岐を攻めさせたが青泥で敗れ西県に退き岐兵に包囲された。建は自ら出陣してこれを撃破し、興元に至って帰還した(「建自将击之,岐兵败,解去,建至兴元而还」)。原文では武成三年八月~十二月の記事群の中に配置され正確な月の記載はないため年精度とした。
改元910年12月武成三年十二月辛巳、翌年(武成四年)を永平元年と改元する詔。
武成三年十二月辛巳、翌年(武成四年)を永平元年と改元する詔。武成から永平への改元。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦910年12月武成三年十二月辛巳、大赦し翌年を永平元年と改元する詔を発す。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦912年5月永平二年五月己丑、大赦境内(改元とは無関係の独立した大赦)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦913年2月永平三年二月壬午、大赦(独立した大赦)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
皇太子廃立913年7月永平三年七月己酉、皇太子元膺(宗懿の改名後の名。
永平三年七月己酉、皇太子元膺(宗懿の改名後の名。内枢密使唐道袭を誣告により誅殺し兵を挙げるも敗れ、衛兵に殺害された)につき、「詔追廃太子元膺為庶人」(死後に皇太子の地位を追廃し庶人とする詔)。同年十月、郑王宗衍が新たに皇太子に立てられた。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
反乱鎮圧913年7月元膺の乱
首謀者: 元膺(皇太子、本名宗懿)
結果: 鎮圧成功(元膺は逃亡後、衛兵に殺害された)
永平三年七月、皇太子元膺は寵臣・内枢密使唐袭との対立から兵を挙げ、潘峭・毛文錫を捕らえて笞刑に処し、幽閉した上で大将徐瑶・常謙を率いて神武門で唐袭の軍と交戦、唐袭を敗死させた。建は王宗賀に兵を率いさせて討伐させ、元膺の軍は敗走・潰散した。元膺は跃龍池の欄干の中に隠れたが翌日発見され、建が派遣した王宗翰の招諭が届く前に衛兵に殺害された。
被反乱913年7月元膺(皇太子、本名宗懿)の反乱
首謀者: 元膺(皇太子、本名宗懿)
結果: 鎮圧され敗死
永平三年七月、皇太子元膺が内枢密使唐袭との対立から天武兵ら自身の兵力を率いて挙兵し、潘峭・毛文錫を捕縛・笞刑に処した上で神武門にて唐袭の軍と交戦しこれを敗死させた。建は王宗賀の軍を派遣して鎮圧し、元膺は敗走の末に捕らえられる前に衛兵に殺害された。死後「詔追廃太子元膺为庶人」の詔が発せられている(crownPrinceDepositionCountと同一事案)。
大赦915年1月永平五年正月己亥、得賢門にて蛮(南蛮)の捕虜を受け、大赦(独立した大赦)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦915年11月永平五年十一月壬戌、宮中火災(己未夜)の後、大赦(独立した大赦)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
改元915年12月永平五年十二月丁未、翌年(永平六年)を通正元年と改元する詔。
永平五年十二月丁未、翌年(永平六年)を通正元年と改元する詔。永平から通正への改元。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦915年12月永平五年十二月丁未、大安門にて秦・鳳・階・成四州平定の捕虜を受け、大赦境内・翌年を通正元年と改元する詔を発す。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
改元916年12月通正元年十二月戊申、翌年を天漢元年と改元し、あわせて国号を「大漢」に改める詔。
通正元年十二月戊申、翌年を天漢元年と改元し、あわせて国号を「大漢」に改める詔。通正から天漢への改元(国号変更は改元回数に含めない)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦916年12月通正元年十二月己亥、大赦(独立した大赦、後述の戊申の「再大赦」に先立つもの)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦916年12月通正元年十二月戊申、「再大赦」し翌年を天漢元年・国号を大漢と改める詔を発す(改元・国号変更に伴う大赦)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
改元917年12月天漢元年十二月癸丑、翌年を光天元年と改元し、あわせて国号を「蜀」に復する詔。
天漢元年十二月癸丑、翌年を光天元年と改元し、あわせて国号を「蜀」に復する詔。天漢から光天への改元(国号変更は改元回数に含めない)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦917年12月天漢元年十二月癸丑、劉知俊を誅殺した後、大赦し翌年を光天元年・国号を蜀に復す詔を発す。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)
大赦918年1月光天元年正月乙亥朔、大赦し国号を蜀に復す(前年十二月の詔とは別に、新年当日にも改めて大赦)。
出典: 十国春秋 前蜀二(高祖本紀下)