前蜀(五代十国)第1代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
高祖王建
在位 907–918年(10年250日)907年11月3日 〜 918年7月11日
日本は平安時代
盗賊上がりから唐末の四川を押さえ、唐が滅ぶと帝を称して前蜀を建てた皇帝である。
高祖の人物データ
- 生年
- 847年
- 在位
- 蜀王903年〜907年
- 皇帝907年11月3日〜918年7月11日
- 没年
- 918年7月11日72歳(数え年)長生き順8位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 後主前蜀後主は高祖の子
- 呼び名
- 姓王諱建字光図呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
出典
- 在位
- 新五代史 前蜀世家第三/資治通鑑 巻二百七十
- 死因
- 十国春秋 巻35(前蜀高祖本紀下)/新五代史 巻63(前蜀世家第三)
- 即位経路
- 新五代史 巻63(前蜀世家第三)
生涯
どんな皇帝か
資治通鑑は、直言を容れ倹素だった一方、疑い深く殺しを好み、功ある将の多くを口実を設けて誅したと評する。
即位まで
許州舞陽の人で、若いころは牛の屠殺や驢馬泥棒、塩の密売で暮らし、郷里で賊王八と呼ばれた。忠武軍の兵から都頭兵の一隊を率いた隊長となり、唐の僖宗のもとへ走って宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の田令孜の養子になった。僖宗が興元へ移る途中、焼けかけた桟道で僖宗の馬を引いて抜け、僖宗は王建の膝を枕に眠り、目覚めると泣いて御衣を与えた。成都を攻めると、城に登った田令孜に父子の恩を説かれたが、代わりを受け入れない者を討つのは天子の命だと答えた。令孜から節度使地方の軍と政治をにぎった長官の印を受けて成都に入り、のち陳敬瑄と令孜をともに死なせた。両川と山南西道、三峡を併せ、907年に唐が滅ぶと皇帝の位に即いた。盗賊上がりだが士人を厚く遇し、用いたのはみな唐の名臣や世族代々高い官職を出してきた名家だった。
史料について
出身地を、新五代史は許州舞陽、旧五代史は陳州項城とする。陳敬瑄と田令孜の最期を、新五代史は王建が人を遣って敬瑄を殺させ、令孜もやがて殺したとし、資治通鑑は告発させて敬瑄を殺し令孜は獄で死んだとし、旧五代史は令孜が獄中で餓死したとする。
治世と最期
908年、大司馬軍事をつかさどる、最高位の大臣の一つの位を重ねて求めた養子の王宗佶を、唐襲にすぐ与えるよう勧められていよいよ疑い、衛士宮中や身分の高い人を守る兵士に撲殺させた。913年、唐襲が兵を呼び入れたと聞いた太子の元膺は、誅されると思って兵を挙げ、唐襲は流れ矢に当たって死んだ。元膺は敗れて隠れ、王建がなだめに遣わした宗翰が着く前に衛兵に殺された。王建は雅王か信王を立てたかったが、寵愛する徐賢妃皇帝の妃の位の一つの子で末子の宗衍を、皆が望んでいると思わされてやむなく太子にした。
晩年は徐氏の姉妹を寵愛し、宦官の唐文扆が禁軍宮中や都を守る、皇帝直属の軍を握った。918年、太子と諸王王に取り立てられた皇族たちが闘鶏や撃毬馬に乗り、つえで球を打ち合う遊びに騒ぐ声を聞いて、百戦して立てた基業をこの連中が守れようかと嘆いた。
同じ年、王建が病むと文扆は旧将を除こうと図ったが、王宗弼らが門を押し開いて入った。病の重い王建は大臣を寝殿に召し、太子が大業に堪えなければ殺さないでくれと頼み、徐妃の兄弟には兵も政も預けるなと命じた。文扆は退けられ、王建はまもなく没した。
史料について
宗衍を立てた経緯は資治通鑑にある。唐文扆を、新五代史は宗弼らが押し入ったときに殺されたとし、資治通鑑は生前は流しただけで殺したのは王建の死後とする。新五代史・旧五代史と資治通鑑の本文は毒殺に触れない。資治通鑑の考異は唐文扆らが焼餅に毒を入れた話を引くが、劉恕は文扆が退けられて27日後の死だとして誤りを疑った。
高祖とつながる皇帝

勢力図
五代十国の勢力図で見る
907–918年の地図に、高祖が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征1・皇后1・皇太子1・改元5・大赦11
- 改元908年元号を「武成」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。908年南郊にて天地を祀り、大赦境内・
改元して武成元年とする。 - 皇后908年皇后周氏を冊立。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。910年岐(李茂貞)
- 改元911年元号を「永平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。911年大赦し翌年を永平元年と改元する詔を発す。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。912年大赦境内(改元とは無関係の独立した大赦)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。913年大赦(独立した大赦)。
- 皇太子913年皇太子を廃する
- 反乱913年元膺(皇太子、本名宗懿)の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。915年得賢門にて蛮(南蛮)の捕虜を受け、大赦(独立した大赦)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。915年宮中火災(己未夜)の後、大赦(独立した大赦)。
- 改元916年元号を「通正」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。916年大安門にて秦・
鳳・ 階・ 成四州平定の捕虜を受け、大赦境内・ 翌年を通正元年と改元する詔を発す。 - 改元917年元号を「天漢」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。917年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。917年
- 改元918年1月23日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 917年12月8日)元号を「光天」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。918年1月23日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 917年12月8日)劉知俊を誅殺した後、大赦し翌年を光天元年・
国号を蜀に復す詔を発す。 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。918年2月14日大赦し国号を蜀に復す(前年十二月の詔とは別に、新年当日にも改めて大赦)。
前蜀の歴代皇帝
歴代2人の一覧- 第1代高祖907–918年病死
- 第2代後主918–925年処刑
年表
五代十国の時代を年表で見る
前蜀が